【中国大返し】を完遂した豊臣秀吉は、有利な態勢のまま直接対決へ持ち込むことに成功した。
一説に両軍の兵数は、明智1万3000~5000ほどに対し、秀吉側は2~4万とも。
かくのごとき圧倒的兵力差になったのは、畿内の細川藤孝&細川忠興親子や、高山右近、中川清秀たちが、光秀につくことをためらったことも影響。
また、四国へ出かける予定だった織田信孝&丹羽長秀のコンビが秀吉になびいたことが決定的だったかもしれない。
信長の側近であった名人・久太郎も参加し、いま【山崎の戦い】始まる――。
横槍部隊参上!
◆山崎の戦いで共に先陣を務めた中川・高山隊を救ったのが、戦の名人として知られた堀秀政さんでした。
もともとは織田信長の側近にして、その後、秀吉の家臣となり九州平定などでも実績を残す、密かに人気の戦国武将。
たしかにキレッキレなイメージなんすよねー。
-

堀秀政の生涯|信長に寵愛され秀吉に信頼された“名人久太郎”とは?
続きを見る
-

織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る
続きを見る
朱椀
◆お椀をひっくり返したかのようなこの兜。
正式名称は銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)と言い、実際に官兵衛が使ったものが岩手県盛岡に残されております。
-

黒田官兵衛は本当に天才軍師だったのか?59年の生涯を年表付きで解説
続きを見る
なぜ岩手に?
官兵衛の所在地って、兵庫→福岡じゃないの?
という疑問はもっともでしょう。
実は【黒田騒動】で家臣の栗山大膳が盛岡の南部家に預かりとなったとき持っていったのです。
栗山大膳とは、官兵衛の右腕だった栗山利安の子。
-

官兵衛の右腕だった栗山利安(善助)81年の生涯と息子・大膳の理不尽な追放劇
続きを見る
歴史って意外なところで続いてますなぁ。
明智藪
◆合戦の先には勝者と敗者あり――生死を賭した戦争行為そのもののは、もちろん大変ですが、その後、負けて戦場から逃げ出すことほどの地獄はないでしょう。
近隣の農民たちも、相当必死です。
なぜなら光秀を逃したことが秀吉にバレると、自分たちが後に襲われるリスクがあるからで、落ち武者の兜や刀などのお宝を狙うというよりも、必死で殺さねばならなかった――。
光秀どうなることやら……。
-

山崎の戦い|秀吉と光秀が正面から激突!勝敗のポイントは本当に天王山だった?
続きを見る
そして歴史の彼方へ……
◆うほっ、光秀生存説!
果たしてこの後、光秀は、天海となって江戸幕府の黒幕となるのか、あるいは延暦寺の僧となり、歴史を裏で操るのか。
しかし、かつて自身が攻め込み、焼き討ちした比叡山に逃げ場を求めるとは皮肉なもんですね。当時は信長の命令だから問題なかったんすかねー。
-

史実の明智光秀はドラマのような生涯を駆け抜けたのか?本能寺までの足跡を辿る
続きを見る
ちなみに現在、比叡山の焼き討ちは、「相当規模が小さく、虐殺なんてなかった――」という見方も有力な説の一つです。そう考えると、光秀の逃げ道も確保されてたかもしれませんね……。
あわせて読みたい関連記事
-

中国大返しの全貌|秀吉による伝説的な進軍 実際は普通の行軍だった?
続きを見る
-

山崎の戦い|秀吉と光秀が正面から激突!勝敗のポイントは本当に天王山だった?
続きを見る
-

豊臣秀吉62年の生涯をスッキリ解説・年表付き!派手な伝説はドコまで史実?
続きを見る
-

細川藤孝(幽斎)の生涯|光秀の盟友は本能寺後の戦乱をどう生き延びたのか
続きを見る
-

狂気の戦国大名・細川忠興の生涯|ガラシャを偏愛した御曹司の実績武功に注目
続きを見る
-

信長の三男・織田信孝の生涯|秀吉に敗れて迎えた無念の切腹は“十字腹”だった?
続きを見る
-

丹羽長秀は安土城も普請した織田家の重臣「米五郎左」と呼ばれた生涯51年
続きを見る
-

高山右近の生涯|信長や秀吉に重用されたキリシタンはなぜマニラに没したか
続きを見る
-

黒田官兵衛は本当に天才軍師だったのか?59年の生涯を年表付きで解説
続きを見る
-

堀秀政の生涯|信長に寵愛され秀吉に信頼された“名人久太郎”とは?
続きを見る
-

織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る
続きを見る
-

史実の明智光秀はドラマのような生涯を駆け抜けたのか?本能寺までの足跡を辿る
続きを見る
著者:アニィたかはし
文:五十嵐利休
書籍版『戦国ブギウギ』です!


















