浅井長政

浅井長政/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

浅井長政の生涯|信長を裏切り滅ぼされ その血脈は三姉妹から皇室へ続いた

2025/08/31

天正元年(1573年)9月1日は浅井長政の命日です。

戦国ファンには、信長の妹・お市の方を娶り、そして劇的な展開で信長を裏切り窮地においやった人物としてお馴染みの武将でしょう。

実はあまり語られない前半生についても、葛藤の連続だった生涯を送っています。

いったい信長の義弟はいかなる幼少・青年期を送り、そして義兄を裏切るに至ったのか?

浅井長政の肖像画

浅井長政/wikipediaより引用

浅井長政の生涯を見ていきましょう。

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浅井長政 観音寺城下で生誕

長政は、天文十四年(1545年)に浅井久政の嫡男として生まれました。

信長が1534年生まれですから、後の義兄からすると一回り近く年下になりますね。

当時の浅井氏は六角氏に臣従していたため、母・小野殿は六角氏の本拠・観音寺城下で人質になっており、長政もここで生まれたと考えられています。

観音寺城の模型

観音寺城の模型/photo by ブレイズマン wikipediaより引用

六角氏の影響はかなり強く、それは長政の元服前後にも現れていました。

初名の「賢政」はときの六角氏当主・六角義賢の偏倚を受けていますし、最初の妻も六角氏の家臣・平井定武の娘です。

外堀も内堀も埋められているような状態ですね。

しかし、このような状況に本人が耐えられたとしても、家臣たち全員も同じとは限りません。

戦国時代の主従関係は、江戸時代よりもかなりドライ。

利害関係に応じて主従関係がくっついているようなもので、不満が大きくなれば平気で裏切りや出奔もしますし、敵に内通することも珍しくありません。

当時の浅井家臣たちもそうでした。

当主だった久政を「弱腰」と批難し、代替わりを名目として六角氏からの脱却を目指すのです。

 


野良田の戦いで長政の武名が飛翔

浅井家臣団は、手始めに久政を竹生島に追放・隠居させ、長政を当主に押し上げました。

長政も期待に応えるため、妻を実家に返し、”賢”の字も捨てて”新九郎”の名を用いるようになります。

また、六角家臣のうち、浅井領に近い者には調略を仕掛けていました。

これに応じて、肥田城(滋賀県彦根市)の高野瀬秀隆(たかのせ ひでたか)が浅井方につきます。

秀隆は六角氏からあまりいい扱いを受けていなかったらしく、不満が溜まっていたところに調略を受けたため、浅井氏についたようです。

義賢は秀隆の裏切りに激怒。

すぐぶ肥田城を攻めようとしましたが、そこに長政が駆けつけ、浅井軍vs六角軍という構図の戦が始まります。

今日では【野良田の戦い】とか【野良田合戦】と呼ばれているものです。

兵力では六角軍が大きく上回っていながら、勇猛果敢に斬り込み奮戦した浅井軍が勝ちました。

このときの長政の采配ぶりに、浅井家臣たちは心酔していたといいます。

それは同時に、北近江における浅井氏の立場を確立することにもなりました。

 

重臣を暗殺した六角氏はボロボロに

一方、格下と思っていた浅井氏に負けた六角氏の動揺は激しいものでした。

野良田の戦い前に、義賢は息子の六角義治へ家督を譲っていたのですが、同戦の敗北によって父子の対立が激化。

並行して起きていた義治の婚姻問題にも影響しました。

義賢は、朝倉義景の娘を、六角家臣たちは斎藤義龍の娘を、それぞれ迎えようとして対立していたのです。

当時の書状で義賢は

「斎藤義龍は成り上がりの家であり、名門である我が家にふさわしい縁組相手ではない」

と記しており、斎藤氏との婚姻に大反対だったことがうかがえます。

斎藤義龍の肖像画

斎藤義龍/wikipediaより引用

そして永禄六年(1563年)。

六角義治は、祖父の代からの重臣・後藤賢豊らを暗殺するという暴挙に出てしまいました。

父親の影響を取り除くためだったのは明らかですが、家全体からすれば優秀な家臣を当主が始末してしまう暴挙にほかなりません。

他の六角家臣からすれば

「この家で真面目に働いても、当主に気に入られなければ殺されるのか! そんなのまっぴら御免だ!!」

となっても致し方ありませんよね。

この事件を【観音寺騒動】といい、以降、六角氏は家臣からの信望を一気になくし、他家へ人材を流出することになります。

浅井氏へ鞍替えした者も多く、その分だけ長政と浅井氏の力は強まりました。

 

朝倉との関係は祖父の代にまで遡る

観音寺騒動とほぼ同時期、長政は正式に家督を継ぎました。

ただし問題もありました。

父・浅井久政の発言力も残り続けたのです。

一方、そのころ織田家では、信長が美濃・斎藤氏の攻略に難儀しており、浅井氏側に有利な条件で同盟を申し入れました。

斎藤氏は、六角氏と結んで浅井領に侵攻してきたこともありました。

ですから、斎藤氏が織田氏と戦ってくれれば、長政は六角氏に集中しやすくなります。

となると、この同盟は双方がそれぞれの敵に専念できる、ある意味対等なもの。

浅井家にとってもメリットは大きいはずですが、久政や家臣たちが反対し、長政はなかなか踏み切れませんでいました。

浅井久政の肖像画

浅井久政/wikipediaより引用

以前からの同盟相手である朝倉氏の顔色をうかがう声もあったようです。

浅井氏の話をするとき、必ず「朝倉氏との同盟」が取り沙汰されますよね。

一体なぜなのか?

と申しますと、長政の祖父・浅井亮政の代にまで遡ります。

当時の浅井氏は北近江の大名・京極氏の家臣でした。

その京極氏でお家騒動が起き、弱体化したため、浅井氏を始めとした有力国人たちの発言力が増します。

亮政は勢いに乗って、南近江の六角氏攻略に挑みますが、なかなかうまく行きませんでした。

「亮政が六角氏相手に手こずっている」と見た京極氏は、反亮政派の国人を味方につけて勢力を盛り返します。

そこで内外の敵を相手取らなければならなくなった亮政は、越前の朝倉氏と同盟を結ぶことによって、この危機を乗り切った――とされています。

浅井亮政の木像

浅井亮政/wikipediaより引用

朝倉氏は繁栄していたものの、北陸の一大勢力となっていた一向一揆問題などにより、近江方面との衝突は避けたい状況でした。

創作物では「浅井氏は朝倉氏に大きな恩がある」と表現されることが多いのですが、実際には「お互いの敵に集中するために、私達は対立せずにいましょう」という協力関係であったと思われます。

 


織田家を選んだ長政に信長も大喜び

近江は琵琶湖を抱えているものの、地勢的には内陸国に近い状態ですから、四方八方を敵に回すわけには行きません。

六角氏を攻略するため、そして斎藤氏の侵攻を防ぐため織田氏と同盟を結ぶこと自体は問題ありません。

しかし、それによって付き合いの長い朝倉氏の意向を無視するようなことになれば、結果として敵を増やしかねない状況です。

最終的に、長政は織田と手を組む道を選びます。

明確な時期は不明ながら、織田家の姫・お市を正室に迎えることによって、この同盟は堅固なものとなりました。

お市の方の肖像画

お市の方/wikipediaより引用

織田信長は同盟成立を大いに喜び、婿側が負担するはずの婚姻費用を全て出したといわれています。

無茶振りを飲んでくれた礼だったのでしょうかね。

また、”長政”の”長”の字は、信長から取ったものだという説もあります。花押も、この時期から”長”の字を崩したものに変えていました。

これによって義兄弟となった長政と信長。

しばらくは協力し合います。

例えば永禄十一年(1568年)、足利義昭が朝倉氏から織田氏の下へ移る際、長政は本拠・小谷城で義昭をもてなしていました。

さらにその2ヶ月ほど後、信長が義昭を奉じて上洛する際も、途中から長政が参戦しています。

足利義昭の肖像画

足利義昭/wikipediaより引用

しかしこの蜜月も程なくして終了します。

元亀元年(1570年)のことでした。

 

織田家か朝倉家か?狭間で苦悩する浅井長政

元亀元年(1570年)初め。

信長は諸大名に向けて書状を出しました。

「皇居修理や将軍の御用を片付けるため、自分は2月に上洛する。各々方も上洛し、協力するように」

一見すると殊勝にも取れる文章ですが、上から目線と取る者も多かったようです。

上洛のときでさえ、京都の人々は「信長って誰?将軍様のお付きの人?」程度の認識だったそうですから、各地の大名からすれば「田舎者」「下賤な血筋の成り上がり者」と思っていたでしょう。

そんな相手から命令じみた書状が届けば、良い気分になるわけがない。

信長も、それは見越しています。

織田信長/wikipediaより引用

同書状では「天下のため」という名目で相手が従うかどうかを見極め、場合によっては武力行使をするためのものだったと思われます。大義名分もあるでしょう。

実際この年4月、書状に従わなかった朝倉氏へ攻め込んだのです。

困ったのが長政。

いや、困ったレベルとかそんなもんじゃなかったでしょう。

織田氏も朝倉氏も同盟相手ではありますが、より付き合いが深く長いのは後者であります。

しかも上記の書状が将軍の名で出されているならともかく、ついこの前まで無名に等しかった信長から出されていては、体面と血筋を重んじる朝倉義景が信長の命令に従わないのは理屈としては間違っていません。

常識的に考えれば朝倉氏の方が正しく、周囲の国衆たちも朝倉派でした。

しかし、”将軍”という強力なカードを持ち、勢い盛んな信長に逆らうのは得策ではありません。

妻・お市も信長の妹。

体面とか血筋とかノンキなことを言っている朝倉より、はるかに将来性もある――というのは歴史を知る我々のバイアスもかかった考え方ですね。

さて長政の結論は?

 


突然の裏切りに信長は呆然

浅井長政が選んだのは朝倉氏でした。

長政は、朝倉氏との同盟を選び、織田家を見限ることを決定。

スグさま信長を討つべく出兵し、越前へ侵攻していた織田・徳川連合軍の背後を突こうとします。

主導したのは長政ではなく、父の久政だとも言われています。

一方の織田信長は、当初「浅井挙兵(裏切り)」の報を信じなかったとか。

なにせ信長にとって朝倉討伐は理にかなったものでした。

浅井長政についても、同盟を組んでから一貫して信長に協力しており、裏切られる心配は微塵もなかったのでしょう。

さらに信長は、越前出陣に際して参内し、天皇や皇太子に挨拶をしていました。

おそらく長政も義景も、そこまでは知らなかったでしょうが、信長は”朝廷”と”幕府”という、日本における最高権力者たちを味方につけていたともいえます。

正親町天皇の肖像画

当時の天皇だった正親町天皇/wikipediaより引用

この点に関して言うと

信長は”旧来の権威を重んじ利用する傾向があった”

のに対し、

長政は”世間的な権威よりも、実際に長く付き合っている相手を重くみた”

という違いかと思われます。

長政のほうが、戦国武将らしいといえばらしいですね。

 

そして熾烈な【浅井朝倉vs織田】が始まった

さて、浅井氏の裏切りによって窮地に追い込まれた信長。

【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる壮絶な撤退戦を、豊臣秀吉や明智光秀らに任せ、見事、浅井や朝倉の追撃を振り切ります。

金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)
金ヶ崎の退き口|浅井長政に裏切られ絶体絶命の窮地に陥った信長や秀吉の撤退戦

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そしていったん帰国すると、すぐさま浅井朝倉に対して軍を起こし、ここから長きに渡る

【浅井朝倉vs織田】

という戦いが始まります。

織田家との全面戦争。

その第一ラウンドは元亀六年(1570年)6月【姉川の戦い】でした。

実際に戦った構図としてはこんな感じですね。

【浅井vs織田】

【朝倉vs徳川】

浅井軍は、先鋒・磯野員昌が織田軍の13段構えを11段まで突破し、あと一歩で信長の首――という健闘を見せたともされます。

しかし、徳川軍が朝倉軍を押し切って撤退させ、織田軍に合流しようとしたため、浅井軍も小谷城へ引きました。

織田軍は浅井軍を追撃しましたが、小谷城を一気に攻略することは難しいため、手前の横山城を落とすにとどめています。

横山城には秀吉が城番として入り、小谷城を監視することになりました。

豊臣秀吉イメージイラスト

絵・富永商太

浅井氏と秀吉の関係も、このときから始まったといえるかもしれません。

 


「山から降りて一戦するぞ!」

この後、浅井・朝倉氏は、延暦寺や領内の一向宗徒など、反信長という共通点を持っている者たちと協力して動くようになります。

例えば信長が、石山本願寺との戦い(野田城・福島城の戦い)に兵力を割いているときに、その背後を付く形で挙兵。

京都への入り口にあたる宇佐山城を攻撃しています。

ここで信長の弟・織田信治や、重臣・森可成を討ち取りました。

森可成の肖像画

森可成/wikipediaより引用

この知らせを受けた信長は陣を引き払い、京都に立ち寄っているにもかかわらず、たった2日で坂本までやってきました。

あまりの早さに狼狽した浅井・朝倉軍は、比叡山に逃げて閉じこもってしまいます。

尋常ならざるこのスピードこそ、信長の大きな特長だと指摘する方もいますね。

信長は、朝倉軍に向かってこう呼びかけました。

「山から降りて一戦するぞ!」

朝倉軍は、拒否どころか返事もせず、戦況は膠着。

そして真冬になる前に将軍・足利義昭が自ら出向いて和睦を斡旋したため、双方ともに撤退してこの戦は終わっています。

※和睦の経緯については、信長が将軍や朝廷を動かした説もあります

当然ながら和睦など一時のため。

信長は浅井・朝倉攻略のため、いくつかの策を講じました。

横山城の秀吉に、越前と大坂を行き来する商人の足止めをさせたり、磯野員昌を調略して味方につけたりしたのです。

さらに、元亀二年(1571年)9月には比叡山焼き討ち(延暦寺焼き討ち)を強行し、先年のようなことが起きないように手を打っています。

絵本太閤記に描かれた比叡山焼き討ちの様子

絵本太閤記に描かれた比叡山焼き討ちの様子/wikipediaより引用

 

浅井長政 包囲網で信長を追い詰めるも

これに対し、浅井長政と朝倉義景は、寺院勢力や義昭と協力して

【信長包囲網】

を形成しようとしていました。

取りこぼしてしまった前回の包囲網と違い、今回の包囲網には決め手がいます。

そう、甲斐の武田信玄です。

武田信玄の肖像画

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

信玄は、義昭の要請に応じる形で西上したと考えられ、その途中【三方ヶ原の戦い】では織田・徳川軍を完膚なきまでに撃破。

あと一歩で信長包囲網が完成するかに見えました。

近江の浅井としては、信玄と連携を保ちながら【尾張・美濃・三河の織田徳川】を挟撃するイメージですね。しかし……。

これから!

というタイミングで他ならぬ信玄が急死してしまい、作戦変更を余儀なくされます。

しかも天正元年(1573年)には信長包囲網の中心だった将軍・足利義昭が【槇島城の戦い】に敗れて京都から追放され、反織田勢力は柱を失うも同然になりました。

近江に取り残されるカタチになった浅井、大ピンチ。

信長の勢力圏に接し、最も攻撃を受けやすいのは他ならぬ浅井家の本拠地・小谷城だったのです。

実際、信長は、すぐさま本格的な浅井・朝倉攻略に取り掛かりました。

 

不甲斐なき朝倉軍の救援

天正元年(1573年)7月、信長は北近江を攻めながら、浅井氏の重臣を調略していきました。

長政は、朝倉義景に援軍を要請します。

朝倉義景の肖像画

朝倉義景/wikipediaより引用

しかし、その時点で既に小谷城エリアは織田軍に包囲されており、一筋縄では行かない状況。

越前から援軍にやってきた朝倉軍も、いったんは織田軍を遠巻きに包囲しておきながら、やがて本国への撤退を選びます。

あるとき信長から奇襲を受け、プレッシャーを与えられると、そのまま心がポッキリ折れてしまったのです。

助けにきて、ほとんど役に立たぬまま帰り始める朝倉軍。

織田軍は「待ってました!」とばかりに小谷城から兵を引き上げ、全力で朝倉軍を追撃し、結局、朝倉氏の本拠・一乗谷城まで攻め込んで、滅亡に追い込みました。

ここまで流れが急展開ですので、いったん整理しておきましょう。

①織田軍が浅井の小谷城を包囲

②朝倉の援軍が到着

③朝倉軍が織田軍を取り囲む

④信長が逆に朝倉軍へプレッシャー

⑤朝倉軍がビビって撤退

もしも浅井と朝倉の連携が強固で、かつ朝倉軍にヤル気さえあれば、ピンチはチャンスに変わっていたかもしれません。

たしかに信長の行軍、意思決定は異常な速さでしたが、スピードがありすぎるがゆえに織田家の家臣団もついていけないようなところがあったのです。

タイミング次第では小谷城を包囲する信長を挟撃できたかもしれません。

しかし現実はそうでありませんでした。

朝倉が攻め滅ぼされると(ちなみにこのときの戦いで美濃を追い出された斎藤龍興も戦死)、信長は返す刀で小谷城を取り囲みます。

かくして浅井は、朝倉という援軍を期待できないまま籠城戦へと突入するのでした。

 

そして小谷城と浅井長政は陥落した

信長はまだ情を残していたのか。

同盟を結ぶ際の使者だった不破光治や、横山城で長く相対していた秀吉などを通して、長政に降伏を勧めてきました。

基本的には肉親に甘い信長のこと。

長政の妻であり妹であるお市と、その間に生まれている子供たちから「夫や父を奪う」のは避けたいと思ったのかもしれません。

ただし、そうだとすれば秀吉を使者にしたのは信長の人選ミスかもしれません。

秀吉がかつて織田家の祝い事で横山城を留守にした際、長政は容赦なく攻め込んでおり、遺恨がないわけじゃない。

しかも、秀吉の場合、元の身分が低いのですから、ますます降る気にはならなさそうですよね。

実際、長政は降伏を断り続けます。

もはやその意志無し――そう判断した信長は、小谷城へいよいよ攻めかかりました。

攻め手の中心になったのは秀吉。

堅牢な山城・小谷城を落とすため、久政と長政を分断して各個撃破に取り組み、父・久政の自害に続いて長政も後を追うことになりました。

享年29。

かくして戦国大名・浅井氏は滅亡しました。

逃げていた嫡男・浅井万福丸もほどなくして織田方に捕まり、関ヶ原で処刑され、男系の血は絶えたとされています。

「密かに逃げ延びた男子がいた」という説も複数ありますが、こちらはまだ結論づけるのは早計でしょうね。

もしも証明できれば、大きなニュースになりそうです。

しかし、長政の血は完全には途絶えることはないどころか、女系では大きく発展していきます。

 

三姉妹の行方は?

浅井長政で有名なのは、やはり”浅井三姉妹”と呼ばれる娘たちでしょう。

お市との間に生まれた娘三人は、小谷城の戦が終わった後、お市とともに織田家に引き取られて育ちました。

【浅井三姉妹】
・茶々(淀殿)
・初
・江

長女の茶々(淀殿)は後に豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼を生み、大坂の陣で滅びます。

淀殿(左)と豊臣秀頼の肖像画

淀殿(左)と豊臣秀頼/wikipediaより引用

次女のお初は京極高次に嫁ぎましたが子供は生まれませんでした。

その代わりというわけでもないでしょうが、政治的な動きが多いのが特徴です。

大坂冬の陣の前に、豊臣家の使者として徳川家との交渉を務めたり、夏の陣の後には秀頼の娘・天秀尼の助命を嘆願していました。

三女がお江(お江与)。

後に徳川秀忠の正室となり、家光を生みます。

彼女を通じて、長政の血は現在の皇室に続いていますので、一番の功労者ともいえるでしょうか。

ざっくりと系譜をまとめると

①家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ

②千代姫の子孫である信受院が公家の九条家に嫁ぐ

③さらにその子孫が大正天皇の皇后・九条節子(貞明皇后)

④昭和天皇・上皇・今上天皇

となります。

また、お江は秀忠の前に豊臣秀勝(秀吉の甥)と結婚しており、彼との間に生まれた娘・豊臣完子(さだこ)が九条家に嫁いでいるため、こちらからも皇室と繋がります。

身分の高い人同士の結婚は当然ですが、現在の皇室にはさまざまな戦国大名や江戸時代の藩主たちの血が流れている……というのは、あまり知られていませんね。

長政もその中に入っていることも、意外に感じられるかもしれません。

ちなみに、浅井三姉妹は長女の淀殿(茶々)を除いて、下の二人は浅井氏と織田氏の関係が悪化した後の生まれとされています。

政略結婚という始まりではありましたが、長政とお市の夫婦関係はずっと良好だったことがうかがえ、より一層、その結末は悲劇的に思えてきます。

浅井三姉妹の肖像画

浅井三姉妹・左からお江(崇源院)・茶々(淀殿)・初(常高院)/wikipediaより引用

 

自身は誇りや朋友に殉ずる――

小谷落城後、お市と三姉妹は守山城主・織田信次(信長とお市の叔父)に引き取られ、厚遇されていたといいます。

信次が天正二年(1574年)の長島一向一揆との戦で命を落とした後は、岐阜城で信長と暮らしていたようです。

その後、信長存命中はお市を再嫁させようとした形跡がないことから、待遇だけでなく心情的にも気遣われていた――そう見てもよいのではないでしょうか。

他に、長政には母親がはっきりしていない子供が数人いたという説があります。

跡がはっきりしているのは、刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)という女性です。

彼女は徳川家に仕え、異母妹にあたるお江が秀忠の正室となって身ごもった後、乳母になりました。

そのとき生まれたのが、豊臣秀頼の正室となる千姫です。

千姫/wikipediaより引用

千姫の教育係として、その後は大坂夏の陣まで大坂城にいたと考えられています。千姫が大坂城から徳川方に返されたとき、刑部卿局も供をして戻りました。

戦国大名は、戦に勝って家と血を残すのが最上です。

しかし長政のように、血を残せれば万々歳――自分自身は誇りや朋友に殉ずる、というのもひとつの生き様です。

そこに清々しさを感じられるからこそ。

今日でも「浅井長政が好き」というファンが多いのかもしれません。

 

追記(2025年8月31日)

天正元年(1573年)9月1日は浅井長政の命日――ということで義隆に関連する画像を本文中に10枚追加しました。

墓所を訪問される方のためにGoogleマップも追加しております。

▼更新履歴
・2025年8月31日:命日にあわせて肖像などの画像のほか墓所の情報を追加

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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