蜂屋頼隆

蜂屋頼隆/wikipediaより引用

織田家

信長親衛隊・黒母衣衆から大名へ!蜂屋頼隆は秀吉にも重用されたが

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勝家と共に行動することが多かった

ではなぜ、蜂屋頼隆は最前線の重要拠点に置かれなかったか?

好意的に解釈しますと、信長は「次善の策」として頼隆などを手元に残しておいたのかもしれません。

全ての人材を外に出してしまうと、どこかに壊滅的な被害が出た場合に、次の一手を打つことが難しくなります。

この時点での織田家は、先々の戦況がどう転ぶかわかりませんから、最悪のことも想定しておかねばなりません。

信長の人材の見極め方がシビアであることを考えると、

柴田勝家らは「一定の範疇で自由にやらせたほうが活きるタイプ」

頼隆らは「手元においておき、必要なことを細かに指示してやらせるべきタイプ」

といった評価をしていたのかもしれませんね。

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もちろん、信長が「頼隆では、一拠点を任せるには力不足」という評価をしていた可能性もありますが、実際、軽んじられていたわけではなさそうです。

元亀四年(1573年)に足利義昭が信長と対立したときは、勝家・光秀・長秀と共に近江石山城・今堅田城攻撃を担当していました。

上洛戦のときも協力していますし、勝家とは特に、長い付き合いだったということになりますね。

この攻略は間もなく成功しました。

義昭本人を追い詰める際、頼隆は洛外への放火を担当していたようです。

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ここでもやはり、頼隆個人での武功は記録されていません。

やはり、最前線で華々しい活躍をするタイプというよりは、命じられたことを確実にこなしていくタイプだったのでしょう。

 

天下一の香木・蘭奢待

天正元年(1573年)8月。

近江で浅井朝倉軍と対峙していた織田軍が、急遽、朝倉軍を追撃する――という一幕がありました。

朝倉軍が越前へひそかに帰ろうとしたのですが、このとき信長は前もって

「もしも朝倉が撤退するからスグに追うんだ、絶対だぞ!」

と伝えたにもかかわらず、それを信じた家臣がおらず、結局、信長が先頭に立って追撃したという話ですね。

「まさか今晩出立するわけがない」と、油断していた諸将は遅れをとり、信長に叱責を受けるのですが、このとき頼隆の名も登場しています。

続いて【長島一向一揆】を牽制するための北伊勢の制圧や、翌天正二年(1574年)7月の長島攻めも参加し、立てこもった老若男女を攻撃しています。

ちなみにここでも、勝家と行動をともにしていました。

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同年8月には越前一向一揆攻めに参加。

各将らと同様、一息つく間もないほどに各地を転戦しております。

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そして在京時での確かな振る舞いが評価されたものか。

天正二年(1574年)3月に行われた東大寺の【蘭奢待】切り取りでも、特使の一人に選ばれています。

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正倉院に納められていて、足利義満足利義教など、ときの権力者や有力者だけが一部を切り取り、その香りを確かめることが許されました。

近現代ですと、明治天皇が切り取られたことでも知られますね。

 

村重包囲網では若手らと行動

天正三年(1575年)11月末になると、信長が嫡男・織田信忠へ家督を継承。

以降の蜂屋頼隆は、信忠に従って従軍するケースが増えていきます。

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相変わらず信長が織田家の最高権力者であり続けましたので、頼隆は信長からの命令も受けていました。これは彼に限らず、織田家臣全員に共通していることですね。

頼隆は、これまでと同じく戦への参加に加え、宿舎として自分の城を提供することもありました。

詳しい時期は不明ながら【肥田城(近江愛智郡)】を任されていたようです。

一方で戦働きも依然として求められ、天正四年(1576年)及び天正六年(1578年)の石山本願寺攻め、天正五年(1577年)の雑賀攻めなどにも参加しておりました。

織田家をピンチに陥れた天正六年(1578年)11月の荒木村重謀反については、村重の居城・有岡城(旧名・伊丹城)の近隣に砦を築き、長期間の滞陣をしております。

丹羽長秀の他に、高山右近蒲生氏郷織田信孝といった比較的若手の武将と行動を共にしておりました。

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頼隆は天文3年(1534年)頃の生まれとされていますので、1550年代生まれの後者三人(右近・氏郷・信孝)とは、まさに親子のような年齢差です。

丹羽長秀も天文四年(1535年)生まれですし、信長としてはそつなく仕事をこなすタイプの長秀・頼隆に、

「次世代の監督や実地教育をさせよう」

という狙いがあったのかもしれません。

途中で配置換えもありましたので、ずっとこの五人で行動していたわけではないのですけれども。

 

後味悪い村重逃亡後の処刑……

荒木村重の謀反については不可解な点が多く、以下の記事にて考察させていただきますが……。

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最終的に村重は、城を包囲されている中、自分だけひっそり抜け出し、後には家臣と妻子が残されます。

城方は、織田軍の猛攻を受けて降伏を選ぶも、信長はそう簡単には受け入れません。

そのため城方の一部が有岡城を離れ、村重を説得しようとします。

しかし、その意見は聞き入れられませんでした。

結果、村重の妻子と重臣たち・その妻子、及び人質たちは、信長の命で

・磔刑
・家ごと丸焼き
・斬首

など、戦国時代としても酷いと思わざるを得ない方法で処刑されてしまいます。

合計数は不明ながら、おおよそ670人ぐらいだったと言われていますので、謀反の再発防止の意味合いが大きかったのでしょう。

この処刑に、頼隆も一部関わっていました。

織田家諸将の感想などは伝わっていないものの、世間では

「このような規模での成敗は、史上初めてのことではないか」

といわれていたそうですので、似たような気持ちになっていたでしょう。

ちなみに村重本人は逃げに逃げ続けて、本能寺の変の後に京都へ戻り、以降は茶人や秀吉の御伽衆(話し相手)として生涯を全うしています。ひでえ。

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