氏家卜全(氏家直元)

斎藤家

美濃三人衆・氏家卜全が織田家へ寝返り~信長に従った後の活躍は?

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敵の集中攻撃を受け

殿を務めるとはどういうことか?

最後尾で敵の追撃を食い止める命がけの役割です。

味方は戦地から退いている一方、それを追う敵にとってはこれ以上のチャンスはないわけで、卜全の部隊は敵の集中攻撃を受けてしまいます。

そして不運、ここで戦死してしまったのです。

討ち取ったのは、元近江守護・六角氏の一族である佐々木祐成だったといわれています。

卜全の享年には59説と38説がありますが、冒頭で述べた通り、おそらく59説のほうが正しい(または近い)でしょう。

最期の地となった現在の海津郡南濃町には、その「首を祀った塚」と「首を洗った沢」と言われている場所があるとか。

ファンの方は訪れてみるのも良いかもしれませんね。

卜全は、信長の家臣の中では知名度が比較的高い武将ですが、織田家に属していたのは

永禄十年(1567年)

元亀二年(1571年)

という非常に短い期間のため意外に感じる方もいらっしゃるかもしれませんね。

また、彼の息子や子孫についてもあまり知られておりませんが、なかなか波乱含みな生涯を辿った方がいます。

よろしければ最後までお付き合いください。

 

秀吉の信用を得た息子の氏家行広

卜全の死後、三人の息子たちはそのまま織田家に仕え続けました。

父の存命中はあまり記録上に現れませんが、家中での問題がなく、別個扱いをされなかったからなのでしょう。

家督は長男・氏家直昌(直通・直重とも)が継ぎました。

父の立ち位置をそのまま引き継ぐ形で、安藤守就稲葉一鉄らと出陣したことも多々あります。これは弟たちも同様で、記録によっては直昌と行広を混同したと思われる箇所が見られることも。

彼の有名な武功は、天正元年(1573年)【一乗谷城の戦い】で、かつての主筋である斎藤龍興を討ち取ったことでしょう。

※ただし、龍興には複数の生存説があるため、断言は難しいところ

その後は父の弔い合戦でもある第三次長島攻めや【長篠の戦い】、【有岡城攻め】など、

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織田家の主要な戦に美濃衆の一角として参戦。

天正十年(1582年)に本能寺の変が起きた後は、早い時期から秀吉に従いました。

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直昌は翌天正十一年(1583年)に亡くなり、変わって弟の氏家行広が家督を継ぎます。

彼もまた秀吉に従い、小田原征伐などへの従軍と加増を繰り返し、秀吉からの信用を勝ち得たようです。

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文禄の役では名護屋城に在陣しており、渡海はしていません。戦以外ですと、伏見城の普請にも参加していました。

それらの積み重ねの結果か、慶長三年(1598年)には秀吉の形見として国俊の刀を譲られています。

”国俊”というのは日本刀の刀派のひとつである「来(らい)派」の刀工の名です。銘に「国俊」と「来国俊」の二種類が存在しており、同一人物説と別人説があります。

このとき「来国俊」を拝領した人もいるようなので、行広が拝領した刀は前者だったようです。

号が記録されていないため、どのような来歴の刀だったのかはわかりません。

 

忠興に助けられ熊本藩へ

関ヶ原の戦い直前の【会津征伐】では、後から徳川軍に合流するために進軍していました。

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しかし道中で石田三成挙兵の知らせを聞き、家康に断った上で自領の伊勢に帰還。

当初は領内に留まり中立を保つつもりでいたようですが、西軍が攻めてきたため、やむなく弟・氏家行継と共に西軍に加わりました。

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それにより、東軍の勝利後に改易され、浪人として不遇をかこつことになります。

そして関が原の戦いから14年後、慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣で、再び戦場に戻りました。

”荻野道喜”という偽名を用いて大坂城に入り、豊臣方の一員として参加したのです。

これを知った家康は、行広の器を惜しみ、徳川家へ出仕するよう持ちかけたものの、応じなかったようです。

まあ、この経緯ですと「14年前に改易しておいて、今更何を言うのか!」という気分ですよね……。

行広はこの頃70歳になろうかという高齢でしたので、死に花を咲かせたかったのかもしれません。

結局、そのまま豊臣方を貫き、翌元和元年(1615年)5月8日【大坂夏の陣】で大坂城が落ちた際、自刃したといわれています。

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行広には四人の息子がいましたが、天海の弟子だった三男以外は捕らえられ、切腹に追いやられています。

三男・氏家行継も、ほとんどの経歴は兄たちと同じだったようで、あまり単独で記録上に出てくることはありません。

行継はいったん高野山に行った後、許されて細川忠興預りとなります。

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兄との扱いの差は、

・当主だったかどうか

・自発的に西軍についたかどうか

といったあたりが理由でしょうか。

行継はそのまま細川家に仕えたようで、子孫も熊本藩に仕え続けます。

戦国時代から江戸時代にかけては、文字通り一家全滅した家も少なくありませんから、大名という立場でなくとも、家が残ったのは不幸中の幸いといえるでしょう。

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【参考】
国史大辞典斎藤道三
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon

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