蘇我倉山田石川麻呂

乙巳の変を描いた『多武峰縁起絵巻』/wikipediaより引用

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蘇我倉山田石川麻呂の自害|従兄弟の入鹿を殺した乙巳の変では功労者だったが

2024/03/24

大化五年(649年)3月25日は、蘇我倉山田石川麻呂が亡くなった日です。

その名前、実に漢字が九文字もあり――どこをどう読めばいいのか、一瞬わからなくなってしまいますよね。

「そがの・くらやまだの・いしかわまろ」と読みます。

つまり蘇我氏の一員です。

蘇我氏といえば「むじこの世づくり」こと、大化元年(645年)の乙巳の変~大化の改新で排斥されたはず。

縁者である石川麻呂は一体どうしたのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

 


蝦夷の甥っ子=つまり入鹿とはイトコ

石川麻呂は蘇我蝦夷の甥で、入鹿とは従兄弟同士です。

つまり、蘇我氏全盛時代には、それなりの高い地位にいたことになります。

実際、乙巳の変の際、皇極天皇の御前で朝鮮使者の手紙を読み上げていたのは石川麻呂でした。

むろん石川麻呂は暗殺計画にも関わっており「この手紙を読み上げたら、中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を暗殺する」ということを知っています。

しかしなかなか刺客が入ってこないので、石川麻呂は緊張が増すばかり。

ついに震え始めたところを、入鹿に見咎められるほどだったといいます。

アニィたかはし「日本史ブギウギ」より

 


中大兄皇子が躍り出て入鹿の首をはねた

古代のことですので、どこまで本当かは分からないにしても、リアルですよね。

石川麻呂は「帝の御前ですので」と取り繕いましたが、それだけで入鹿が安心するわけもありません。

そこに思い切った中大兄皇子が、自ら躍り出て入鹿の首をはねた――というわけです。

残念ながら、この「入鹿の首が刎ねられた」場面(TOP画像)を描いた『多武峰縁起絵巻・乙巳の変』に石川麻呂は描かれていません。

まぁ、この絵自体が江戸時代のものですが、こういうものに描かれているかどうかで、知名度はだいぶ変わってきますよね。

では、乙巳の変後の石川麻呂はどうなったか?

 

改新後はNo.3の右大臣に任命される

中大兄皇子は、蘇我蝦夷・蘇我入鹿の排斥に石川麻呂の功があったとして、改新後は石川麻呂を右大臣に任じました。

右大臣といえば、臣下の地位としてはナンバー3。

おそらくは、石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)と姪娘(めいのいらつめ)が中大兄皇子の妃だったからという点も大きかったと思われます。

皇后ではないにしろ、次期天皇の妃の父となれば、政治的には絶大な地位です。

しかし、石川麻呂はたった数年でその立場どころか、命まで失うことになります。

異母弟の日向が「大変です! ウチの兄がお上に謀反を企んでいるようです!」(※イメージです)と孝徳天皇(皇極天皇の弟かつ中大兄皇子の叔父で先に即位した人)に讒言したのです。

いくら古代のこととはいえ、これだけではさすがに「なんだと! すぐ石川麻呂を討伐しなければ!」とはなりません。

孝徳天皇は事の真偽を確かめるため、石川麻呂に使者を送りました。

本当に謀反を企んでいたら、それこそまともに答えても答えなくても同じような気がしますがね。

石川麻呂の答えは、どちらでもありませんでした。使者に対し「お返事は帝の御前で、直に申し上げます」と言ったのです。

孝徳天皇は不思議に思い、もう一度使者を送りましたが、石川麻呂の返答は同じ。なんでそこまで「帝の御前」にこだわるのかがひっかかりますよね。

なんせ石川麻呂は、かつて先帝の御前で要人の暗殺に関わった人物なのです。「もしやアイツ……」と思われても仕方がないのに、なぜそんなに意地を張ったのでしょう。

 


妻子と共に山田寺へ 自害する

孝徳天皇も怪しみ、石川麻呂に兵を差し向けました。

が、石川麻呂は妻子とともに屋敷から逃げ、山田寺(現・奈良県桜井市)に籠もり、自害したといわれています。

山田寺仏頭(現在はワケあって興福寺に)/wikipediaより引用

讒言からの一連の流れは「中大兄皇子と鎌足の陰謀」という説がありますが、それにしたって何だかおかしな話です。

最初から蘇我氏を根絶やしにするつもりなら、乙巳の変の時点でまとめてブッコロしてしまったほうが話が早かったはずですし、一度、右大臣にしてやる意味もわかりません。

というか、乙巳の変そのものが「蘇我氏一族の内部抗争も含んでいた」という指摘もございます。

讒言をした日向はその後、大宰府の長官に任じられていました。

栄転とも見えますが、当時の大宰府任官といえば、半分は左遷といっても過言ではありません。

また、石川麻呂の遺品や屋敷の様子からも、謀反の証拠となるものはまったく見つからなかったといいます。

石川麻呂の謀反がデタラメだったとすれば、彼を討つことによって得をする人がいたはずです。

が、現実にはそうではありません。

全くの誤解であったにしては、日向への処罰が軽すぎるようにも思えます。

古代のことという点を差し引いても、パズルのピースが二つ三つは欠けているような、そんな印象を持つのはワタクシだけでしょうか。

石川麻呂の墓と言い伝えられているところや、推定されているところが数カ所ありますので、調査が進むことを期待したいところです。

中大兄皇子と中臣鎌足に暗殺される蘇我入鹿
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【参考】
国史大辞典
蘇我倉山田石川麻呂/wikipedia
乙巳の変/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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