足利義輝/wikipediaより引用

足利家

足利義輝(13代将軍)の壮絶過ぎる散り際! 麒麟がくるで注目されるその生涯

足利将軍と言えば「地味」の一言。

尊氏(初代)
義満(三代)
義政(八代)

あたりは歴史の授業でもお馴染みですが、

義教(六代)
義昭(十五代)

ぐらいになると戦国ファンにしか注目されず、その他の将軍ともなれば名前すら浮かんでこないでしょう。

しかし、大河ドラマ『麒麟がくる』の放送を機に、一気に知名度を上げた方がおられます。

十三代将軍・足利義輝です。

ドラマでは、威厳ある姿で明智光秀の前に登場したかと思えば、一転、悲哀と苦悩に満ちた姿で視聴者の心をザワつかせた、向井理さんの迫真の演技。

史実でもそうだったのか?

今回は、足利義輝の生涯に注目してみましょう。

 

本拠地を追い出されていた足利義輝

なぜ足利将軍は存在感が薄いのか?

特に9代~14代はその傾向が強いものですが、大きなカギは【応仁の乱(1467年~)】です。

この大乱により、8代将軍・足利義政以降、幕府の権威が大きく失墜しました。

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つまり室町幕府は、1338年(1336年)~1573年まで約235年も続いていながら、ほぼ半分以上の将軍が戦乱に巻き込まれていたんですね。

もちろん皆ボケっとしていたわけではなく、何とかすべく努力していたのですがことごとく失敗しています。

多くが将軍の跡取り問題の飛び火ですから、自業自得ではありますが、他の守護や国衆の争いにも巻き込まれ続け、大変な時代ではありました。

今回の主役、義輝のお父さんである12代・足利義晴も将軍復権に力を注いでいます。

しかし、この人は先々のことを見通す力が足りなかったようで、京と近江(滋賀県)を行ったりきたりしながらしょっちゅう戦をしておりました。

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相手は管領(幕府のナンバー2)の細川家で、どっちが京や朝廷を手中に収めるかでてんやわんや。

ますます京は荒れていくわ、出たり引っ込んだりで将軍の威厳もボロボロになるわ、そもそも義晴の前の足利義稙(よしたね)が後柏原天皇の即位式に出損ねていた後遺症を受けるわ。

足利家自体が散々な有様だったのです。

義晴は自ら戦に出たり勇猛な人ではあったようですが、そのツケが息子である義輝にもまわってしまいます。

 

塚原卜伝も認める本物の剣豪将軍に

義輝が将軍職についたのは天文十五年(1546年)、11歳のときのこと。

父親が上記の通り京に出たり入ったりしていたため、このときは近江にいました。

そしてお父さんの死を契機に、自分は何とか京に戻ろうと画策します。

天文二十一年(1552年)に細川家や三好家と和睦を結び、一度京に入ることはできました。

しかし、実態は傀儡のお人形さん。

再び戦になり、またもや近江へ逃れます。

こうした災難の連続に、自身を鍛え上げねば――と思ったのか、あるいはもともと才能があったのか。

逐電中の義輝は、ひたすら武芸に励みました。

当時の剣豪・塚原卜伝から免許皆伝を受け、一説には剣聖上泉信綱にも剣を教わったそうです。

 

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そして義輝は、ここからウルトラCを繰り出すのでした。

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