黒田家

黒田官兵衛59年の生涯をスッキリ解説【年表付き】本当に軍師だったのか?

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『軍師官兵衛』など存在しない――。

なんて言うと黒田官兵衛ファンの皆さまには『イキナリ何だ?』と引かれるかもしれませんが、これがある意味正解。

日本に職業(官職)としての『軍師』が規定されたことはなく、今日こんにち、我々が言葉にしているのは江戸時代の軍学や軍記物などによって作られた“イメージ”です。

しかし。
今なおこの言葉が魅力的なのは、どうしてなのか。

彼らが戦術に限らず、築城や内政、外交など、様々なジャンルで才能を発揮したからであり、その代表的存在が、織田信長豊臣秀吉徳川家康のもとで多才な活躍をした黒田官兵衛ではないでしょうか?

またの名は黒田孝高、あるいは黒田如水など、いくつかありますが、本稿では黒田官兵衛で統一。
激動の生涯を史実ベースで振り返ります。

果たして如何なる軍師像が浮かんでくるでしょうか……。

 

官兵衛の若年期

官兵衛は、天文15年11月29日(1546年12月22日)に誕生しました。

母は播磨国国衆・明石正風の娘。
7才で読み書きを習い始め、14才の歳に母を亡くし、迎えた永禄5年(1562年)、初陣の機会がやってきました。

相手は、小寺氏と対立していた浦上宗景です。
官兵衛17才のときでした。

初陣を果たした前後の官兵衛は、連歌や和歌を好んでいました。
この道を究めたいとすら考えていましたが、近隣の僧が諫めます。

「今は乱世です。風雅の道よりも、兵書を学び、弓馬の道をおさめるべきです」
こう言われた官兵衛は、今は歌は必要じゃないなと思い直します。

ただし、官兵衛が風雅の道を諦めたわけではありません。

後年落ち着くと連歌を再開。
細川幽斎最上義光らとともに、当時の武将としてはトップクラスの実力を誇る名手とされています。
センスと教養があったのですね。

実際、官兵衛の叔父・小寺休夢は、秀吉のお伽衆にまでなった人物です。
当意即妙の歌を詠む、そんな文才は、環境や血筋の影響もあったのでしょう。

【関連記事】戦国武将も愛した連歌が実はメッチャ面白い!

永禄7年(1564年)、官兵衛にトラウマ級の事件が起きました。

室津の浦上清宗が祝言において赤松政秀に攻め殺され、嫁いでいた官兵衛の妹もろとも殺害された、というものです。

フィクションでは欠かせない騒動ではありますが、実は史実かどうかは不明。
3人いたと伝わる官兵衛の妹は、いずれも有力者に嫁ぎ、平穏に生きていたと伝わります。

一方、自身の結婚は、永禄11年(1568年)前後とされています。

永禄11年(1568年)に息子・松寿丸(のちの黒田長政)が誕生したことは確かですが、結婚の時期がいつなのか、というのは記録がないのです。
息子誕生のタイミングから逆算しているわけですね。

官兵衛はこのとき23才、妻の櫛橋光(くしはし てる・後に幸圓)は16才とされています。
(ドラマでは中谷美紀さん)は体格がよく、賢く、大変優れた女性でした。

 

小寺氏、信長に臣従する

官兵衛の運命が一変するキッカケは、畿内から西へ勢力を伸ばし始めた織田信長でした。

より正確に言うと現地へやってきたのは羽柴秀吉ですね。

イラスト/富永商太

当時の播磨はかなり混乱しており、まさしく群雄割拠という状態。
かつて一大勢力であった赤松氏が衰退すると、かわって様々な勢力が台頭します。

播磨国
・御着城主:小寺氏
・三木城主:別所氏
・龍野城主:龍野赤松氏

備前国
・宇喜多氏(宇喜多直家宇喜多秀家
・浦上氏

そんな播磨に侵攻を模索していたのが織田信長であり、小寺氏は織田勢との戦いで敗退。
官兵衛は、天下の大名でこれから台頭するのは織田信長と毛利輝元なれど、信長につくべきだと主君・小寺に進言します。

信長の元に、小寺の使者として赴いた官兵衛はすっかり相手から気に入られ、秀吉を播磨攻略に差し向けることにしました。

そしてその支援者として官兵衛を指名した、というのですが、このあたりの話はいささか出来過ぎの感がありますね。
後世の創作も混ざっているかもしれません。

天正5年(1577年)、毛利氏と小寺氏の間で英賀合戦が勃発。
構図としては、信長に臣従した小寺氏による代理戦争ともいえるもので、官兵衛も武功を立てたことが確認できます。

そして当時はまだ羽柴だった秀吉が播磨に入ると、小寺氏よりも官兵衛を重用するようになりました。

これを機に【信長&秀吉と官兵衛】の関係は強固なものとなり、現在に至るまでのイメージである【秀吉の元で奮闘する知将・黒田官兵衛】としての姿が出来上がりました。

同年、官兵衛は「上月城の戦い」でも戦果をあげ、秀吉の播磨攻略で存在感を見せるようになるのです。

 

村重の謀叛と幽閉

秀吉の右腕として、順調に戦功を重ねていく官兵衛。
しかし、おそるべき陥穽が彼を待ち受けておりました。

天正6年(1578年)、伊丹・有岡城主である荒木村重が謀叛を起こしたのです。

荒木村重の謀反(漫画:富永商太)

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信長は性格的に、謀叛を起こしたら即座に討伐する魔王ではありません。
一応説得を試みます。

そこで織田側から何度かの説得が試みられ、その都度失敗し、ついに選ばれたのが官兵衛でした。

交渉力に一目置かれていたこともありますが、もう一つ事情があります。

播磨で裏切りの連鎖とでもいうべき事態が発生してまして。
官兵衛の主君・小寺氏までもが、毛利氏に誘われ、織田への謀叛を決意していたのでした。

事態を憂慮した官兵衛は御着城に向かい、主君の説得に乗り出します。

そこで小寺政職から出された条件が次のものでした。

【村重が謀叛を撤回するならば、私も毛利氏の誘いには応じない】

一見、説得力のある話です。
そもそも村重が織田を裏切ったのも、石山本願寺の攻略が遅々として進まず、毛利を頼ったほうが得だと考えたから――という見方があり、小寺としても、このままでは村重と毛利に挟まれ危険な状況。
ゆえに村重の説得は、多くの者にとって死活問題でした。

しかし、小寺政職は策を弄するのです。
官兵衛に説得を命じる一方、村重に使者を出し、官兵衛の暗殺を依頼していたのでした。

これでは、罠に飛び込んだ小鳥も同然。
官兵衛は敢えなく有岡城に幽閉されてしまいます。

もしかしたら小寺政職は、主君をさしおいて信長や秀吉と接近する官兵衛が疎ましかったのかもしれません。

留守を守る黒田家は団結し、この荒波を乗り切ろうとします。

一方、信長は、官兵衛が裏切ったと思い、激怒。
人質となった官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)殺害を命じます。

竹中半兵衛は反対しました。
が、聞き入れない信長。

仕方なく半兵衛は松寿丸を匿うことにします。
もし発覚したらただではすまない、命がけの行動でした。

残念ながら半兵衛は、天正7年(1579年)に亡くなり、幽閉中の官兵衛との再会はかないません。

天正7年(1579年)10月、有岡城が攻め落とされた際、やっと官兵衛は一年あまりを経て解放されます。
頭髪は抜け落ち、膝の関節が曲がり、脚は一生回復することはありませんでした。

 

秀吉の中国攻略と官兵衛

幽閉を終えた官兵衛は、秀吉の中国平定に付き従いました。

まず天正8年(1580年)に、別所長治の三木城を陥落。
翌天正9年(1581年)には、吉川経家が城主となっていたに鳥取城へ出兵(第二次鳥取城攻め)をします。
さらには天正10年(1582年)、毛利氏の武将・清水宗治が守る備中高松城を攻略するのですが……。

秀吉の中国攻略に関しては、上月城攻めからそういう傾向がありましたが、なかなか凄惨な様相を呈しております。

兵糧攻めや水攻めを
【武器で直接殺さないから秀吉&官兵衛って優しい!】
なんて強引な解釈がたまにありますが、実態はそんなに甘くありません。

特に、三木城と鳥取城で過酷すぎると評され、それぞれが
三木の干し殺し
鳥取の渇え殺し
なんて語り継がれるぐらいです。

両合戦ともに、とにかく飢えを徹底させて、城内では人の屍体を食した――とまで伝わりまして。
戦国ファンにとってはお馴染みかもしれませんが、以下に詳細がございますので、よろしければご参照ください。

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水攻めでは、アイデアを出したのが秀吉で、実際に堤防を築いたのは官兵衛の功績とされています。

もともと秀吉は、付城(城を包囲するときに作った攻め手の簡易的な砦)の設置をはじめとした土木工事に長けていたとされますが、官兵衛もその能力が伝わったか、あるいは元々高かったようで。

中国攻略の最中、官兵衛を見捨てた小寺氏も滅亡、官兵衛は黒田姓に復します。

この段階で、秀吉に付き従う【軍師・黒田官兵衛像】は完成したというところでしょう。

しかし、この中国攻めの最中、驚天動地の知らせが秀吉陣中に届きます。

本能寺の変」です。
明智光秀の裏切りによって、織田信長が横死を遂げたのでした。

 

秀吉の天下取りと官兵衛

本能寺の変と言えば、結果的に秀吉を大出世させた一つの大きな契機でもあります。
軍師官兵衛の各作品にとっても、中盤のハイライトになるでしょう。

官兵衛は
「秀吉こそ次の天下人である!」
と進言、毛利との和睦から、中国大返しを提言したというものです。

イメージとして強く根付いており、フィクションでは必ずや見せ場になりましょう。

ただ、残念ながら史実かどうかは疑わしくて、ですね……。
当時の情勢は混沌としており、そこまで断言できる材料はなかった、と見なすほうが妥当です。

いずれにしても秀吉伝説の一つ「中国大返し」を見ないワケにはいきません。

本能寺の変を知った秀吉が、急遽、毛利氏との和睦を取り付け、畿内へ向けて軍を反転。
200kmもの道のりを10日間で突き進み、山崎の戦いで明智光秀を倒した――というものです。

あまりに鮮やかで面白すぎるお話ですが……色々と割引して考えねばならないところもあります。

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例えば、この道中、官兵衛は姫路から人を派遣し、事前に食事を用意していた、なんて話もあります。

しかし、そこまでの余裕があったとはさすがに考えにくい。
多少は可能だったでしょうが、道々に、松明やら握り飯まで用意していたという話となると、さすがに出来過ぎでしょう。

中国大返しで官兵衛は、殿(しんがり・最後尾)を務めていたという指摘もあり、畿内へ進むことよりも、むしろ毛利の追撃に注意を払っていたフシがあります。
毛利とは和睦を結んではおりましたが、100%信じ切って背後を攻められたら、明智光秀との合戦どころじゃありませんので……。

太陽の子・秀吉も。
天才軍師・官兵衛も。
とかく創作がメガ盛りになりがちで実態がわかりにくい。この一件に関しては、少し控えめに考えたほうが良さそうです。

ただし、秀吉が天下人として台頭してゆく過程で、官兵衛が武功をあげていることは確認できます。
山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦でも出陣しており活躍。

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山崎の戦いから九州平定まで

この先しばらくは秀吉の軌跡と重なり、天下統一作業へ突き進みます。
詳細は以下の記事にお譲りして

豊臣秀吉62年の生涯をスッキリ解説【年表付き】多くの伝説はドコまで本当?

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ここでは年表に従いながら進みます。

九州平定後まで一気ですので、茶色の見出し部分だけ確認してもよろしいでしょう。

・1582年 山崎の戦いで明智光秀に勝利

→秀吉軍4万に対し明智軍は1万6000(太閤記)。
官兵衛は激戦となった中川清秀軍を補佐し、勝利に貢献した。
毛利の牽制を期待していた明智の予測を裏切り、中国大返しを成功させたのが大きな勝因であり、毛利に対する交渉・殿を務めた官兵衛の功績が光る。
秀吉は山崎城を築いて周囲に対する牽制をはかった。

・1582年 清州会議で三法師を擁立

→石高では秀吉が柴田勝家を上回る。
しかし、近江の要・長浜城やお市の方を渡すことになり、実は一人勝ちでもなかった。
天下の趨勢はまだまだ見えない(そうでなければ後の賤ヶ岳の戦いもない)。

・1582年 織田信長の葬儀in大徳寺

→信長の葬儀(百カ日法要)を実施。
遺体の代わりに香木を2体用意、1体を祀り(木造織田信長坐像が現存)、1体を火葬するというもので、7日間かけて行われた。
かなり大規模なもので参列者は3000人にのぼり、それに伴う警護の兵が3万人も用意されたのは、やはり対外的なアピールが重視されてのことだろう。
信長の息子たち(織田信雄織田信孝)は招かれず、同様に勝家も出席せず。
賤ヶ岳の戦いへと繋がっていく。

・1583年 賤ヶ岳の戦い

→秀吉vs勝家は、両軍共に、強固な砦の設置で戦線は膠着。
そんな中、鬼玄蕃と称される猛将・佐久間盛政の奇襲で中川清秀軍が崩壊する。
続けて攻撃された官兵衛軍がこれを凌ぎ切り、岐阜へ向かうと見せかけていた秀吉本隊が戻ってくると形勢は一気に逆転した。
柴田勝家は、信長の妹で妻であるお市と共に自害。
三姉妹(茶々・初・江)は秀吉に引き取られ、長女の茶々が後に側室となって豊臣秀頼を生む。

・1583年 大坂城の築城開始

→官兵衛が工事責任者となり6万人を動員、約15年の月日をかけて完成させる。
※築城や街づくりは得意だったようで、後に戦乱で荒れた博多を復興させたのも官兵衛だった。

・1584年 小牧・長久手の戦い

→秀吉(10万)vs徳川・織田信雄(3万)の戦い。戦力的には秀吉方が圧倒的に有利だった。
開戦当初の官兵衛は、大坂で居留守役も、息子の黒田長政が参戦、岸和田の戦いなどで戦功を挙げる。
家康不在の三河へ攻め入ろうとした【池田恒興・森長可堀秀政・羽柴秀次】軍が徳川の逆襲に遭った頃に官兵衛も戦場へ赴いており、ここでも殿を務めるなどして活躍。
小規模な戦いがいたるところで起きたこの戦いは、最終的に織田信雄を取り込んだ秀吉の政治的勝利に終わった。

・1585年 紀州征伐

→かつて石山本願寺に立て篭もり、織田信長を震撼させた鉄砲集団・根来&雑賀衆を物量戦で征伐する。
しかし、独立気風がことのほか強い土地柄で、その後、一気が勃発。
あまりにも反勢力の蜂起が激しく、他に先駆けて「刀狩り」が行われた。

・1585年 長宗我部元親が降伏

→四国攻めの官兵衛は、蜂須賀正勝と共に検使として渡り、阿波へ侵攻すると諸城を次々に陥落。
長宗我部元親は降伏せざるを得ない状況となり、四国全域から土佐一国の知行に減ぜられた。
戦後、伊予で知行の配分にあたっていた官兵衛は、この後、四国・中国軍を率いて九州攻めに進むことになる。

・1586年 秀吉、太政大臣に就任

→正二位内大臣に叙任されていた秀吉は(正二位は信長と並ぶ位階)、近衛家の養子となって前年の1585年に関白就任。
翌年、太政大臣となって、まさに位人臣を極める(臣下として最高位となる)。
この後、官兵衛は従五位下・勘解由次官の官位を得た。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

・1587年 九州平定

→この時点で秀吉に従っていない大勢力は、
・九州の島津氏
・関東の北条氏
・東北の伊達氏ら(最上は早くから通じる)
だった。

真っ先にターゲットとしたのは、このままでは「九州全域を支配するのではないか?」という勢いの島津家でした。

大河ドラマ『西郷どん』でお馴染み薩摩藩の前身で、この頃は島津義久・島津義弘島津歳久・島津家久の島津四兄弟が同地方を席巻。
そこで、今にも潰されそうな大友家が、秀吉に救いを求めたのです。

緒戦となる「戸次川の戦い」で、仙石秀久や長宗我部元親を打ち破った島津に対し、秀吉は20万の大軍を派兵しました。
官兵衛は、豊臣秀長総大将の軍監として豊前国(福岡県・大分県にまたがる九州の玄関口)へ渡ると、先鋒隊として次々に城を落としていきます。

そして島津義久とも直接戦い、勝利しており、ほどなくして島津は降伏。
いくら精強で知られる薩摩でも、秀吉が自ら指揮する20万の大軍に敵うハズはありませんでした(島津は2~5万との見立て)。
※なお、戦乱で荒れ果てた博多の復興を官兵衛が担ったのは、この九州平定の後

 

九州豊前入部

天正15年(1587年)の九州平定後。
官兵衛は豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、12万石(太閤検地後は17万石以上)を与えられました。
これを受けて、中津城の築城に着手します。

平定されたとはいえ、九州はまだまだ不安定な地。
秀吉にしてみても、難しい統治を任せるのは官兵衛しかいない――と考えた可能性は高そうです。

実際、官兵衛が厳しい掟を制定、現地の統治運営に乗り出したところ、いきなり宇都宮氏一族による一揆が発生しまてしまいます。

もともと大友氏の家臣であった宇都宮鎮房(城井鎮房・きいしげふさ)は、伊予国への転封を拒否し、改易されておりました。
その鎮房が挙兵し、大規模な反乱となったのです。

宇都宮鎮房/wikipediaより引用

この宇都宮氏の反乱は、官兵衛の手を穢れた血で染めたものといっても差し支えはないでしょう。

息子を人質に出した鎮房を合元寺に呼び出し、黒田長政が謀殺したとされておりまして。
合元寺の壁が真っ赤に染まったのは、長政の配下が宇都宮家臣を惨殺したため――との伝説が現在も残っています。

鎮房は娘・鶴姫も人質として黒田家に預けており、父の死後、磔刑にされたと伝わります。
鶴姫の悲劇は、『斑雪白骨城』として歌舞伎の題材にもなりました。

それだけ宇都宮氏の反乱の勢いが強く、なかなか抑えつけられなかったということなのでしょう。

天正17年(1589年)、官兵衛は家督を長政に譲りました。

齢50を前にしての行動であり、後世、様々な憶測がなされていますが、当主が早めに家督を譲ることはそこまで特異とも言えないでしょう。
伊達輝宗、北条氏政らも早めに家督を譲っています。

そして天正18年(1590年)、官兵衛はキリスト教に入信します。
洗礼名は「ドン・シメオン」。
シメオンは人の話をよく聞く、耳を傾けるという意味で、ブルガリア王にも同名の名君がいます。

ただし、キリスト教禁教令以来、黒田家は官兵衛の信仰を抹消したがったため、記録にはあまり残されなかったようです。

黒田如水の印章/Wikipediaより引用

 

小田原征伐での和睦交渉

2014年大河ドラマ『軍師官兵衛』。
初回のアバン(オープニング前の導入シーン)は、官兵衛が小田原攻めで和睦交渉に向かう場面でした。

全国でも知られる難攻不落の城を舞台に、官兵衛本人が立てば、ドラマとしても盛り上がる。
最初から、本人に箔を付けたかったのかもしれませんね。

実際の小田原征伐(1590年)における官兵衛は、息子の長政と共に親子で参陣。
官兵衛は北条氏照の備を落とし、褒美として太刀を与えられています。

さらには小田原城を守る太田氏房を説得して北条氏政・北条氏直親子との交渉を開始、結果的に和睦へ持ち込むという手柄を立てます。
まだまだ意気盛んであり、秀吉からも大いに期待されていたことがおわかりでしょう。

このような重要な役割を任されたということは、官兵衛の智謀が際立っていたことの証拠でもあります。

彼の活躍は荒唐無稽な潤色も多いのですが、それを差し引いたところで、こうした活躍を見て行けば、十分に優れた武将であったことがわかります。
おそらくこの小田原征伐が、官兵衛と豊臣政権にとって、最後の蜜月時代と言えるステージではないでしょうか。

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朝鮮出兵で三成と対立

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵は、官兵衛にとって厳しいものであったと考えられます。

肥前名護屋城の縄張りに始まり、半島に渡っての激戦。
戦線は膠着し、慣れぬ異国での戦いで、官兵衛は重病を罹ってしまいます。

このころ出家しているのは、精神的に限界に近かったせいかもしれません。
結果的に、官兵衛にのしかかるハズの負担は、息子の長政へ重たくのしかかっていきました。

それが豊臣政権破綻の一要因になっていたかもしれない。
ということに秀吉は気づきもしなかったでしょう。

本来なら、同政権の若手グループで中心となるはずの長政が、石田三成に対して憎悪の感情を抱くようになるのです。
無謀な出兵は、確実に武将たちの心を蝕み、亀裂は拡大していきました。

そして、秀吉、没。
いよいよ情勢は混沌としてきます。

石田三成に対して敵意を持つように至った黒田長政は、慶長4年(1599年)、三成を襲撃する七将に名を連ねるにまで至ります。

さらに黒田家は、進んで秀吉の遺言を破るようなことをします。
慶長5年(1600年)、家康の養女である栄姫と長政が結婚したのです。

これはもう豊臣から徳川へ乗り換える明確な宣言にも似た行為でした。
なぜなら、このとき長政が離縁を申し付けた前の正妻というのは、かつて秀吉とスペシャルマブダチな間柄だった蜂須賀正勝(小六)の娘だったからです。

間もなく関ヶ原が迫っておりました。

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天下分け目と黒田父子

慶長5年(1600年)、会津討伐に徳川家康が向かった背後で、石田三成が挙兵します。

天下分け目の関ヶ原。
官兵衛および長政の妻は、その開戦前に無事大坂を脱出し、事なきを得ています。

一方の黒田父子は、別々に行動することとしました。
石田三成と厳しく対立してきた長政は、東軍の将として関ヶ原に参陣、家康とともに西上します。
では官兵衛は?
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