小田氏治/wikipediaより引用

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【関東戦国譚】小田氏治のフシギな魅力~北条、上杉、佐竹に負けて何度も復活

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戦国時代にも「持ってる人」と「持ってない人」がおります。
前者の代表は、やはり織田信長さんでしょう。

武田信玄や上杉謙信と激突してフルボッコにされておきながら、それから程なくして両者が死亡。
直接戦ったのは徳川家康三方ヶ原の戦い】や柴田勝家手取川の戦い】ですが、いずれにせよ織田家を標的にしたものであり、間一髪のところで助かっています。

「持ってない人」は、最強と称されながら関ヶ原に参戦できなかった立花宗茂や、豊臣秀吉の天下取りを見れなかった竹中半兵衛などでしょうか。

ここに挙げたのはいずれも名だたる武将ですが、無名ながら不思議な何かを持った武将というのも存在しまして……。

慶長六年閏(1602年)11月13日は、常陸=茨城県の戦国大名小田氏治(おだうじはる)が亡くなった日です。

知る人ぞ知る人気武将というか、何度でも蘇った大名として、巷では密かに人気があります。

負けても負けても復活するのです。
一体どんな人だったのでしょう。

 

おだはおだでも織田じゃない

氏治は、天文三年(1534年)、または享禄四年(1531年)生まれといわれています。

1534年生まれの織田信長とは同世代ですね。
同じ「おだ」でもだいぶ違う生涯ですが。

小田家は宇都宮氏一門・八田家から分かれた家で、本姓は藤原氏になります。

氏治は血筋上、室町幕府12代将軍・足利義晴の従弟でもあり、かなりの名門。
戦国大名の前例に倣うかのようにして、氏治も10代半ばで父の死により家督を相続しました。

時折しも関東では、北条氏康が名を轟かせた【河越夜戦】があったときです。大軍を奇襲で蹴散らした歴史に残る一戦ですね。

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小田氏治は、父の代で負け方についていたため、小田家自体の勢力が弱まっていた時期でもあります。
そこで氏治はかつての勢いを取り戻すべく、周辺の大名と戦っていくのでした。

 

北条&結城から城を取り戻し謙信に敗れて返却され

当初、一番の敵は結城家でした。
小田家から結城家へ寝返った家臣もいて、緊張状態も続いています。

さらに結城家は後北条家とも助力を得て、勢いを増していたため、小田家にとっては危機が増すばかり。

これに対し、氏治は佐竹家と手を結び、結城家と戦うことを決めます。
しかし、結城・後北条軍のほうが上手で、領内の城だけでなく、本拠の小田城まで奪われてしまいます。

普通ならここで大名として滅亡まっしぐらの場面です。

しかし氏治は負けません。

まずは土浦城に入って再起を図ります。
運良く後北条家が「佐竹と本腰入れて戦いたいから、小田とは和解するわ」(意訳)と言い出して兵を引いたため、氏治は結城軍を追い払い、小田城を取り戻すことに成功したのです。

氏治はこんな感じのことを何回か繰り返しています。
そこで現代の誰かが「不死鳥のようだ」と評し、じわじわと人気が高まったというわけですね。

また氏治は、上杉謙信の小田原攻めにも参加したことがあります。

イラスト/富永商太

しかし、氏治は途中で後北条方に寝返り、そのために上杉家との戦いを招いてしまいました。

そして上杉との戦いでも本拠を奪われておりますが……謙信に「城の修理はしませんので、降伏させてください」と詫びを入れて許されています。

不思議なのは、こんだけ負け続きでも領民や家臣からの人望が厚かったことでしょうか。
佐竹義昭が謙信宛ての手紙の中で「小田家は最近アレだけど、鎌倉以来の名家でもあるし、氏治も優れた武将だ。良い家臣も多い」と評しているほどです。

上杉鷹山が農民の手伝いを自らした”というような具体的エピソードは残っていないので、何か目立つことをして人に感謝されたのではなく、日頃の言動で家臣や領民の信頼を得ていたのでしょう。

もしくは氏治は「この殿様を放っておいたら心配だ。私らが守って差し上げなければ」というような、庇護欲をそそるタイプだったのかもしれません。
領内総モンペとか何それこわい。

 

野戦はソコソコ戦えたけど、結局は城で倍返しだ(食らう方)

氏治も野戦ではたびたび勝利しています。
結局は城攻めが苦手すぎて倍返しをくらうことが多かったようで。

しかし自分の城が取られたときに奪い返すのは得意、というよくわからん人ではあります。
まぁ自分の城なら攻めやすいところがわかる→だから勝てる、というのは納得できますね。

小田城平面図(古絵図による旧状を復元)/wikipediaより引用

秀吉だって、大坂城について「この城を落とすには、堀を全部埋めるか、長期間に渡って兵糧攻めをするしかない」と言っていたとかいないとか……そんな逸話がありますし、ついでに徳川家康がそれを聞いて大坂の役で実行したとかなんとか。

氏治が家臣や領民に慕われたのも、
「ウチの殿様は絶対に最後は勝って帰ってきてくれるんだから」
と思っていたのかもしれませんね。

後に佐竹家との戦いを始めて戦線が拡大すると、独力だけでは奪われた城を取り戻すことが難しくなったのですが、そのときも諦めずに本拠地・小田城を取り戻します。

後北条家に仕えていた庶子の友治が「父を助けてもらえませんか」と懇願し、そしてこのタイミングで後北条家が小田家に味方したばかりか、千葉氏・相馬氏・江戸氏といった近隣大名の助けも得て、再び本拠の小田城を取り戻すことができたのです。

「仲間に助けられて強大な敵に勝った」という、まるで少年漫画の主人公ですね。

 

娘が側室となっていた秀康の客分として

氏治は天正八年(1580年)には出家して「天庵」と名乗っておりました。

が、佐竹との戦は続けています。いったい仏門とは……。

そして、その決着がつかないうちに秀吉が小田原征伐がスタート。
佐竹は秀吉に臣従することを表明していたため、その佐竹と戦った小田家は「謀反を起こした」として、領地を全て没収されてしまいます。

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慌てた氏治。小田原攻めが終わった後、奥州へ向かった秀吉を追いかけ、会津で謝罪して命は許されました。

が、次は大名には戻れませんでした。残念。

その後は、娘が側室として嫁いでいた結城秀康(家康の実子)の客分として晩年を過ごしています。
秀康の義父・結城晴朝がかつて氏治と戦っていた事を考えると、数奇な運命ですね。

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秀康が越前に転封された後も、氏治は嫡男・守治、庶子・友治とともについていきました。
そのまま結城家で暮らしていたらしく、氏治が亡くなったとき、一度は越前で葬られています。その後、常陸の新善光寺に改葬されたそうです。

同名のお寺が二ヶ所あり、片方は既に廃寺になってしまっているので、どちらにあるのかはっきりわからないのですが……。

氏治の経歴からすると、神式で葬られていたら、今頃、浪人生や転職活動中の方から厚く信仰されていたかもしれませんね。

小田城の建造物は残っていませんが、近年堀などが整備されていて、縄張りの雰囲気はうかがうことができます。

小田城跡/photo by あばさー wikipediaより引用

また、近隣には元小田家臣の太塚家が帰農した後に住んでいた家が残っています。結構立派な建物です。

車でないと行きにくい立地ではありますが、小田家の在りし日の姿を感じるのもいいかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
小田氏治/Wikipedia

 



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