永倉新八

大正二年に札幌で撮影された最晩年の永倉新八(前列中央)/wikipediaより引用

幕末・維新

永倉新八こそが新選組最強の剣士か|最後は近藤と割れた77年の生涯

2025/01/04

「壬生狼だッ!」

「逃げろ!」

そんな台詞を聞けば、幕末時代劇好きの方ならすぐにピンと来られるでしょう。

新選組の登場シーンであり、恐ろしい剣技を持つ彼らは狼のように恐れられていました。

江戸期の比較的平和な時代を経て、スポーツと化していた当時の武士剣術。

これに対し、荒々しくパワー溢れる殺人剣を継承していたのが、西では薩摩の示現流や薬丸自顕流であり、東の頂点が新選組の天然理心流だったのです。

相手を殺傷することを厭わない剣術をマスターしていた新選組。

その中でもトップ3となれば、実質的に幕末の最強剣士候補に入るでしょう。

ではその3名とは?

◆夭折の天才
沖田総司

◆謎めいた剣士
斎藤一

◆がむしゃらな江戸っ子
永倉新八

今回は、そんな狼たちの中でも僅差で一位ではないか? と評価された。

大正4年(1915年)1月5日が命日である永倉新八にスポットを当てたいと思います。

 


松前藩士なれど生粋の江戸っ子でぇ!

永倉新八のことを愛した作家に、粋な江戸情緒を大切にした池波正太郎がいます。

池波が、永倉を気に入った理由として、

「三味線堀の水で産湯を使った、生粋の江戸っ子でえ!」

としておりました。

永倉は松前藩士の子とはいえ、生まれも育ちも江戸。気質も江戸っ子らしさに溢れていたのです。

そんな永倉新八が誕生したのは、天保10年(1839年)のこと。

近藤勇の5才下であり、土方歳三の4才下にあたります。

父は松前藩江戸定府取次役で150石の長倉勘次で、幼少期は栄治と呼ばれていました。

松前藩は蝦夷地に領地を持ち、アイヌとの交易で潤った、幕藩体制でも例外的な藩です。

松前城

ただし、江戸定府取次役の息子では、蝦夷地を踏むような経験はありません。

後に彼の盟友・土方歳三が松前藩と戦い、撃破することになりますが、それはまだまだ先のお話。

長倉夫婦は、やっと生まれた待望の男児を、蝶よ花よと甘やかして育てます。

読み書きを教えようとしてもすぐに飽きてしまい、親の目にも余るほど荒っぽいことばかりをしているやんちゃな息子。

そこで父は、我が子に竹刀を持たせることにしました。

武道ならば、武士の治めるべき道であります。修行に励むことで、有り余るエネルギーを昇華させることができるのではないか。

こうして永倉新八は弘化3年(1846年)、岡田利章(3代目岡田十松)の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門しました。

現在でいうところの小学校低学年でした。

 


剣術を極めたいから脱藩する!

エネルギーに満ちあふれた永倉新八は、あっという間に頭角を現しました。

師匠も目を細め「あれこそ我が弟子!」と自慢するほどの上達ぶりです。

入門4年目に師・岡田利章が亡くなった以後は、岡田助右衛門に教わります。

そして15歳で切紙(免許状の一つで初段)。入門十年目の安政3年(1856年)には、18歳で本目録(同じく免許状の一つ)を獲得しました。

堂々たる天才剣士っぷりです。

この年、永倉は元服を果たしました。

武士の本分たる剣術で、天才的な腕の冴え渡りを見せる永倉に対し、両親もさぞかし鼻が高かったことでしょう。

ただ、それもある程度セーブができていればのお話でして。

長男として生まれた永倉新八は、二男三男とは違って剣術修行を終え、藩士の後継者としての教育に臨まねばなりません。

同輩の二男三男が剣術道場に向かう中、永倉には途中でSTOPがかかります。

しかし、うずき出した腕は、もはや止まらない。

「こうなったら、脱藩するしかねえ!」

松前城

元服の翌年、19の春。

永倉新八は松前藩から脱藩し、剣術修行に出てしまいました。

本来でしたら重大な犯罪ですが「武芸の修行という理由は殊勝な心がけだから」と藩は許してくれます。

両親は、さぞかしガッカリしたことでしょう。

 

俺より強い奴に、会いに行く

脱藩した永倉新八は、「長倉」から「永倉」と名を改め、江戸本所亀沢町の百合本昇三の道場「百合本塾」に出入りすることになりました。

ここで4年間、ひたすら修行に励みます。

ペリー来航以来、何かと騒がしい世情でしたが、永倉に政治的な関心は無く、スポーツマンとしてひたすら剣を振っておりました。

ペリー来航/wikipediaより引用

しかし22才にして、神道無念流の免許皆伝を得ると、沸々と欲求が湧いてきます。

いったい俺はドコまで強いのか!?

格闘ゲームか少年漫画のような展開ですが、ともかくそういうものなのでしょう。

「どうでえ、宇八郎さんよ。諸国を武者修行で回ってみねえか」

永倉新八は、同じく松前藩士の市川宇八郎(のちの芳賀宜道)に声を掛けてみました。

「おもしれえ。いっちょやってみようぜ」

市川も快諾し、二人は関東一円を暴れ回ります。

ドコへいっても軽々と相手を倒す永倉と市川の最強コンビに、相手は舌を巻きました。

江戸でも屈指の剣士になりつつあった永倉新八には、稽古をつけて欲しいという話が舞い込みます。

心形刀流剣術伊庭秀業(隻腕の美男剣士・伊庭八郎の父)の門人・坪内主馬にも見込まれ、道場師範代を務めることもありました。

そこで、門下生・島田魁(のちに新選組に加入)とも知り合っています。

 


「試衛館」の兄ちゃんたち

やがて永倉新八は「試衛館」という、天然理心流という流派の道場を知りました。

常に50人、60人と出入りする道場の主は、近藤勇という男。

近藤勇/Wikipediaより引用

道場は、さながら梁山泊か、虎の穴か。個性豊かで血気盛んな青年たちがウロウロしていました。

若くして天才的な剣をふるう、塾頭の沖田総司。

色白の美男ながら、太刀筋鋭い土方歳三。

腹に切腹の跡をつけた、豪快な原田左之助。

「魁先生」と呼ばれ、何事にも真っ直ぐな藤堂平助。

年長者で経験に恵まれた井上源三郎。

人柄が良く、温厚な山南敬助。

ここに元気のいい永倉新八が加わったわけです。彼らは酒を飲みながら、酔いが回るとこんな物騒なことを言い合いました。

「近頃、何が腹立つって、鳶鼻の異人どもだ。見かけたら斬り捨ててやろうじゃあねえか!」

道場でクダを巻く青年たちのうち、

・本物の外国人を見たことが何人いるのか

・開国の意味がわかっているのか

というのを理解していた者がどれだけいたか。かなり怪しいものです。

しかし、これが当時の雰囲気。

勝海舟、福沢諭吉五代友厚のような例外的な人物を除けば、「異人をぶった斬ってこそ愛国!」というレベルであったのです。

後に倒幕を目指す者にせよ。

幕府のために戦う者にせよ。

彼らの知識レベルに大差はありませんでした。

 

将軍警護だ、上洛だ!

「試衛館」で青春の日々を送る青年たち。そんな彼らの耳に、ビッグニュースが飛び込んで来ます。

「将軍様が上洛する! その護衛を募集しているらしい」

運命を変えるニュースが飛び込んで来たのは、文久3年(1863年)のことでした。

取締役は山岡鉄太郎(山岡鉄舟)です。

山岡鉄舟/wikipediaより引用

なんとなく異人をぶった斬る程度の気分はあって、知識は不足気味だけど、何かをしたい青年たち。

将軍警備という話があるのなら、そりゃもう飛びつくほかありません。

かくして京都に向かう道すがら、永倉新八も含めた近藤一派はトラブルに遭遇しました。

宿の手配を担当していた近藤勇が、本庄宿でうっかり水戸藩士・芹沢鴨一派の宿の手配を忘れたのでした。

彼らは、あてつけに野宿すると焚き火をし始め、大変な騒ぎに。

近藤はこういうことには向かない性格だったんでしょうね。山南敬助がこのあと宿予約担当者に交替しました。

「芹沢鴨っていやな奴だな〜」

そうなりそうなところですが、実のところ永倉新八とは割と気が合う面もあったようです。なお、芹沢一派の悪事はフィクションで誇張されがちで、かつ検証も厄介なので、ご留意くださいね。

ただ、この程度は軽いジャブ程度のトラブルです。浪士を率いていた清河八郎が、あろうことか京都に着いた途端こう宣言したのです。

「我々は将軍家茂の警護ではなく、尊皇攘夷の魁となる!」

清河八郎/wikipediaより引用

突然ワケのわからない宣言が出され、狐につままれたような気持ちになった浪士たち。

スゴスゴと江戸に引き揚げる者もいましたが、近藤一派と芹沢一派は残留を決めました。

 

「新選組」結成、しかしオラついていた

彼らは京都の八木家に留まります。

さりとて幕府から得られる収入もなく、身分の保証もありません。

そこで頼ったのが、半年ほど前に「京都守護職」となった松平容保でした。

松平容保/wikipediaより引用

浪士たちは容保に認められ、彼らが滞在する八木家の門には、こう書かれた札が掲げられました。

【松平肥前守御預新選組】

新たに選ばれた組だから、新選組――誇らしげにそう名乗った彼らですが、実のところ京都の町民からは嫌われていたようです。

みすぼらしい服装で、無骨な関東訛り。その時点でマイナスだけでなく、彼ら新選組は実にオラついていたのです。

特に芹沢一派はやりたい放題で、商人相手にゆすりたかりのようなことをしたり。気に入らない芸妓の髪の毛を切り取ったり。大阪で力士と乱闘になったり。

当時、京都にいた浪人は総じて荒っぽいものでしたが、よりにもよって警護担当でオラつくとマズい。

気のいい永倉新八は、芹沢一派と酒を飲むこともありましたが、この手の争乱に巻き込まれるとホトホト手を焼いてしまいました。

それでも気性のサッパリした永倉は、近藤一派ほど芹沢を嫌っていたわけでもありません。神道無念流という同じ流派を学んだことも、親近感を覚えさせたのでしょう。

しかし文久3年(1863年)9月、しこたま酒を飲み、愛妾を抱いて寝込んでいた芹沢が暗殺されてしまいます。

永倉新八は事件を後になって知らされました。

当初は「長州藩士の犯行」ということにされておりました。

 

新選組vs長州藩間者

新選組も知名度がアップしてきますと、敵も増えます。

過激な尊皇攘夷派としてリードしていた長州藩からも、間者(=スパイ)が潜り込まれました。

こうした間者を返り討ちに活躍したのが、永倉新八です。

二番隊組長であり、撃剣師範でもあった永倉は、組織内でもエースでした。

あるとき、御倉伊勢武、荒木田左馬之助、越後三郎、松井竜次という4名の隊士が、長州藩の間者であることが判明しました。

永倉は、間者たちが公卿の屋敷に行くと言うので、中村金吾と共に後をつけます。

と、4名は途中で料理屋に向かい、酒を飲み始めました。

入れ替わり立ち替わりで退席する4名。永倉が厠に行くと見せかけて探ると、連中は謎の男と話し合っています。

一行はそのまま次の店へ。打ち解けた飲み会のようで、それでいてドコか緊張感の漂う両者。

新たに10人ほどの応援が店に立ち寄ったものの、少し見回って立ち去ります。

変わらず漂う緊迫の空気。しかし、中村はあることを聞いておりました。

永倉新八の耳にそっと近寄り

『用心してください、永倉さん……あいつら、店の外であなたを殺す気です』

夜が明けて、壬生へと向かう永倉新八。

しかし、彼は剣の達人です。斬ろう、斬ろうとして果たせぬまま、屯所へ到着しまう。

永倉と中村の報告を受けた近藤と土方は、決断しました。

「あやしい連中だとは思っていたが、そこまでとなると……。よし、始末してしまえ」

その刹那、永倉新八は、斎藤一と林信太郎を伴い、髪結いを呼んで髷を整えていた御倉と荒木田を斬殺。髪結いは真っ青になって腰を抜かしたそうです。

ここで沖田総司が叫びました。

「隊内には、他にも裏切り者がいるぞ、油断するな!」

そう言うと、松永主計と楠小十郎という別の間者も飛び出してきました。

原田左之助が瞬く間に楠を殺害。

越後三郎、松井竜次、松井主計の3名は取り逃がしてしまうものの、電光石火で間者3名を斬り捨てるその迫力、その強さ。

永倉新八を含めた新選組の強さは、さらに「池田屋事件」でその名を轟かせるのでありました。

 

「池田屋事件」で大活躍

間者を斬り捨て、向かう所敵なしの新選組。

尊皇攘夷派は彼らを危険視し、同時に憎んでいました。

その名が決定的に有名となり、さらなる憎悪を生んだのが元治元年(1864年)【池田屋事件】です。

池田屋跡

事の発端は「長州藩が何やら不敵な悪事を企んでいた」と、新選組が目をつけたところから始まりました。

「何やら」と、いささか表現が曖昧なのは、新選組が政治的な闘争には疎かったから。

重要なのは、この事件が「八月十八日の政変」と「禁門の変」の間にあったということです。

禁門の変(蛤御門の変)
「禁門の変」の背景にあった不都合な真実|孝明天皇は長州藩の排除を望んでいた

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要するに、こういうことです。

八月十八日の政変以来、京都から駆逐された長州藩が復権を画策。

その動きが「よからぬこと」として、新選組の耳に入った――。

降って湧いた陰謀計画などではなく、長州が虎視眈々と狙っていた矢先のことだったんですね。

新選組にとっては、その名を大きく轟かせる事件でもありました。

というのも、最初から室内への斬り込みに参加した者は少なく、敵20名に対し、新選組はわずか4名だったのです。

「主人はおるか! 御用改めであるぞ!」

近藤勇が声を挙げた時、背後に続いた3人のメンバーとは以下の通り。

・近藤勇
・永倉新八
・沖田総司
・藤堂平助

宿の主人・惣兵衛が、「皆様ッ、旅客調べでございます!」と声を上げるやいなや、新選組隊士らは猛然と室内へ。

 

永倉新八は達人らしい冷静さと熱さを持って敵を追い詰めます。刀の切っ先が衣服を切り裂き、眼前の敵をズタズタに……。

屋外に逃げようとした敵は、外で槍を構える原田と谷を見て、慌てて引き返してきました。

藤堂平助は、鉢金が外れたところ眉間を斬られ、目に大量の血液が流れ込みます。もはや戦力にはなりません。

それは沖田総司も同様で、昏倒してしまいます。

フィクションでは、肺結核悪化からの喀血とされることの多い沖田。現在、史実では否定されています。

蒸し暑い室内で戦い続けたため、スタミナ切れを起こしたか、あるいは貧血で倒れたのでしょう。

かくして藤堂、沖田は途中で戦線を離脱すると、残りは永倉と近藤の二人しかおりません。

互いに助けようとしても、常に4、5名が斬りかかってくるため、それも難しい状況。

このあたりで、屋外に待機していた原田、井上源三郎、武田観柳斎らが加勢してきました。

別働隊の土方組もようやく到着。会津藩や桑名藩も池田屋を取り囲み、激闘はやがて終わるのです。

全身返り血で真っ赤に染まった永倉新八は、左手親指がぶらぶらするほど切られていたことにようやく気づきました。

刀は折れ、衣服も防具もボロボロ。幸いにも傷は浅く、すぐに回復しました。

この夜の、赤鬼のように血に染まった永倉らの姿は、京都の街を震撼させるのに十分でした。

 

近藤との反目、隊内の亀裂

そのあとも【禁門の変】や、長州藩士の捕縛で活躍を重ねた永倉新八。

竹を割ったような性格は隊士だけではなく、会津藩士たちにも慕われました。

ただ、そういう性格のせいか、かえって近藤勇と対立することもありました。

「俺たちはよぉ、仲間として苦楽をともにしているんじゃあねえか。それなのに、近藤さんの増長ぶりはどうしたことでえ」

「そうだそうだ。気に入らねえ」

「試衛館のころはこうじゃなかったよなあ」

武士として重々しく振る舞う近藤のやり方に、永倉は反発します。

原田左之助、斎藤一、尾関政一郎、島田魁、桂山武八郎と脱退覚悟で建白書を出したこともありました。

脱退即ち切腹なのですから、どうにもがむしゃらな覚悟です。このときは、松平容保が仲裁に入り、無事おさまっています。

ただ、永倉新八のように近藤と性格の不一致程度ならまだマシで。

政治情勢が複雑化する中、隊内には不満を持つ者が増えてゆき、その一人である山南敬助がついに脱走しようとして切腹に追い込まれるのです。

永倉新八と懇意にしていた藤堂平助も、不満をあらわにしました。

彼は勤皇の志を持っていて、幕府について戦うことに耐えがたくなっていたのです。

藤堂は、伊東甲子太郎一派に接近。永倉も伊東とは親しく付き合っています。

伊東甲子太郎/wikipediaより引用

慶応3年正月(1867年)には、伊東らと島原遊郭で何日も飲み歩き、近藤の怒りを買い、あわや切腹を命じられそうになりました。

土方のとりなしでこれは逃れたものの、永倉と近藤の間には、またしても亀裂が入りました。

これには、良くも悪くも永倉に政治的才覚が抜けていることもあったのかもしれません。

当時、幕閣には松前藩主・松前崇広が老中としておりました。近藤は松前藩つながりで永倉を伴って江戸まで向かっておりますが、そのあとこれといった進展はなかったようです。

教養があり、志と政治力が高い近藤からすれば、永倉はちょっと期待はずれであったのかもしれませんね。

 

さらば友よ、高台寺党始末

伊東と接近していたのは、永倉新八だけではありません。

斎藤一もそうでした。

斎藤一/wikipediaより引用

ただし彼は間者。

斎藤は、伊東による近藤勇暗殺計画をつかみ、報告します。

そして慶応3年11月18日(1867年12月13日)、大石鍬次郎によって暗殺されました。

新選組は、この伊東の死骸を囮にして、御陵衛士を一網打尽にしようとします。

「伊東先生ッ!」

狙い通り、伊東の元へ駆けつける御陵衛士たち。その中には、かつて永倉新八と池田屋事件でも戦った藤堂平助もいました。

勤王活動ができないことに不満を募らせていた藤堂。慶応3年3月(1867年4月)、伊東一派と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく、新選組を脱退していたのです。

「藤堂はまだ若い。出来れば殺さぬように」

近藤からそう命じられていた永倉は、藤堂を逃そうとします。その意をくみ取ったのか、藤堂も逃げようとします。

そのとき一隊士の三浦常三郎が勢いで斬ってしまいます。

伊東の死骸回収に駆けつけた藤堂以下3名は、かくして命を落としました。

永倉新八は複雑な気分でした。

三浦は、藤堂を斬ったことに苦しみ、ストレスで早くに亡くなったと伝わります。

 

大政奉還、愛娘との別れ

高台寺党の惨劇からほどなくして、徳川慶喜が大政奉還を行いました。

『大政奉還図』邨田丹陵 筆/wikipediaより引用

新選組も屯所を引き払い、住み慣れた京都を去り、大阪に向かう時が迫っています。

永倉新八は、その前にどうしてもやらねばならないことがありました。

馴染みの芸妓・小常が、永倉の子を出産後に亡くなしていたのです。永倉は小常の埋葬と弔いを済ませました。

愛する女性の忘れ形見である女児も、自身の生死もわからぬ状況では引き取るわけにもいきません。磯子と名付けた女児は、小常の姉(磯子の伯母)に預けられることとなりました。

永倉新八は、養育費50両を渡して、松前藩士のいとこ・長倉嘉一郎に頼るよう言づてました。

そして親子の対面は、そのまま今生の別れとなってしまう……かと思われましたが、磯子は後に、役者・尾上小亀となり、明治33年(1900年)に父と再会を果たすします。

永倉新八の子として生きることは苦難も多かったでしょうが、それでも彼女は立派に生き延びたのです。

 

近藤勇狙撃事件と鳥羽伏見の戦い

このころ、どうにも隊内に不穏な動きがありました。

御陵衛士残党が、近藤勇の命を狙っていたのです。

ついに今度は狙撃され、右肩を負傷。これより先、近藤に代わって土方が隊長代理として隊を統率することになります。

繰り上がるようにして、土方の信頼あつい永倉が、ナンバーツーのような扱いを受けるようになりました。

そして、慶応4年(1868年)が明けて早々、「鳥羽伏見の戦い」が勃発。永倉以下、沖田、原田、新撰組隊士たち25、26名が灘の名酒を飲み、景気づけます。

しかし、新選組を含めた幕府軍は大敗北――。

「槍や刀の時代は終わった」となるわけですが、コトはそう単純でもありません。

土方率いる新選組、林権助率いる会津藩らは、難しい退却を守り抜きました。

むしろ問題は、両軍の兵力や装備の差以上にモチベーションです。

大阪城に撤退しても、新選組らは意気盛ん。しかし、彼らの総大将たる徳川慶喜が逃げ腰で、まったくやる気がない。

徳川慶喜/wikipediaより引用

それどころか嫌がる松平容保まで巻き込んで、大阪沖から軍艦でさっさと引き揚げてしまったのです。

新選組は、無念の思いでした。

試衛館からの古参隊士である井上源三郎は、この戦いで戦死。

副長助勤・山崎蒸は被弾し、江戸に向かう軍艦内で戦傷死し、水葬されています。

ひとまず江戸に向かった永倉新八ら新選組は、一時の休息を迎えます。

江戸では大きな歓待を受けました。

京都の民には嫌われた彼らも、江戸っ子からすれば、将軍様を守る為に大奮闘する勇士。その人気は、東高西低だったのです。

土方歳三/wikipediaより引用

喧嘩っ早い永倉は、この休息中に品川楼で喧嘩となり、刀傷を負います。

それを見た土方は、苦い顔をします。

「軽い体ではないのだから、自重しなさい」

 

新選組崩壊

江戸っ子には歓待された新選組隊士でしたが、幕府は必ずしもそうではありませんでした。

軍艦で命からがら逃げ帰った徳川慶喜は、勝海舟に泣きつきます。なんとしても、命を救って欲しい、と。

勝海舟/wikipediaより引用

武士が主君からこう泣きつかれては、勝もあらゆる手を使わざるを得ません。

抗戦か、恭順か――。

そう揉める幕臣を沈静させるため、手を打ちます。

後世に「一会桑政権」と呼ばれるほど徳川慶喜と蜜月関係であった、会津藩と桑名藩の江戸登城を禁止。同時に和宮にもすがりつき、皇族・公家に手を回しての助命嘆願に勤しむのです。

幕府のために戦いたい――そんな者たちは、いとも容易くハシゴを外されました。

そんな状況では、抗戦派筆頭であり、西軍の憎しみを買っている新選組は邪魔者でしかありません。

それ以前に勝は、荒々しい新選組が嫌いでした。

勝は、うまいこと近藤勇ら新選組幹部を言いくるめます。

勝海舟がどう考えていたか。

果たして、近藤や土方は理解していたのかどうか。もはやこれまでという覚悟もあったのか。

甲州勝沼に向かう先々で、彼らは豪快に飲み、遊びました。これから待ち受ける運命を知らず、舞い上がっていたのか? それとも江戸にいた他の武士たち同様、最期の楽しみを味わいたいと思っていたのか。

彼らは故郷にも立ち寄り、顔を家族に見せました。佐藤彦五郎らはただの農民でもなく、銃武装して新選組と戦うつもりでもあったのです。

しかし、甲州勝沼に向かった「甲陽鎮撫隊」は、信じがたいものを見ます。

甲州勝沼の戦い/wikipediaより引用

抑えるべき城は、既に敵で充満していたのです。

死線をくぐった隊士たちもこれには唖然。

永倉と原田に訴えます。

「これでは戦えるはずもない……援軍なしで戦えだなんて、そんな無謀なことはできません!」

永倉と原田が訴えると、近藤は困り果てました。

「隊士を騙すというのは士道に背くことだが、緊急事態ならば仕方ない。会津の援軍300が明日朝には到着するはずだ」

そう返すと、土方は、旗本で編成された菜葉隊を援軍とすべく、交渉に向かっていました。永倉は、隊士と駆り集めた農兵で進軍しようとします。

が、農兵に裏切られてしまいます。

さしもの永倉新八も退却しようとしたところ、隊士たちは一斉に不満の声を上げ始めたのです。

「会津の援軍なんて、どうせ来ねえんでしょう」

「兵糧すらろくにありゃしねえ!」

永倉と原田が慌てて追いかけたものの、言うことを聞こうともしません。

すでに近藤の言葉すら通じないのです。

「俺たちゃあ会津に行って戦います」

彼らはそう言って、去ってゆきました。

近藤にこのことを伝えると、彼もため息をつきました。

「こうなったら、もはや会津の城を枕に討ち死にするほかないのか。あとは永倉と原田に任せる。江戸で会おう」

誠に染め抜いた旗を掲げ、京都を震撼させた新選組も、もはや止められない崩壊の中にあるのでした。

 

近藤との永訣

甲州勝沼の敗戦から5日後。

隊士たちがバラバラになる中、新選組は江戸で落ち合いました。

しかし、近藤がいないと知るや離散する者も多く出てきます。

そうした一部が遊郭で遊んでいると知った永倉新八は、駆けつけてどうするつもりかと問い糾します。

「会津へ向かって討ち死にするつもりです。だから、こうして遊んでいるんです」

「そりゃ、俺も同じ気持ちだ。どうだ、力を合わせて新たな組織を結成して、会津へ向かおうじゃねえか」

こうしてまとまった話を近藤にすると、彼は首を横に振るのです。

近藤勇/Wikipediaより引用

「そのような決議に参加することはできん。ただ、我が家臣として働くのであれば、同意もいたそう」

カーッと永倉新八の頭に血が上ります。

「ああ、わかりましたよ。けどよ、二君に仕えずっていうのが武士の本懐じゃねえか。これまで同盟してきたが、あんたの家来になったつもりはねえからな、あばよ!」

池田屋のあの死闘で、最後の二人だけになっても戦い抜いた、あの永倉と近藤。ついに二人は、本気の喧嘩別れをしてしまいます。

これはあくまで永倉視点です。

崩壊してゆく新選組末期には、指揮系統と認識面での齟齬が生じているとみませます。

永倉、原田、そして斎藤一らは、あくまで【新選組=会津藩所属組織】という見方があるように思えます。

斎藤一は特に顕著で、明治になってからは会津人脈で結婚から就職先まで見つけ、墓は会津に作るように言い残しました。彼のアイデンティティは会津にあるのです。

一方、土方と近藤は【幕臣】になったという認識を感じます。

4月3日、近藤勇は新政府軍に捕縛されました。自ら出頭したという説もあります。

気力が尽きてしまったのか、流山を戦場にしたくなかったのか。

新政府軍には、御陵衛士残党がいました。

大久保大和という変名を使っていたものの見破られ、近藤は切腹すら許されないまま、斬首刑。

享年33。

その首は、三条河原に晒されて行方がわからなくなってしまいました。

近藤勇、三条河原での晒し首の様子/wikipediaより引用

永倉は、原田とともに「靖兵隊」を結成。

旗本の養子となり、芳賀宜道と名乗っている市川宇八郎とも再会し、仲間に加えました。

 

靖兵隊、北へ

近藤だけでなく、他の戦友たちも世を去りつつありました。

肺結核の療養中であった沖田総司が、療養先で死去。享年24(諸説あり)。

妻子に別れを告げようと、靖兵隊を一時離脱して江戸に向かった原田左之助は、混乱の最中戻ることができなくなります。

やむなく彰義隊に加わって戦死を遂げ、享年29。

袂を分かった新選組が、土方歳三に率いられて宇都宮へ向かう中、芳賀隊長と永倉副長率いる「靖兵隊」も、宇都宮へ到着しました。

永倉新八らは抜刀隊を率いて、奮戦するのです。

靖兵隊は、仙台藩白石城に入っていた輪王寺宮北白川宮能久親王からとある命令を受けました。

戊辰戦争は、東西両軍とも皇族、しかも兄弟である伏見宮邦家親王の子を名目上の総大将としていました。

「徳川家の象徴たる日光東照宮を新政府軍から奪還せよ」

それが靖兵隊のキーワード。

永倉新八たちが会津城下までたどりつき、明日には入城というその日、大変な騒ぎが起こりました。

殺到する西軍から逃れるため、老若男女がごった返していたのです。

「こいつぁいけねえ。もう城にはたどり着けねえ!」

会津から立ち去る永倉新八たちが見たのは、周囲を取り囲まれて砲撃にさらされる、会津若松城の無残な姿でした。

ボロボロになった会津若松城・戊辰戦争後に撮影/Wikipediaより引用

その途中、永倉らはとある人物と出会います。

米沢藩士の雲井龍雄です。

彼らの助力をもって会津救援に向かおう――そう決めた永倉新八たちは雲井に同行します。

が、米沢藩は佐幕か恭順かで意見が割れており、救援を取り付けるどころか、虚しい日々が過ぎていくばかり。

そうこうするうちに、結局、会津若松は落城の日を迎えてしまうのでした。

永倉らは、江戸へ戻ることにしました。

道中の困難を心配した雲井は、永倉と芳賀に米沢藩に仕えないかと持ちかけますが、両人は「二君に仕えず」と断ります。

町人に変装した二人は、道中あやしまれつつも、なんとか江戸へ。

しかし、芳賀の身に悲運が襲いかかります。

妻の兄である藤野亦八郎と口論になってしまい、殺害されてしまうのです。藤野が西軍についたことを、芳賀が責めたのが原因でした。

永倉新八は、芳賀の妻に頼まれて藤野を付け狙います。しかし、藤野が病死したため、この仇討ちもこれきり。

多くの同志を失い、永倉新八は意気消沈するばかりでした。

 

世の転変

永倉新八は、かつて剣術修行のために飛び出した松前藩を頼ることにしました。

そうして江戸をブラブラしていたある日、偶然、伊東甲子太郎の実弟である頼三樹三郎(らい みきさぶろう)とすれ違います。

「あっ!」

互いにハッと身を固くしました。腕前ならば絶対に相手に負けないはずですが、相手は勝ち組、一方の永倉は負け組です。

世の転変が、永倉新八から闘志を奪いつつありました。

かつて餓狼のように敵を追っていた我が身が、今度は追われる側に回ったことを痛感した永倉。

頼三樹三郎らの刺客から隠れるために、息を潜めて生きる日々を送ることになってしまいます。

そんなある日、永倉は黒山の人だかりを目にします。

近づいてみると、梟首とされた雲井龍雄その人でした。彼は新政府に対して背いたとされ、処刑されたのです。

「ああ、これでもう、何もかも終わっちまった……」

すべての望みが打ち砕かれた気がして、永倉新八は愕然としてしまいます。

そんなある日、永倉は家老に呼ばれました。

福山に、杉村という藩医の家があり、きねという娘に婿を探しているとのこと。

「福山までは、頼三樹三郎とて追っては来ないだろう」

そう言われ、永倉新八は北海道を目指して出立。明治8年(1875年)、杉村家の家督を継ぎ、名を義衛と改めました。

きねとの間には一男一女が誕生しました。

 

慰霊と回顧の日々

明治という新たな世の中になっても、永倉新八は剣士であり続けました。

明治15年(1882年)から4年間は、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範に就任。そのあとは東京牛込で道場を開いたこともあります。

日清戦争では抜刀隊に志願して断られたほど。

ヤクザ者をひと睨みで追い払ったという伝説もよく知られておりますね。

「どうにも竹刀の音を聞かねえと、飯も喉を通らねえ」

そう言い、腰を抜かして竹刀が振れなくなった晩年まで、剣士として生きていたのです。

永倉の役目は、それだけではありませんでした。

新選組隊士として、修羅場を幾たびをくぐってきた永倉新八。傷だらけの肉体を諸肌脱いで、よくこう啖呵を切っていました。

「俺ァ、お国のために働いたんだ!」

彼も、彼の同志も、死して英霊と呼ばれることはありません。

それでも彼にはわかっていたのです。

自分も、仲間も、国のために戦ったのだと。

函館の「壁血碑」では土方歳三、伊庭八郎を弔いました。

米沢では、雲井龍雄の妻を来訪。そして近藤勇が処刑された場所の板橋滝野川には、幕府の医者・松本良順とともに新選組隊士供養塔を建立します。

晩年には新聞記者相手に、自らの体験を語って聞かせました。

話を盛った部分もあるようですが、彼の見聞録は、新選組の貴重な証言として残されました。

大正4年(1915年)、虫歯を原因とする骨膜炎、敗血症により死去。

当時としてはかなり長生きの享年77。

死線をかいくぐりながら、天寿を全うしました。

永倉新八の墓は、彼が建立した板橋の近藤勇と隊士ら供養塔と並んでいます。

前列中央が永倉新八/wikipediaより引用

明治政府は、新選組を極悪非道の集団とみなしました。

しかし現在、新選組はやんちゃで、我武者羅で、熱く生きて散った集団として、多くのファンが存在します。

板橋駅前の供養塔横には、ノートが置かれています。常に更新されるそのノートには、熱い思いが書き込まれているのです(板橋区HP)。

150年経てもなお、誰かの心を熱くする新選組の生き様散り様。

晩年は映画を好み、孫と共によく映画館へも行っていたと言います。

「近藤さんも、土方さんも、若くして亡くなっちまってこんな不思議なもんを見ることはできなかったが。俺ァ長生きして、これを見ているんだなあ……」

そんな文明の不思議である映画だけでならず、テレビドラマやゲームにアニメ……。

ありとあらゆるものに仲間たちが出演し、戦い恋をしていると知ったら、永倉新八や彼の仲間はどう思うでしょう。

今も誰かの本やスマートフォン、あるいは想像力の中で。

新選組は戦い続けています。


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【参考文献】
永倉新八『新撰組顛末記 (新人物文庫)』(→amazon
『国史大辞典』

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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