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【六角義賢】
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隠居と干渉
一息ついた永禄二年(1559年)、息子の六角義治に家督を譲ると、六角義賢は頭を丸めて「承禎(じょうてい)」と名を改めました。
あくまで形だけのことで、実権は持ち続けます。
特に六角氏の場合、経験の少ない息子に全てを譲り渡すのは心もとない状況でした。
まずはメキメキと力をつけている北近江・浅井氏の存在です。
永禄二年ごろから久政の息子である浅井長政は六角氏との対決姿勢を鮮明にしていきます。

浅井長政/wikipediaより引用
最初の妻である六角氏重臣の娘を送り返してきた上に、義賢から偏倚を受けて名乗っていた「賢政」を改めて「長政」にしたのです。もはや真正面からケンカを売っているも同然でしょう。
しかも同時期に浅井長政は織田氏と接近し、信長の妹・お市と結婚していたとされます。
二人の結婚時期については諸説ありますが、浅井が六角へ攻撃を仕掛けるタイミングというのは非常に合理的ですよね。
実際、永禄三年(1560年)に起きた【近江野良田の戦い】で六角氏は浅井氏に敗北してしまいます。
これにより浅井氏は六角氏の傘下から脱出し、六角氏は勢力を弱めていくことになりました。
泣きっ面に蜂とはこのことで、六角義賢にとっては息子の義治も悩みのタネでした。
同じく永禄三年7月、義賢が息子の家老たちをキツく叱りつけている記録が残されています。
斎藤義龍の娘を義治の妻にしようとしていたためです。

斎藤義龍/wikipediaより引用
冒頭で触れた通り、六角氏は由緒正しい源氏の家。
成り上がりの斎藤氏と縁組するのが許せなかったのです。
しかも斎藤氏は、六角氏と付き合いの深い土岐氏から美濃を奪った憎い相手でもありましたので、どの方面から見ても義賢としてはいけ好かない話でした。
観音寺騒動
さらに永禄六年(1563年)になると、六角義治が重臣の後藤賢豊父子を謀殺するという事件が起きます。
場所は、本拠地の観音寺城で、理由は不明。
あまりにもキナ臭い事件であり、当然、他の家臣たちは義治に対して激しく不信感を抱き、騒動はさらに大きくなっていきます。
彼らは次々と観音寺城内の自邸を焼き、本領に帰ったのです。
しかもこれに乗じて浅井氏が動き、観音寺城から20kmも離れていないような四十九院(滋賀県豊郷町)まで迫ってきたといいます。

観音寺城の模型(滋賀県立安土城考古博物館所蔵)/wikipediaより引用
後藤賢豊が浅井氏に内通していて、義治が先手を打ったってことなんでしょうか。
それとも浅井氏はもう少し前から動き始めていて、別の内通者が「賢豊が殺されたので、今が好機です」とでも連絡したんですかね。
一連の騒ぎは蒲生定秀(蒲生氏郷祖父)の調停によって、義治が弟の六角義定に家督を継承することで諸将を戻らせ、決着しています。
【観音寺騒動】と呼ばれており、現代でも謎の多い事件です。
ともかくこの騒動で六角氏の結束は更に弱まり、永禄八年(1565年)に京都で【永禄の変】が起きて足利義昭が逃げてきたときも、永禄九年(1566年)に浅井軍が攻めてきても、かつてのような力を発揮できませんでした。
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