明治三十五年(1902年)12月7日は、日本赤十字社を創設した佐野常民(つねたみ)が亡くなった日です。
やはり日本赤十字関連の話が有名な人ですが、明治初期のお偉いさんとして、他にもいろいろやっていたりします。
例によって他のことも絡めつつ、生涯を追いかけていきましょう。
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藩主に気に入られてお勉強 大村益次郎にも出会う
常民が生まれたのは、文政六年(1823年)。
幕末前ながら、まだ江戸幕府が割と平穏だった頃です。
父親が佐賀藩士だったので、前半生は佐賀藩に何かと影響を受けていました。
藩医の養子となったことがきっかけで、前藩主・鍋島斉直に気に入られて名付けてもらったりもしています。いわゆる「殿様の覚えめでたく」というやつですね。
そのおかげで、藩校での学問と同時に、医術を学ぶことができました。
本人としても武術や政治よりは学問が性に合っていたようで、結婚した後も京都・大坂・紀伊などで私塾に入って学んでいました。
「奥さんほったらかしはマズくね?」という気もしますが、その時期には大村益次郎など、明治維新に一役買うようになる人々とも出会っていたりして、全くの無駄でもありません。
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しかし、江戸で学んでいた頃に勤王思想に傾きかけ、佐賀藩から「そんな子に育てた覚えはありません! 戻ってらっしゃい!」(超訳)といわれて国元に戻ることに。
佐賀藩は倒幕派にも佐幕派にも傾かないような態度を取っていたので、将来有望な常民が勤王家になってしまうのはマズかったのです。そりゃそうだ。
長崎海軍伝習所の一期生となり後にパリへ
かくして九州に戻った常民は、幕府が作った長崎海軍伝習所の一期生になった後、西洋式ボイラーの作成に携わったり、海軍関連のことをやるようになりました。
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学者さんなのか軍人なのかよくわからん感じですね。
これは佐賀藩主・鍋島直正の意向もあったと思われます。
直正は割と思い切った性格の人で、(テンプレのように)隠居してもなお実権を握る父・鍋島斉直(なりなお)に堂々と逆らったり、役人を1/5にまで削減&産業奨励で藩の財政を回復させたりしました。
そういう人が上司だったからこそ、常民は多方面の知識をみにつけることができたわけです。
もともと頭のいい人って、何を勉強しても一通りは身につけてしまうものですし。うらやましい。
次に常民が命じられたのは、パリ万博に参加して西洋の技術を見聞してくることでした。
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もちろんその役目もきちんとこなし、最も衝撃を受けたのは、当時発足したばかりの赤十字でした。
常民は、ここから人道的活動にも関わってきます。
と言っても、しばらくは別の仕事をしていました。
当時はヨーロッパへ行くにも数ヶ月かかる時代ですから、西洋を直に見てきた人は貴重な人材。
行ってきたからには、個人の意向よりも国のためにその知識を役立てねばなりません。
「赤十字のような組織が日本にも必要だ」
常民はまず「ヨーロッパの万博にならって、日本でも国内の技術や製品を展示する会を開こう」と、国内博覧会を開きました。
これが認められてウィーン万博の際も渡航。
何かと博覧会の話題で登場するため、常民に「博覧会男」というあだ名がついたといいます。
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同時期から政治的な役目にも就くようになり、その中で西南戦争が起こります。
戦場の状況を伝え聞いた常民は「今こそ、赤十字のような組織が日本にも必要だ」と考え、政府に許可を求めます。
しかし、明治政府からすれば「政府に逆らう奴を助けるとか、頭大丈夫か?」ってなもんで。
常民の思い描く組織は実現不可能かに見えました。
ここで、当時政府軍のトップだった有栖川宮熾仁親王(元・和宮の婚約者)が「敵も味方も助けようというその志は素晴らしい」と同意してくれて、常民の申し出を許可します。
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熾仁親王は戊辰戦争時も新政府軍のトップを務めていましたので、かつて幕下にいた西郷隆盛や薩摩の兵と戦うことに対し、多少なりとも思うところがあったのでしょう。
こうして、日本赤十字社の前身である博愛社が熊本で発足。
「日本赤十字」と改称したのは明治二十年(1887年)で、同年に国際赤十字に加盟しました。
発足したきっかけである西南戦争はもちろん、常民の存命中だけでも明治二十一年(1888年)の磐梯山噴火、日清戦争、義和団の乱など、国内外問わず救護活動を行っています。
磐梯山噴火のときは、それまで国際赤十字でもやっていなかった「天災時の出動」を初めて行った例となりました。
これにより、赤十字の活動は「戦時及び天災時の人命救護」となったわけです。
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