毛利秀包

毛利秀包/wikipediaより引用

毛利家

毛利秀包(元就九男)の生涯|宗茂の義兄弟は小早川秀秋の相続騒動に巻き込まれ

2025/03/21

勇猛かつ実績はあるのに後世で名を轟かせられない戦国武将がいます。

例えば、天下人・徳川家康の従兄弟かつ破天荒な性格&戦闘能力を持ちながら、徳川家の中では四天王の陰に隠れてしまいがちな水野勝成。

あるいは大友家や龍造寺家の大軍を寡兵で撃破し、島津四兄弟の中では最強だと思われる家久なども、その活躍に比していまいち、特に東日本では馴染みが薄いような気もします。

本稿で注目の毛利秀包(ひでかね)もその一人でしょう。

毛利元就の実子。

なおかつ西の最強武将と称えられる立花宗茂と義兄弟――そんな戦国ファンにはたまらないエピソードもあるのに、いまいち認知度は高まっておりません。

一体なぜなのか?

というと、この秀包、幼い頃から大名家にありがちな「家督相続」に巻き込まれ、慶長6年(1601年)3月22日に若くして亡くなってしまう悲運の戦国武将なのです。

その才能を、小早川隆景や豊臣秀吉に気に入られながら、しかし、だからこそ悲運な運命をたどってしまった。

毛利秀包/wikipediaより引用

毛利秀包の生涯を追ってみましょう。

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元就の九男として生まれ、兄の小早川家へ

毛利秀包は永禄10年(1567年)、毛利元就の九男として生まれました。

元就の"九男”であること自体インパクトが大きいのですが、さらに71歳のときに生まれた子というのも、なんとタフネスな……。

毛利元就/wikipediaより引用

長男の毛利隆元は大永3年(1523年)に誕生しているとされ、秀包から見れば「44歳上」の兄になります。

当時の平均年齢を考えれば、親どころかおじいちゃんであっても不思議はありません。

もっとも、隆元は永禄6年(1563年)に急死しており、秀包が彼と会うことはありませんでした。

秀包の母は元就の継室(側室という見解も)である乃美家の出身で、乃美の当主たちは小早川隆景に仕える筆頭家臣でもあります。

この時点で、元就の三男・隆景との縁が深いことが読み取れるでしょう。

当時の毛利家は、すでに隆元の息子・毛利輝元が家督を継いでいたため、秀包にその役目が回ってくることはありません。

秀包は元亀2年(1571年)、かつて安芸武田氏に仕えていた戸坂氏の家系が断絶したことを受け、その名跡を継ぎました。

しかしその後、備後の国衆である大田英綱の家系が断絶し、遺臣が「秀包を迎え入れたい!」と元就に懇願。

毛利家ではこの要請を受け入れ、秀包は1年と経たずに家を替えることとなりました。

といっても、このときまだ5歳ですから、当人の意志とは関係なく異動していますね。

さらに天正7年(1579年)、秀包は三たび家を移ることになります。

ただ、そのときは「たらい回し」感のあるものではなく、秀包から見れば34歳上の兄にあたる隆景の願いで小早川家に入ることとなったのでした。

小早川隆景/wikipediaより引用

子だくさんの元就とは違って隆景には実子がいません。

ゆえに秀包は次期小早川家当主として迎え入れられたのですね。

その際、隆景の家臣たちの願いで秀包の小早川家入りが実現した――あるいは隆景が秀包の武勇を惚れ込んで後継者へ願ったという説があります。

 


秀吉に気に入られる

小早川隆景には吉川家を継いだ兄・吉川元春がいます。

この毛利を支える両家を指して「毛利両川」などと言われたりしますが、その一角の後継者として期待された秀包。

当時の毛利家は織田信長と対立し、彼の右腕である羽柴秀吉の猛攻によってピンチに陥っていました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

毛利方の武将である清水宗治が守る備中高松城は秀吉による水攻めで陥落寸前の状態にあり、ここが落ちれば織田の大軍と直接対決の恐れが出てくるという状況にあったのです。

ところが、です。

水攻めの最中に本能寺の変が勃発!

明智光秀の手によって信長は討たれ、秀吉は毛利攻めどころではなくなります。

戦況を優位に運んでいた秀吉は手早く毛利と講和を結び、京都へ引き返して光秀を打倒しました。

一連の講和条件として毛利家は人質の提供を求められました。

そこで、毛利家から福原元俊、吉川家から吉川広家、そして小早川家からは秀包が大坂へと向かいます。

「人質」とはいっても秀吉に虐げられるなんてことはなく、秀包は厚遇されていたようです。

秀包はそれまで「市正元総」と名乗っていましたが、秀吉によって「藤」と「秀」の使用を許され「藤四郎秀包」と改名しています。

元俊と広家はすぐに帰国しているので、秀包は秀吉のお眼鏡にかなったのでしょう。

吉川広家/wikipediaより引用

一説には、秀包が超イケメンの美男子だったため気に入られたなんて話も……。

「従五位上・治部大輔」という地位も与えられた秀包は、加藤清正や石田三成らと似て「秀吉子飼いの将」のような扱いを受けていたと推定されます。

 

秀吉子飼いの将として各地を転戦

天正12年(1584年)秀包は、秀吉の配下として小牧・長久手の戦いに参加しました。

四国征伐にも加わり、戦功を認められて河内1万石、伊予3万5千石の領地を与えられる大名になります。

その後、九州征伐に際しては隆景とともに各地の攻略にあたり、秀吉の九州平定に貢献。

戦功によって筑後に7万5千石を獲得し、久留米城主になりました。

また、この時期に「西国無双(西の最強武将)」と称された武将・立花宗茂と意気投合したといわれ、二人は義兄弟の契りを交わしたとも。

宗茂と秀包は【肥後国人一揆】の平定や【小田原征伐】にも従軍し、秀吉の天下統一事業を支えました。

立花宗茂/wikipediaより引用

この時期、秀包は大友宗麟の娘である桂姫と結婚しています。

宗麟といえば、なんといっても「キリシタン大名」として有名であり、秀包もその影響から洗礼を受けました。

城下に天主堂を建築するなど、それらしい活動も見られます。

一方、秀吉が大陸進出への野望を隠さなくなると、明・朝鮮との間に勃発した【文禄の役】に出陣。

文禄2年(1593年)に勃発した【碧蹄館の戦い】では、実に15万ともいわれる大軍を4万程度の軍勢で迎え撃ち、隆景や宗茂と協力して戦勝を収める大戦果を挙げました(軍勢についてはもっと少数だったという意見も見られます)。

彼自身はこの活躍もあって5万5千石の加増を受け、文禄の役においては義兄弟の宗茂に勝るとも劣らない実力を見せています。

ただ、戦全体としては両軍ともに戦争の継続が難しくなり、停戦の交渉が始まったため秀包も戦を中断しました。

 

異例ずくめの秀包廃嫡

戦場でも無類の実力を発揮し、小早川家の後継者でもあり、秀吉のオキニでもある毛利秀包。

天正17年(1589年)に侍従という立場につき「公家成大名」ともなっていた彼は、もちろん秀吉からも後継者の地位を保証されていました。

もはや彼に足らないモノはないかと思えるくらいです。

しかし、その地位は予想だにしない方向から崩れ去っていくことになります。

文禄3年(1594年)7月の時点で、秀吉の養子として後継ぎ候補になっていたはずの青年「羽柴秀俊(はしばひでとし)」が、小早川隆景の後継者になることが決まったのです。

「イヤイヤ、隆景の後継者は秀包でしょ!」

現代の我々だけでなく、おそらく当時の周囲もそうツッコミたくなる状況だったでしょう。秀包はこの件で小早川家を継ぐ資格を失い、やむを得ず別の家を立てて姓を毛利に戻します。

しかしなぜこのような事態に発展してしまったのか。

結論から言えば、秀包の行動や資質が原因ではなく、豊臣家と毛利家、小早川家をめぐる政情のあおりを受けたことが原因のようです。

後世に伝わる史料から見ていくと、ことの始まりは小早川家の後継ぎ問題ではなく、実子が生まれていなかった毛利輝元の跡継ぎ問題がありました。

毛利輝元/wikipediaより引用

慶長14年(1609年)に書かれた覚書によると

「実子の後継者がいない毛利家の行く末を心配した安国寺恵瓊が、輝元の養子として秀俊を迎え入れようとした。

しかし、隆景はこれをたしなめ、輝元の叔父・穂田元清の息子である毛利秀元を養子にすることを提案した」

と書かれています。

一方、承応2年(1653年)に書かれた覚書によると、基本的なストーリーは似通っているものの、秀俊の養子入りを提案したのが安国寺ではなく黒田官兵衛に代わっています。

二つを比較すると、最初のほうは事件当時に書かれたもので信頼性も高そうに見えますが、覚書の書き手は政治的に失脚しており、その不満が込められている可能性があるとも指摘されます。

残念ながら現時点での正解は不明。

ただ、二つの史料に似たようなストーリーが書かれていることから、両者に共通する部分である

「輝元の養子に秀俊を推薦した人物がいる」

というのは、ある程度信頼していいような気もします。

 


隆景の意向で秀包は地位を追われた?

輝元の養子に関する話を聞き、それに反対したのが隆景です。

彼がこのような対応をとったのち、秀俊を自身の養子に迎えた理由を『陰徳太平記』という史料ではこう言います。

「秀俊はかねてより評判が悪かったので、彼が毛利家の養子になるくらいなら自分の家に入れようと考え、秀吉に『もう輝元の養子は秀元と決まっています』と伝えた。

ただ、これで秀吉の機嫌を損ねては大変だと思い、『私は今まであまり恩返しができなかったので…』と、秀俊を自身の養子にするよう提案した」

毛利家を救うために小早川家を差し出した――言い方は悪いかも知れませんが、これがいかにも正しいように見えます。

しかし、この記述を裏付ける有力な証拠がありません。

なんせ秀元の養子入りが決まったのは、秀包廃嫡の数年前のことです。

詳細は後述しますが、秀吉の実子である豊臣秀頼の誕生時期などを考えても、この史料をそっくりそのまま信じるのは難しそうなのです。

一方「秀包の養子入りを願い出たのは秀吉ではなく隆景」という部分については、可能性を否定できません。

秀吉から見ると「隆景は秀吉の養子を迎えられるような家格をもってなかった」ためです。事実、秀俊の養子入りが決まったとたん、隆景の地位が引き上げられています。

まとめますと……。

隆景が「秀俊の資質を疑問視した」というのではなく、毛利家に入る算段が自身の横やりでオジャンになり責任を感じた。

あるいは秀吉の養子を迎え入れることで家格上昇をたくらんだ、あたりが本音ではないでしょうか。

情勢に大きな変化がなければ、秀吉も秀俊を手放さなかったでしょうが、先ほども触れたように、彼には待望の実子である豊臣秀頼が誕生していたのです。

豊臣秀頼/wikipediaより引用

となれば、これまで「蝶よ、花よ」と愛を注いで養育してきた秀俊は邪魔者でしかない。

「上手いことアイツをのけ者にできないか」

そう考えていたところに隆景の申し出があったのは、渡りに船だったでしょう。

もしかすると隆景は、秀吉の悩みを察して先回りでこの提案をしたのかもしれません。

いずれにしても、秀包は家を追われ、秀俊は新たな小早川家の後継者として「小早川秀秋」を名乗りました。

そうです、関ヶ原の裏切り者としてお馴染みのあの秀秋です。

秀包としても、秀秋としても、おそらく不本意な出来事だった気がしてなりません。

小早川秀秋/wikipediaより引用

 

不遇のまま関ケ原で敗れ、のちに急死

政争の結果、後継者の座を追われた毛利秀包。

彼は何一つ文句も言わず身を引いたといいます。

加えて、その後も豊臣家のために力を尽くしました。

慶長2年(1597年)には【慶長の役】に従軍し、局所戦では武勇を見せました。

関ヶ原の戦いでは、毛利家を守るべく西軍につき、久留米城主として前哨戦といえる【大津城の戦い】に参戦。

交通の要所を落とすため輝元の叔父・毛利元康が率いる大軍に参加しますが、しぶとい抵抗に遭い攻略が遅れてしまいました。

そして、ようやく城を落とした矢先に関ヶ原の本戦スタート――秀包だけでなく元康や宗茂も肝心の戦に参戦できず、西軍は敗戦を迎えてしまいます。

西軍の敗因は、小早川秀秋による寝返りとも言われたりしますので、秀包がどのような心境で知らせを聞いたのか。心中察するに余りあります。

それでも、秀包は主戦派として大坂に入り、立花宗茂と共に徹底抗戦を主張したといいます。

ただ、毛利家当主の輝元がそれ以上の戦を望まず降伏したため、秀包もやむなく国許へ帰りますが、西軍の主要人物だったこともあり改易処分を下されてしまいました。

秀包はわずかな領地を与えられると、間もなく発病。

赤間関で養生しながらも体力が回復することなく、慶長6年(1601年)、35年の生涯に終わりを告げます。

家は息子である元鎮が継ぎました。

大名家として再興することはありません。

毛利家を裏切った秀秋も慶長7年(1602年)に急死しており、実子がなかったため小早川家の血脈は途絶えています……なんだか切ない展開ですよね。

やはり秀包にとっても秀秋にとっても家督の交代は不幸であったという他ありません。

秀包は後世に名声を伝える機会を失い、秀秋は悪名高き裏切り者として葬り去られました。

二人のどちらにも心から同情してしまいます。

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【参考文献】
『国史大辞典』
朝日新聞社『朝日日本歴史人物事典』(→amazon
河合正治編『毛利元就のすべて』(→amazon
黒田基樹『小早川秀秋 (シリーズ・実像に迫る5)』(→amazon
光成準治『小早川隆景・秀秋』(→amazon
WEB歴史街道「毛利秀包~立花宗茂との友情、小早川秀秋との遺恨」(→link

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とーじん(齊藤颯人)

上智大学文学部史学科卒。 在学中から歴史ライターおよびブログ運営者として活動し、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」や古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 各メディアで記事執筆を行うほか、映画・アニメなどエンタメ分野の歴史分析も手がける。専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広い関心を持つ。 2023年にはサンクチュアリ出版より『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』を刊行。元Workship MAGAZINE 3代目編集長。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032655935

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