六角義賢

六角承禎(六角義賢)の錦絵/wikipediaより引用

戦国諸家

近江の戦国大名・六角義賢の生涯~将軍家に翻弄され信長に滅ぼされる一部始終

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六角氏式目の制定

徐々に衰退していく六角氏。

こうした流れの中、家臣たちは隠居の六角義賢を頼るようになっていきます。

そんな事態となれば、義治や義定が面白くないと思ってしまう――そこで永禄十年(1567年)4月、義賢と義治は共に”六角氏式目”を制定しました。

実に六十七ヶ条からなる法律で、年貢の収納に関する取り決めが多々含まれています。

また、義賢父子の権力を封じる内容も盛り込まれていて、立憲君主制のような形を目指していたかのような印象もあるほどです。

観音寺騒動のことを考えると、義賢父子としては

「もう一度家中をまとめるためには仕方がない」

と思ったのかもしれません。

しかしその努力が実る前に強力すぎる敵が北東からやってきてしまいます。

織田信長です。

織田信長/wikipediaより引用

 


信長、上洛

永禄十年(1567年)9月、【稲葉山城の戦い】に勝利して斎藤龍興を追い出した織田信長。

その勢いのまま翌永禄十一年(1568年)に六角氏へ上から目線の通達を送ってきました。

「将軍様を京都にお送りする。道中協力せよ!」

六角義賢はこれを拒みます。

すると当然のことながら織田軍は六角氏の拠点を目指して侵攻してきました。

義賢としては、領内の数ヶ所に砦を築き、織田軍を少しずつ削っていくつもりでいたようです。

しかし、そうした作戦を見透かしたかのように、信長はいきなり六角氏本拠の観音寺城と箕作城(滋賀県東近江市)だけをターゲットにして、一気に攻め込んできました。

観音寺城のあった繖山(きぬがさやま)

信長の大胆な作戦に恐れをなしたか。

あるいは迅速な行軍に対応できなかったか。

箕作城が呆気なく落城すると、義賢らは観音寺城を捨てて落ち延びていきます。

観音寺城の立派な石垣

観音寺城本丸趾

行き先は伊賀山中だったといわれています。

このとき蒲生氏など、六角氏の主だった家臣たちは織田方に投降することを選びました。

信長が娘の冬姫を娶らせるほど気に入った蒲生氏郷は、このときの六角氏家臣の一人だったというわけです。

 


粘る義賢、叶わぬ願い

本拠地の観音寺城を追われた六角義賢はその後どうなったのか?

というと、そんなわけもなくゲリラ戦で生き永らえつつ機会をうかがっていました。

そこで起きたのが【金ヶ崎の退き口】――永禄十三年(1570年)4月、朝倉攻めを強行していた織田信長を突如として浅井長政が裏切り、信長は京都まで命からがら逃げ戻るという事件が起きていました。

まさに好機到来! 義賢は、複数の家で織田家を攻撃する【信長包囲網】の一角に加わろうとして軍事的な動きを始めます。

同年6月に起きた勃発した【姉川の戦い】直前、近江南部で一揆を先導し、柴田勝家佐久間信盛らと戦ったのです。

柴田勝家(左)と佐久間信盛/wikipediaより引用

このころ義賢は甲賀郡西部(現・湖南市)にいたため、辺りに潜伏していた模様。

同年11月には信長と和議を結びますが、その後、義昭と信長の関係が悪化して義昭が信長の封じ込めを図ると、義賢も再び動き始めます。

しかし、ことはそう簡単には動きません。

元亀四年(1573年)3月には六角義治が浅井氏との連携を進めようとするも、その年の8月に浅井氏の本拠・小谷城が織田軍に落とされ、浅井親子は自害へ追い込まれてしまいます。

義治は、京都を追われた義昭に接近し、仕えて生き延びる道を選びました。

一方、六角義賢は石部城(湘南市)で抵抗を続けますが、織田軍に包囲されて天正三年(1575年)4月に退去し、また伊賀へ。

その後は武田氏と連絡を取り、再起を図っていきます。

しかし、すでに時遅しというところでしょうか。

武田信玄は亡くなっており、天正三年【長篠の戦い】で手痛い敗北。

以降は織田と徳川に押されて緩やかに勢力を衰えさせ、ついに天正十年(1582年)春に滅亡してしまいます。

六角義賢はしぶとく……というか、もはや信長から

本能寺の変の後、どこかのタイミングで京都へ移り住み、豊臣秀吉に仕えたといわれている

そして慶長三年(1598年)3月14日に宇治の地で亡くなりました。

没落した割に、亡くなった場所や没年月日がはっきりわかっているのも、秀吉に仕えていたからと思われます。

その後、義弼の娘と義賢の次男・大原高定の息子が結婚し、六角氏の血を繋ぎました。

高定の息子は定治といい、寛永七年(1630年)に前田家に仕え、加賀藩士として続いたそうです。

信長の上洛戦であまりにもあっさり負けてしまったので、六角氏は信長の前座みたいな扱いをされがちですが、六角氏式目で主君の権利を制限したことや、血が残ったことは評価すべきでしょう。


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長月 七紀・記

【参考】
天野忠幸『戦国武将列伝8 畿内編【下】』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
日本国語大辞典
ほか

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