細川藤孝

細川藤孝/wikipediaより引用

細川家

細川藤孝(幽斎)の生涯|光秀の盟友は本能寺後の戦乱をどう生き延びたのか

2025/08/19

慶長15年(1610年)8月20日は、文武両道の戦国武将・細川藤孝(細川幽斎)が亡くなった日です。

父は三淵晴員(みつぶちはるかず)。

名門細川家というだけでなく、政治や外交、合戦でも能力を発揮した、当代きっての才人であり、江戸期を通じて御家を残す礎を作り上げたのも藤孝がいたからこそです。

息子の細川忠興には、明智光秀の娘(細川ガラシャ)が嫁いでおり、当然、大河ドラマ『麒麟がくる』でも重要な役どころとなりました。

しかし……。

本能寺の変後、藤孝は光秀の協力要請を断ります。

結果、後の細川家繁栄に繋がるわけですが、いったい如何なる手立てで戦乱の難局を乗り切ったのか?

細川藤孝/wikipediaより引用

藤孝の生涯と併せて見て参りましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

幕府の重要ポストに就ける家系に生まれた細川藤孝

室町幕府の重要ポスト・管領(No.2)に就ける家柄の一つ細川家。細川藤孝は、その分家筋に生まれました。

この時点で勝ち組の予感をひしひしと感じさせますが、経歴がまたスゴイ。

5歳で将軍に謁見、13歳で元服、ハタチで家督を継ぐというショートカットぶりです。

実は、母が12代将軍・足利義晴の側室で、懐妊したままお父さんに下されたという、平清盛的な説もあります。

足利義晴

足利義晴/wikipediaより引用

おそらくこの青少年期に和歌・茶道・蹴鞠・囲碁・料理などの教養や、刀・弓といった武術を身につけたのでしょう。

家柄と腕前と風流が全部揃ってるとかチート以外に何と表せばいいのやら。

しかし、順風満帆だったのはそこまででした。

 


文武両道のチートが32歳で「るろうに剣心」

細川藤孝32歳のとき。

剣豪将軍として名高かった十三代・足利義輝が暗殺されます。

いわゆる【永禄の変】というやつですね。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用

そこで藤孝は、兄の三淵藤英や和田惟政らと共に弟の足利義昭を奈良興福寺から救出し、流浪生活をするハメに陥ってしまいます。

流浪中と思われるエピソードに

「あまりにお金がなくて照明用の油すら買えないので、神社から失敬した」

なんて話もあります。

おそらくや名家の生まれの割にはお高く止まっていたタイプではなく、現実主義者だったのでしょう。

義昭と共に幕府再興を狙ってあっちこっちの大名の間を渡り歩き、越前朝倉の世話になっていたときに、あの明智光秀とも親交を深めたと言います。

 

【義昭―藤孝・光秀―信長】という関係だった

そして義昭の上洛(将軍就任)をお願いするため織田家へ行った際、あることに気づきます。

「もしかして義昭様より織田信長さんのほうがイイんじゃね?」

このとき共に行動していたのが明智光秀ですね。

藤孝と光秀。

両者とも、この出会いをキッカケに、徐々に信長の家臣のような働きをするようになっていきます。

織田信長/wikipediaより引用

当初は

義昭

藤孝・光秀

信長

といった感じで間を取り持っていたんですね。

ハッキリと織田家の下に付くようになったのは1573年。険悪化していた信長と足利義昭の仲が決定的に分裂してから、織田の傘下に入りました。

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40歳で長岡(現・京都府長岡京市あたり)の領地を信長からもらったので、一時期、長岡姓も名乗っております。

 

光秀の娘ガラシャの「おとうさん」に

細川藤孝にとって、ある意味、最も大事件だったのは息子・細川忠興の奥さんかもしれません。

その名も細川ガラシャ。

明智光秀の娘・明智玉子です。

細川忠興とガラシャ像

このころ長男・忠興と彼女の婚姻が決まり、前後して光秀と行動を共にすることが多くなりました。

そして1582年に本能寺の変が勃発。姻戚関係的に本件と深く関わってきそうですが、ここでまた細川藤孝は極めて現実的な選択をします。

光秀から再三の要請を受けたにもかかわらず、

「私は信長様の死に哀悼を示し、出家します。後のことは息子がやりますのでよろしく」(超訳)

という返事を出し続けました。

いかにあの忠興でも父親の方針と真逆の行動を取るわけにはいきません。細川親子は揃って光秀への与力を拒否します。

前述の通り細川藤孝には異母兄の三淵藤英(みつぶちふじひ)がおりましたが、藤英が光秀の坂本城で自害に追い込まれており、この一件から恨みを抱いていたなんて見方もあります。

いずれにせよ、本来は協力して然るべきだった姻戚関係の家や、旧知の仲である大名への根回しができていなかったことは、光秀が最終的に天下を取れなかった理由の一つとも言われていますね。

また【突発的に】信長を殺したと読める要素でもあります。

本能寺の変、最大のナゾである光秀の動機については考え始めると止まらなくなりますので、よろしければ以下のマトメ記事をご覧ください(記事末にもリンクございます)。

織田信長(左)と明智光秀の肖像画
本能寺の変|なぜ光秀は信長を裏切ったのか 諸説検証で浮かぶ有力説とは

続きを見る

 


関ヶ原では東軍 15000vs500の大ピンチにも

豊臣秀吉の天下になると、細川藤孝はその教養を高く買われ、武士としてというより文化人として茶会や歌会などの仕事を多くするようになります。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

名目上は隠居の身という理由もあったでしょう。

この頃すでに50歳を超えていますから、当時の感覚としては自他共に「棺桶に片足突っ込んでる」と思っていたとしてもおかしくはありません。

そして彼の人生で歴史的に最後の見せ場だったのは【関ヶ原の戦い】です。

細川藤孝は既に豊臣一門を見限っており、家康に接近していたので当然東軍側でした。

丹後・田辺城(現・京都府舞鶴市)の守将になっており、ここを15,000もの西軍に取り囲まれてしまいます。

城兵は500程度だったそうで、単純な兵数だけでも30倍の戦力差。

これはひどい。さすがに終わった……と思いきや……。

藤孝の守る城側は戦意が高く、また三男・幸隆が一緒にいたことも心強かったらしく、なんと50日もの間持ちこたえました。

やっぱり合戦は、気の持ちようが大事なんですかね。

攻め手の武将には、細川藤孝の歌道の弟子が何人もいたのも大きかったでしょう。「お師匠様に弓を引くのはちょっと……」という引け目もあったようです。

そもそも田辺城は忠興の城だったので、そこに藤孝がいることは事前にわかっていて当然なのですがこのグダグダっぷり。

田辺城の戦いは6月~9月。

関ヶ原の本戦直前に行われています。

この時点で西軍の戦略のまずさがありありと見て取れます。

 

古今伝授は細川藤孝さんしか知らへんのやで

田辺城の戦いで大慌てになったのは、石田三成でも徳川家康でもなく朝廷、もっと言えば皇室の方々でした。

もちろん西軍のgdgdぶりに対する危機感ではなく、「細川藤孝が危ない」ということでした。

当時、藤孝は上記のチートぶりに加え【古今伝授】という秘伝を受け継いだ唯一の人物として知られていました。

何か必殺技みたいな名前ですが、武道ではなく和歌の話です。

平安時代の勅撰和歌集・古今和歌集の解釈について、代々語り伝えてきたいわば”秘伝のタレ”みたいなもので、この時代、細川藤孝以外にそれを知る人物はいなかったのです。

そのため「アイツが死ぬと誰もわからなくなる!それはマズイから早く戦をやめさせよう!」という話になったのです。

何だか微妙に美しくない話のような気がしますが、気にしないでおきましょう。

 


ついには天皇の勅命による講和を引き出す

細川藤孝の戦意は常にMAXでした。

弟子の一人である八条宮智仁親王という方が講和を呼びかけても

「ありがたいお話ですが、ぶぶ漬けどうぞ^^」(超訳)

という態度。

八条宮智仁親王/wikipediaより引用

しかもただ断るだけでなく、貴重な和歌集などを献上するという徹底振りです。

どこからどう見ても言うことを聞くつもりがありません。

とはいえ、やはり細川藤孝を死なせるわけにはいかない――。そう判断した智仁親王は、ついに最後の手段に出ます。

実兄・後陽成天皇の勅命による講和を引き出したのです。

戦国時代の天皇というと、とかく軽視されがちですが、さすがの細川藤孝も意地を張り続けることはできません。

講和が成ったのは9月13日、関ヶ原本戦の2日前というギリギリぶりで、藤孝も幸隆も命が助かり、さらに西軍の戦力を削ぐという大きな功績を挙げることになります。

ちなみに田辺城を包囲していたいた15,000という兵力は小早川秀秋が率いていたのと同等の数です。

小早川秀秋/wikipediaより引用

講和時点では当然もっと減っていたでしょうけども、この数字を見ると細川親子の働きがいかに大きかったかが窺えます。

もしかしたら、細川藤孝はそれを見越して粘ってたんですかね。

頭のイイ人は恐ろしい。

 

生涯側室をもたず=NHK大河ドラマ候補か

関が原の時点で既に70歳近かった細川藤孝。

その後、慶長十五年(1610年)に亡くなるまで、今度こそ本格的な隠居生活をしていたそうです。

彼は生涯側室を持たず、この頃も正室が存命していましたので、老夫婦で仲良く暮らしていたのではないかと思われます。

隠居所も生地・京都東山に近い吉田ですから、まさに理想の老後ですね。

ここまで見ると愛妻家以外に息子との共通点があまりなさそうに見えますが、ブッ飛んだセンスにおいては血筋を感じる逸話もあります。

しかしやはり歌に関するものが多いのは流石というか何というか。

個人的には江戸時代に入ってからの話で、

【江戸城でうたた寝してたら芝の屋敷が燃えていた。一句詠んだ。家康が褒めた】

という話が好きです。

訳はざっくりですが、風流を極めるとこうなるんでしょうか。カッコイイと言うしかありません。

その他にも良い意味でネタに事欠かない方なので、文武両道タイプがお好きな方は彼について調べてみてはいかがでしょうか。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
桑田忠親『細川幽斎 (講談社学術文庫)』(→amazon
細川幽斎/wikipedia
まいづる観光ネット(→link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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