井伊直弼/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新 井伊家

井伊直弼46年の生涯をスッキリ解説!大河一作目の主人公は波乱の人生

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戦国初期は、今川家の国衆に過ぎなかった井伊家。
そんな小さな家から、徳川家康の天下取りを支え、大出世を遂げた人物が井伊直政でした。

彼らの苦難を描いた大河ドラマが昨年の『おんな城主 井伊直虎』だったことはよくご存知のことでしょう。

実は、井伊家が大河の主役を飾ったのは昨年が二度目のことでした。

栄えある第一作『花の生涯』。
その主人公こそ、「安政の大獄」や「桜田門外の変」で知られる井伊直弼でした。

 

大河ドラマの主役らしい主役とは?

本題の前に、井伊直弼とも関係の深い大河ドラマの話からさせていただきます。

現在の大河において、欠点としてあげられやすいのが以下の条件です。

・主人公が女
・主人公が敗者
・脚本家が女性
・若い視聴者狙いでイケメンやアイドル女優が出演
・架空のキャラクターが出てくる

主なキーワードとしては「女性」や「敗者」、「ミーハー」というところでしょうか。
こうした点を踏まえますと、逆に

・主人公が男
・主人公が勝者
・脚本家が男性
・若い視聴者狙いのキャスティングはしない
・架空のキャラクターは出さない

といった条件が望ましいとなります。
いわゆる「古き良き大河ドラマ」ですね。

ところが、です。
実は、この法則は、大河ドラマ草創期においてもあてはまりません。

今から50年前、明治維新100周をふまえて作られた第5作目の大河ドラマ『三姉妹』の主役は、幕臣旗本の娘たちでした(NHK)。
この作品では
・女性主人公
・架空人物
・幕臣という負け組
という、ダメダメの法則が三拍子で揃っております。

 

当時、話題作りとしてイケメンやアイドルのような女優を出すことはアリでした。
あくまで基本は、脚本や演出、演技等の実力勝負という意識が強かったのでしょう。

2016年『真田丸』で人気を博した草刈正雄さんも、1976年『風と雲と虹と』に初出演した当時は、旬の美男若手俳優でした。

1987年『独眼竜政宗』の秋吉久美子さんも、当時はセクシーなアイドル。
それを反映してか、政宗との入浴シーンまでありました。

放映当時「トレンディ大河」と揶揄された1991年の『太平記』では、男性の北畠親房を、美少女アイドルとして人気のあった後藤久美子さんが演じています。
今では考えられないほど、斬新な試みです。

そして、負け組のドラマなんて見たくもない、という批判。
これにつきましては、そもそも一作目の主人公が井伊直弼という時点で、何を言っているのか、という話です。

それでも気になる方も多いとは思います。

井伊直弼で、一年間も持たせることができたの?
「安政の大獄」と「桜田門外の変」だけでは?

答えは、むろん、イエス。
どうしても幕末の動乱期ばかりが注目を集める直弼ですが、実は生まれた時から波乱の人生を送ってきました。

十分ドラマになる人物なのです。

 

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彦根藩主の庶子として

井伊直弼は文化12年(1815年)、近江の彦根藩第11代当主・井伊直中(なおなか)の14男として生まれました。

母は側室のお富。
直中と富の間には既に二人の男子(11男・直元、13男・直与)がおり、直弼は富にとって三番目の子ということになります。
母の富は、美貌と知性で寵愛を受けましたが、実家は浪人でした。

しかも直中はこのころ既に隠居しており、直弼は晩年の子になります。
我が子というよりは孫のような感覚でしょう。
彦根藩の江戸屋敷で、直弼は父母に可愛がられて育ちました。

5才の時に母、17才で父を亡くすという不幸はあったものの、当時は彦根藩の藩政も比較的安定しており、直弼は穏やかな暮らしを送ることができました。

 

「埋もれ木」の生活

父の死後、直弼は彦根城内の屋敷に移ります。

18才で元服もしますが、出自は庶子で、兄もかなり多い。
直弼は世捨て人のような境遇に置かれました。

名門井伊家の子でも、さすがに14番目の男子となりますと、養子になれる道もありません。
300俵の部屋住みとして、ほとんど未来のない日々を送ることになるのです。

かくして32歳までの15年間。
300俵の部屋住みとして過ごした直弼は、自邸を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けました。
部屋住みの身として、花咲くことのない我が身を、埋もれ木にたとえたのです。

後に、直弼の住まいは、「埋木舎」から「柳和舎」、「柳王舎」へと移ります。
柳は直弼の好んだ木でした。

直弼が暮らしていた埋木舎/photo by 663highland Wikipediaより引用

もちろん、ただ漫然と過ごしていたわけではありません。
直弼は井伊家の男子らしく、武芸学問に励んでいます。

武芸は、剣術、鑓術、馬術、居合術。
居合術については一派を創設したほどです。

学問は、兵学、古典文学、和歌、俳諧、狂歌。
その他にも能、茶道、禅、和楽器をこなし、いずれの道においても、卓越した才能を見せます。

そうした修養の日々を送りながら、直弼はやはり己の境遇に虚しさを感じてしまいます。
仕方のないことでしょう。
いくら才能があっても持て余すだけなのですから。

井伊家の庶子は、仏門に入ることがありました。
直弼の叔父も、そうでした。
この俗世にいても埋もれ木なのであれば、いっそ仏門に入った方がよいのではないか――そんな思いから、直弼は禅にも傾倒していきます。

天保14年(1842年)頃、直弼は、後の行動をともにする長野主膳義言という人物と知り合った、とされています。

出会った頃の二人は和歌について関心を持っておりました。
そのうち国学を習うようになり、直弼はその方面も造詣を深めることになります。

 

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井伊家の世子として

ずっと燻っていた直弼に、急な転機が訪れたのは32才のときです。

弘化3年(1846年)、兄・直元が急死。
江戸出府を命じられ、12代藩主・直亮の世子、次期藩主とされたのです。

17才から15年、およそ人生の半分を埋もれ木として過ごしてきた直弼にとって、予想外のことでした。

直弼自身も、戸惑いを隠せません。
なんせ、埋もれ木という境遇が終わり、名門井伊家の世子となることは、大変なプレッシャーです。

跡継ぎとそれ以外の教育、暮らし、覚悟というのは、まったく違う。
しかも、30を過ぎてからの激変では、直弼でなくても相当なストレスと疲労を感じたことでしょう。

直弼からみると、養父となった直亮はどうにも自分勝手で、言うことを聞く家臣ばかりを重用しているように思えました。
直亮も、直弼に対して良い感情を抱いていなかったようです。

井伊直亮/Wikipediaより引用

直亮は、蘭学に興味関心があり、西洋の文物を積極的に取り入れようとしていました。

しかし当時の彦根藩は財政が悪化しており、そのような開発事業に予算を割いてもよいかどうか、難しい局面。
直弼と直亮の対立は、薩摩藩で言えば島津斉興島津斉彬の対立に似たような部分があったのでしょう。

直弼は、直亮との対立に悩みながらも、井伊家世子としての意識を高めてゆきました。
なんせ彼らは、将軍家との関係において特別な間柄です。

井伊家は、将軍家にとって常に先鋒でなくてはならない――直弼はそう意識しています。
要は、ただ単に家を継ぐだけではなく、将軍家の危難に際して真っ先に動く家ではくてはならないと決意していたのです。

弘化4年(1847年)、直弼は政治の舞台において発言力を見せています。
海外からの船舶が接近する情勢の中、彦根藩は、相州警備の幕命を受けました。しかし直弼は、井伊家は京都守護の家柄であり、二カ所も同時に守ることは不可能だと反発します。

井伊家は、2代目の井伊直孝以来、京都守護を行うことが慣例となっていました。
正式な任命ではなく、家康が京都で鷹狩りを行った際に、密命を受けたのが始まりとされています。

直弼が相州警備に反発したのは、それだけが理由ではありません。
天下第一、先鋒として役割を果たすべき井伊家が、警備において不備を指摘されては不名誉なことであると考えてのこと。

この井伊家は別格であるという強い意識は、直弼の心の底にしっかりと刻みこまれたものでした。

 

彦根藩主・井伊直弼

嘉永3年(1850年)、直亮が国元で死去。
これを受け、直弼は井伊家第13代35万石の藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)を称しました。

直弼は養父・直亮の遺志であるとして、領民に15万両の大金を分配。
翌年近江に入ると、藩政改革に着手しました。

直弼の内政手段は優れたものがあり、名君と呼ばれるにふさわしいものがありました。

藩主として人材登用した中には、長野主膳も含まれており、彼も実務能力の高い人物。
そして、それゆえ後年恨みを買うことにもなるのでした……。

長野主膳/wikipediaより引用

 

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黒船来航、直弼VS斉昭

嘉永6年(1853年)、黒船来航というXデーが訪れました。

しかもタイミング悪く、将軍であった徳川家慶が死去。
幕府は大変な状態に陥ります。
【関連記事】徳川家慶

そしてその翌年の安政元年(1854年)、ペリーが再度来港します。

ペリー来航/wikipediaより引用

立て続けに舞い込んでくる幕府への重圧。
江戸城西湖之間(さいこのま)では、ペリーへの対応をめぐり、激論が交わされました。

「異人の船なぞ、打ち払ってしまえばよい!」
そう強硬な攘夷論を主張したのが、水戸藩主・徳川斉昭です。

これに対して、直弼と佐倉藩主・堀田正睦らとは大反対します。
「異国船を打ち払うなぞ、もはやできません。ここは穏便に和平の道を探るべきです!」

両者は真っ向から対立。
それまで直弼と斉昭は、良好な関係を築いていました。

しかし、このときをキッカケに両者の関係は破綻。
この対立が、幕末の政局を悪い方向に動かしてしまいます。

 

問題山積みの政局

黒船がらみの外交だけでも四苦八苦なのに、当時の幕府にはそれ以外の様々な問題が重なっていました。
ザッと挙げますと……。

・天変地異、大地震の頻発
・コレラの大流行
・将軍継嗣問題

さらに悪いことは重なるもので、安政4年(1857年)、老中首座で調整役だった阿部正弘が若くして急死してしまうのです。

後任者の井伊直弼と堀田正睦も、決して無能な人物ではありません。
むしろ優秀でなければ幕府の中枢には引き揚げられません。

両者には、阿部のような柔軟さがなかったのです。




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無謀な攘夷をせよ!せよ!とけしかけてくる水戸斉昭を即座に幕政から追放。
この状況に堀田への怒りを滾らせた斉昭は、この後、政治をさらなる混乱へと導いていくことになるのです。
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