天下人となった豊臣秀吉はもちろん、前田利家や柴田勝家、さらには明智光秀など。
綺羅星の如くスター武将が居並ぶ織田家において、その名は決して目立たぬけれど、この人がいなければ色々と困ったであろうなぁ……という武将も当然おりました。
その一人が天正十七年(1589年)9月25日に亡くなった蜂屋頼隆(はちや よりたか)でしょう。
「あっ、そういえば時々名前を見るよね……」と思う方がいれば、「聞いたことないっす」と返答する方も多そうな……。
さほどに危うい存在感ながら【桶狭間の戦い】以前から信長に仕えた功労者であり、地味に大切な役割もこなします。

蜂屋頼隆/wikipediaより引用
その生涯、いかなるものだったか?
蜂屋頼隆 信長の初上洛で密かな活躍
蜂屋頼隆の生年は不明。
出自だけでなく、いつから信長に仕え始めたのか、その理由等も定かではありません。
美濃の加茂郡に蜂屋村というところがあり、ここの土豪の出ではないかともいわれていますが、今のところはあくまで可能性の一つです。
そんな頼隆の動向と、信長からの評価が初めてうかがえるのは、永禄二年(1559年)のこと。
この年、信長は初の上洛を行いました。
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といっても軍事的な規模のものではなく、いわゆる”お忍び”というやつで、足利義昭を奉じての上洛とも違います。
さすがに完全な丸腰ではなく、80人ほどのお供はいたようですが、戦国時代ということを考えればかなりの冒険でしょう。
蜂屋頼隆も、お供のメンバーの中に含まれておりました。
『信長公記』にも書かれている、とある【事件の解決役】として出てくるのです。
当時、信長は、美濃の斎藤義龍と激しく対立しておりました。

斎藤義龍/wikimedia commons
そこで「信長が少人数で上洛する」と聞いた義龍は、腕の立つ配下の者たちを刺客として派遣。
信長の命を狙わせようとしたのですが、このとき尾張から信長を追いかけてきた丹羽兵蔵がそのとこに気づき、密かに先回りをして織田一行に知らせたため、大事には至りませんでした。
このとき兵蔵が報告した織田家のメンバーというのが蜂屋頼隆(と金森長近)だったのです。
「頼隆と長近は美濃に詳しい」
そう認識されていたからこそ、兵蔵は真っ先に彼らへ知らせようとしたのでしょう。
このことから、頼隆は美濃出身、かつ斎藤氏に仕えていた時期があるのではないか……とも考えられています。
詳細は、今後の研究に期待というところでしょうか。
側近エリート・黒母衣衆の一員に
いずれにせよ、この一件からも頼隆は
「出自は不明なれど、若い頃から信長に信頼された古参のひとり」
という認識で問題ないでしょう。
実際、その後は信長の使番・黒母衣衆の一員になっており、ここでも信頼ぶりがうかがえます。
黒母衣衆には、他に佐々成政や中川重政、河尻秀隆などがおりましたので、彼らと連携したり、親交を持ったりといったこともあったかもしれません。

黒母衣衆と赤母衣衆のメンバー(上段:前田利家と佐々成政(右):下段:蜂屋頼隆と金森長近(右)/wikipediaより引用)
ちなみに赤母衣衆には加賀百万石でお馴染みの前田利家が選ばれておりました。
しかし、信長と近いところにいた割に、蜂屋頼隆には特筆すべき逸話がない。キャラもわかりにくい。ゆえに人気も出にくいのでしょう。
次に頼隆の動向としてはっきりわかるのは、永禄十一年(1568年)の上洛です。
先のお忍び上洛と違い、このときは足利義昭を将軍につけるため、大軍で京都入りしたのでした。
このとき蜂屋頼隆は、柴田勝家・森可成・坂井政尚らと共に先陣を務め、三好三人衆の一人・岩成友通のこもる勝龍寺城(長岡京市)を攻めています。
四人で協力し、敵の首を50余り挙げたとか。
入京後の政務でも、この四人は引き続き連携しております。
ときには佐久間信盛や和田惟政などとも手を合わせて、仕事をこなしておりました。
主な合戦にキッチリ参加はしている
また頼隆には、公家から連絡が来ることもあったようです。
永禄十二年(1569年)1月24日に、公家の飛鳥井雅敦から「本興寺(尼崎市)に陣を置くのはやめてほしい」と頼まれたことが記録されています。
いつの頃からか、頼隆は連歌・和歌の好士といわれるようになるのですけれども、もしかしたら飛鳥井家との付き合いができてから学んだのかもしれません。
飛鳥井家は和歌と蹴鞠をお家芸とする家ですから、手ほどきを受けることがあっても不自然ではないでしょう。
もっとも信長の傅役(もりやく)・平手政秀なども和歌に通じていましたので、以前から京都や公家と関わっていた織田家の別人に学んだ可能性もあります。
その後は伊勢北畠氏が相手の【大河内城の戦い】や、浅井氏との戦い、三好義継と三好三人衆との合戦など、信長関連の主要な戦に多く参加しました。
しかし、頼隆は同じような戦に参加していた武将たちと比べ、このあたりから出世が遅くなっていきました。
例えば、浅井・朝倉攻めに関して、森可成らが琵琶湖周辺の要所・宇佐山城を任されているのに対し、頼隆は一武将として部隊を率いるにとどまっています。

森可成/wikipediaより引用
具体的に見ておきますと、
◆森可成→宇佐山
◆柴田勝家→長光寺
◆佐久間信盛→水原
◆丹羽長秀→佐和山
◆中川重政→安土
◆明智光秀→宇佐山(可成戦死後)→坂本
◆羽柴秀吉→横山
といった感じです。
特に、当時織田家では新参者だった光秀や、一気に出世してきた秀吉と比べると、頼隆は完全に取り残されてる感は否めません。
勝家と共に行動することが多かった
ではなぜ、蜂屋頼隆は最前線の重要拠点に置かれなかったか?
好意的に解釈しますと、信長は「次善の策」として頼隆などを手元に残しておいたのかもしれません。
全ての人材を外に出してしまうと、どこかに壊滅的な被害が出た場合に、次の一手を打つことが難しくなります。
この時点での織田家は、先々の戦況がどう転ぶかわかりませんから、最悪のことも想定しておかねばなりません。
信長の人材の見極め方がシビアであることを考えると、
柴田勝家らは「一定の範疇で自由にやらせたほうが活きるタイプ」
頼隆らは「手元においておき、必要なことを細かに指示してやらせるべきタイプ」
といった評価をしていたのかもしれませんね。
もちろん、信長が「頼隆では、一拠点を任せるには力不足」という評価をしていた可能性もありますが、実際、軽んじられていたわけではなさそうです。
元亀四年(1573年)に足利義昭が信長と対立したときは、勝家・光秀・長秀と共に近江石山城・今堅田城攻撃を担当していました。

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用
上洛戦のときも協力していますし、勝家とは特に、長い付き合いだったということになりますね。
この攻略は間もなく成功しました。
義昭本人を追い詰める際、頼隆は洛外への放火を担当していたようです。
ここでもやはり、頼隆個人での武功は記録されていません。
やはり、最前線で華々しい活躍をするタイプというよりは、命じられたことを確実にこなしていくタイプだったのでしょう。
天下一の香木・蘭奢待
天正元年(1573年)8月。
近江で浅井朝倉軍と対峙していた織田軍が、急遽、朝倉軍を追撃する――という一幕がありました。
朝倉軍が越前へひそかに帰ろうとしたのですが、このとき信長は前もって
「もしも朝倉が撤退するからスグに追うんだ、絶対だぞ!」
と伝えたにもかかわらず、それを信じた家臣がおらず、結局、信長が先頭に立って追撃したという話ですね。
「まさか今晩出立するわけがない」と、油断していた諸将は遅れをとり、信長に叱責を受けるのですが、このとき頼隆の名も登場しています。
続いて【長島一向一揆】を牽制するための北伊勢の制圧や、翌天正二年(1574年)7月の長島攻めも参加し、立てこもった老若男女を攻撃しています。
ちなみにここでも、勝家と行動をともにしていました。
同年8月には越前一向一揆攻めに参加。
各将らと同様、一息つく間もないほどに各地を転戦しております。
そして在京時での確かな振る舞いが評価されたものか。
天正二年(1574年)3月に行われた東大寺の【蘭奢待】切り取りでも、特使の一人に選ばれています。
蘭奢待とは「らんじゃたい」と読み、天下一の香木として知られた宝物です。

蘭奢待/wikipediaより引用
正倉院に納められていて、足利義満や足利義教など、ときの権力者や有力者だけが一部を切り取り、その香りを確かめることが許されました。
近現代ですと、明治天皇が切り取られたことでも知られますね。
村重包囲網では若手らと行動
天正三年(1575年)11月末になると、信長が嫡男・織田信忠へ家督を継承。
以降の蜂屋頼隆は、信忠に従って従軍するケースが増えていきます。
相変わらず信長が織田家の最高権力者であり続けましたので、頼隆は信長からの命令も受けていました。これは彼に限らず、織田家臣全員に共通していることですね。
頼隆は、これまでと同じく戦への参加に加え、宿舎として自分の城を提供することもありました。
詳しい時期は不明ながら【肥田城(近江愛智郡)】を任されていたようです。
一方で戦働きも依然として求められ、天正四年(1576年)及び天正六年(1578年)の石山本願寺攻め、天正五年(1577年)の雑賀攻めなどにも参加しておりました。
織田家をピンチに陥れた天正六年(1578年)11月の荒木村重謀反については、村重の居城・有岡城(旧名・伊丹城)の近隣に砦を築き、長期間の滞陣をしております。
丹羽長秀の他に、高山右近、蒲生氏郷、織田信孝といった比較的若手の武将と行動を共にしておりました。

丹羽長秀/wikimedia commons
頼隆は天文3年(1534年)頃の生まれとされていますので、1550年代生まれの後者三人(右近・氏郷・信孝)とは、まさに親子のような年齢差です。
丹羽長秀も天文四年(1535年)生まれですし、信長としてはそつなく仕事をこなすタイプの長秀・頼隆に、
「次世代の監督や実地教育をさせよう」
という狙いがあったのかもしれません。
途中で配置換えもありましたので、ずっとこの五人で行動していたわけではないのですけれども。
後味悪い村重逃亡後の処刑……
荒木村重の謀反については不可解な点が多く、以下の記事にて考察させていただきますが……。
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荒木村重の生涯|信長を裏切り妻子を処刑され“道糞”と蔑まれながらも生き残る
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最終的に村重は、城を包囲されている中、自分だけひっそり抜け出し、後には家臣と妻子が残されます。
城方は、織田軍の猛攻を受けて降伏を選ぶも、信長はそう簡単には受け入れません。
そのため城方の一部が有岡城を離れ、村重を説得しようとします。
しかし、その意見は聞き入れられませんでした。
結果、村重の妻子と重臣たち・その妻子、及び人質たちは、信長の命で
・磔刑
・家ごと丸焼き
・斬首
など、戦国時代としても酷いと思わざるを得ない方法で処刑されてしまいます。
合計数は不明ながら、おおよそ670人ぐらいだったと言われていますので、謀反の再発防止の意味合いが大きかったのでしょう。
この処刑に、頼隆も一部関わっていました。
織田家諸将の感想などは伝わっていないものの、世間では
「このような規模での成敗は、史上初めてのことではないか」
といわれていたそうですので、似たような気持ちになっていたでしょう。
ちなみに村重本人は逃げに逃げ続けて、本能寺の変の後に京都へ戻り、以降は茶人や秀吉の御伽衆(話し相手)として生涯を全うしています。ひでえ。
ついに和泉国を任されて
天正八年(1580年)8月。
織田家の家臣団に激震が走ります。
家老の佐久間信盛と息子・佐久間信栄が、石山本願寺攻めなどの不手際を訴追され、織田家から追放されたのです。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikipediaより引用
このとき信盛が持っていた権限は様々な武将に分配され、頼隆は和泉国の支配権を得ました。
が、すぐには国入りしませんでした。
しばらくは大坂で活動し、さらに同年11月には同地の邸で茶人・津田宗及の見舞いを受けています。
体調が優れなかったために、様子を見ながらできる仕事をしていた……という感じでしょうか。
それでも天正九年(1581年)2月28日の京都御馬揃えでは、一番手・丹羽長秀のすぐ後、二番手として参加していますので、このあたりまでには回復していたようです。
このとき河内衆・和泉衆・根来衆の一部・佐野衆を率いていることから、このエリアが頼隆の手の及ぶ範囲だったと考えられます。
やはり信長から、相変わらずの好評価を得ていたのですね。
岸和田城(岸和田市)を拠点にし始めたと考えられるのもこの頃。
他に和泉半国を領していたとされる織田信張も同じ城を使っていた時期があり、詳細は不明です。
四国方面軍に名を連ねたが
その後、天正十年(1582年)には甲州征伐へと続き、結果として頼隆が腰を落ち着けている時期が少なくなったのでしょうか。
甲州征伐では、先発した織田信忠ではなく、後から現地へ向かった織田信長に従っています。
しかし、信忠の電光石火の采配で武田勝頼・信勝親子が自害したため、頼隆を含むほとんどの武将はあまり武功を上げていません。
これは致し方ないところですね。
堅城だろう――とされていた仁科盛信の守る高遠城が、割とアッサリ落城させられた影響もあったかもしれません。
それから二ヶ月後には、四国攻略の総大将として織田信孝が指名され、頼隆は丹羽長秀・津田信澄とともに彼を補佐して渡海する予定でした。
しかし、そんなタイミングで起きたのが……【本能寺の変】です。
信長は、明智光秀の大軍に襲われ、頼隆も、四国へ行くに行けません。
光秀の娘婿であることから事件への関与を疑われた津田信澄(織田信勝の息子で信長にとっては甥っ子)は、信孝と長秀によって殺害されてしまいました。
当日、頼隆は岸和田にいたため、信澄殺害には関与していないと考えられています。
三層の天守を持った敦賀城
毛利と和睦し、【中国大返し】を果たした豊臣秀吉。
程なくして明智光秀と対峙した【山崎の戦い】では、主筋の織田信孝が豊臣秀吉方につき、頼隆もこちら側に転居したという話もあります。
しかしその後、信孝が勝家と同調して秀吉と対立し始めると、頼隆も秀吉サイドに加わりました。
迎えた一戦が天正十一年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】です。
織田家内における、この天下分け目の戦いで勝利したのは、ご存知、秀吉。

絵・富永商太
勝ち馬に乗れた蜂屋頼隆は、和泉から敦賀へ移封されました。
石高の上ではおよそ1/3という大減封ですが、敦賀は陸路・海路ともに【日本海―京都】を結ぶ重要な交易ルートとなるばかりでなく、軍事拠点としても大きな価値を持つため、単純な降格とはいい難い。
むしろ栄転と捉えることもできます。
特に貨幣経済という面から見ると、物流の基本である港を押さえておくことは非常に大きな意味を持ちました。
そう考えると頼隆は、信長に続き、秀吉からも信用されていたことが見て取れます。
そんな富を利用してなのか。
頼隆が建てた敦賀城は、三層の天守を持っておりました。

敦賀城中門(現・来迎寺表門)/photo by Satoshin wikipediaより引用
残念ながら、元和二年(1616年)【一国一城令】の際、同城は破却されてしまったため、当時の天守は残っていません。
また、頼隆の死後に入った大谷吉継によって、敦賀城はかなり改造され、頼隆が建てた頃の遺構を見ることは難しいと思われます。
秀吉のもとでも堅実に働くが
その後は小勢ながらも秀吉に従って各地で連戦する蜂屋頼隆――。
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といった、天下統一までの戦に参加していました。
秀吉も、その結果に上機嫌となったのでしょう。新・天下人の”羽柴”や”豊臣”の名乗りを許すなどで、評価を示しています。
亡くなったのは天正十七年(1589年)9月25日のことです。
生年不詳のため、享年も不明。
そして、これをもって蜂屋家は断絶となりました。
頼隆には幼い男子と女子が一人ずついたそうですが、二人とも何らかの障害があって歩くことができず、そのため家督を継ぐことが許されなかったのでは……といわれています。
また、頼隆の死後、敦賀に入った大谷吉継に、蜂屋姓の人物が数名仕えています。
彼らがもし頼隆の親族であれば、傍流や遠縁として血筋が残ったかもしれません。
信長の家臣の中では、不思議なくらい逸話が残っていない人なので、今後、何かのきっかけで人物像が浮き彫りになるかもしれませんね。
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【参考】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
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蜂屋頼隆/wikipedia









