慶長15年(1610年)8月20日は、文武両道の戦国武将・細川藤孝(細川幽斎)が亡くなった日です。
父は三淵晴員(みつぶちはるかず)。
名門細川家というだけでなく、政治や外交、合戦でも能力を発揮した、当代きっての才人であり、江戸期を通じて御家を残す礎を作り上げたのも藤孝がいたからこそです。
息子の細川忠興には、明智光秀の娘(細川ガラシャ)が嫁いでおり、当然、大河ドラマ『麒麟がくる』でも重要な役どころとなりました。
しかし……。
本能寺の変後、藤孝は光秀の協力要請を断ります。
結果、後の細川家繁栄に繋がるわけですが、いったい如何なる手立てで戦乱の難局を乗り切ったのか?
藤孝の生涯と併せて見て参りましょう。
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幕府の重要ポストに就ける家系に生まれた細川藤孝
室町幕府の重要ポスト・管領(No.2)に就ける家柄の一つ細川家。細川藤孝は、その分家筋に生まれました。
この時点で勝ち組の予感をひしひしと感じさせますが、経歴がまたスゴイ。
5歳で将軍に謁見、13歳で元服、ハタチで家督を継ぐというショートカットぶりです。
実は、母が12代将軍・足利義晴の側室で、懐妊したままお父さんに下されたという、平清盛的な説もあります。
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おそらくこの青少年期に和歌・茶道・蹴鞠・囲碁・料理などの教養や、刀・弓といった武術を身につけたのでしょう。
家柄と腕前と風流が全部揃ってるとかチート以外に何と表せばいいのやら。
しかし、順風満帆だったのはそこまででした。
文武両道のチートが32歳で「るろうに剣心」
細川藤孝32歳のとき。
剣豪将軍として名高かった十三代・足利義輝が暗殺されます。
いわゆる【永禄の変】というやつですね。
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そこで藤孝は、兄の三淵藤英や和田惟政らと共に弟の足利義昭を奈良興福寺から救出し、流浪生活をするハメに陥ってしまいます。
流浪中と思われるエピソードに
「あまりにお金がなくて照明用の油すら買えないので、神社から失敬した」
なんて話もあります。
おそらくや名家の生まれの割にはお高く止まっていたタイプではなく、現実主義者だったのでしょう。
義昭と共に幕府再興を狙ってあっちこっちの大名の間を渡り歩き、越前朝倉の世話になっていたときに、あの明智光秀とも親交を深めたと言います。
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【義昭―藤孝・光秀―信長】という関係だった
そして義昭の上洛(将軍就任)をお願いするため織田家へ行った際、あることに気づきます。
「もしかして義昭様より織田信長さんのほうがイイんじゃね?」
このとき共に行動していたのが明智光秀ですね。
藤孝と光秀。
両者とも、この出会いをキッカケに、徐々に信長の家臣のような働きをするようになっていきます。
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当初は
義昭
│
藤孝・光秀
│
信長
といった感じで間を取り持っていたんですね。
ハッキリと織田家の下に付くようになったのは1573年。険悪化していた信長と足利義昭の仲が決定的に分裂してから、織田の傘下に入りました。
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40歳で長岡(現・京都府長岡京市あたり)の領地を信長からもらったので、一時期、長岡姓も名乗っております。
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