北条早雲

北条早雲/wikipediaより引用

北条家

北条早雲が戦乱の関東に拠点を築く!正体は幕府のエリート伊勢宗瑞か

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早雲はやっぱりデキる人

しかし、時が過ぎ、龍王丸が15歳を過ぎても、範満は家督を戻そうとしません。もはや様式美ですね。

早雲が奉公衆に任命されるのは、この間のこと。

長享元年(1487年)にも再び駿河へ行くのですが、このときも奉公衆という肩書が多少なりとも役に立ったものと思われます。

とはいえ、年号を見てもわかる通り、既に応仁の乱が終わっており、関東も享徳の乱がやっと終わったところなので、全体的には「幕府の権威ってwww」みたいな感じだったかもしれません。

しかし、早雲はやっぱりデキる人でした。

甥っ子・龍王丸を補佐して石脇城(現・静岡県焼津市)に入り、兵を集めて軍を蜂起。そのまま駿河館を攻め、範満とその弟・小鹿孫五郎をさっさと始末してしまうのです。なんたる早業。

晴れて龍王丸は駿河館へ移り、2年後には元服して「氏親」を名乗り、正式に今川家当主となります。

今川氏親は、あの今川義元の父ですから、早雲がいなければ【桶狭間の戦い】も起きず、日本史に大きな影響を与えたかもしれません。

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ともかくこの功績により、早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現・沼津市)に所領を与えられました。

本人は駿河に留まって氏親の補佐をしていたため、守護代の地位にあったとも考えられています。

早雲はこの頃、幕府奉公衆の一人である小笠原政清の娘・南陽院殿と結婚。

長享元年(1487年)に嫡男の北条氏綱が生まれているので、夫婦仲はいいほうだったんでしょうね。

 

中央の思惑に対し地方グループが……

さて伊豆近くに所領を得てからは、すぐそばに根付いていた堀越公方・足利政知との関係が重要になってきます。

政知には三人の息子がいました。

長男・茶々丸、次男・清晃(のちの義澄)、そして三男・潤童子です。

もともと足利政知は、義政の命令で新しい鎌倉公方になるはずだったのに、永享の乱のせいで宙ぶらりん状態になったという経緯があります。

そのため京都や奈良では

「政知は義政を恨んでおり、そのうち清晃を還俗させて次の将軍に擁立するつもりだ」

という噂が立っていたそうで。

その陰謀に早雲と今川氏親が関与していたとか、いないとか……そんな噂話に尾ひれがついておりました。

要は「足利義政・日野富子・足利義尚の親子に対し、足利政知・北条早雲・今川氏親の地方グループが組んでクーデターをしようとしていた」という話です。

早雲からすれば足利義尚は直接仕えていた主君です。

もしかしたら「義尚様に跡継ぎが生まれなければ」という考えはあったかもしれません。

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しかしそれが実行されるより早く、政知が延徳三年(1491年)4月に亡くなってしまいます。

そしてその三ヶ月後の同年7月、茶々丸が潤童子とその母・円満院をブッコロすという物騒極まりない事件が起きるのでした。

 

素行が悪い茶々丸「土牢に軟禁」なんて説も

普通なら、茶々丸のほうが年長ですからスムーズに家督を継げるはずでした。

が、これはまさに日頃の行いというやつでした。

実は、茶々丸は幼い頃から素行が悪く、政知に冷遇されていたのです。

「土牢に軟禁されていた」なんて説まであるくらいですから、よほどだったのでしょう。

ただ、素行の悪さについては円満院の讒言だとか、政知の死後は円満院に虐待されたという話まであり、何ともいえません。

いずれにせよ1470年代生まれと見られる茶々丸が、20歳を超えても元服していなかったのはほぼ確実なので、よほどの事情があったのは間違いなさそうです。

更にはこの間、九代将軍の足利義尚が亡くなり、十代将軍・足利義稙(当時は義材)になっていました。

そこで起きたのが【明応の政変】です。

明応二年(1493年)4月、管領・細川政元は足利義稙を追い出し、茶々丸の異母弟かつ潤童子の同母兄である清晃を将軍に擁立しました。

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清晃は還俗して義遐、のちに足利義澄と名を改めます。

義澄にとって茶々丸は、実母と実弟の仇です。

仇討ちのため、実力があり現地にも近い北条早雲に出兵を命じました。

実は早雲は、延徳三年(1491年)5月~明応四年(1495年)あたりに出家しており、これをもって幕府の役職・奉公衆を辞めたとも考えられているのですが、義澄はそんなことお構いなしだったようです。

まあ、この時点ではまだ家督を譲ってませんからね(長男・氏綱はまだ幼児)。

義澄からすると

「アイツ、跡継ぎの話をしてこないってことはまだバリバリ仕事できるんだよな?

出家したらしいけど、病気とかじゃないっぽいな。

なら俺の仇討ちに付き合えよ^^」

みたいに考えていたんですかね。

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