黄梅院

夫の北条氏政(左)と武田信玄(右)/wikipediaより引用

武田・上杉家

信玄の娘にして氏政の妻だった黄梅院|同盟破棄により起きた悲劇とは

2023/06/17

永禄十二年(1569年)6月17日は、黄梅院(おうばいいん)が亡くなった日です。

この時代、信玄の娘という立場に生まれただけで波乱の悪寒であり、まさにそんな生涯を送った人でした。

彼女の一生を見ていきましょう。

黄梅院

絵・小久ヒロ

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盛大に祝福された結婚だった

黄梅院は、武田信玄とその正室・三条夫人の間に生まれた娘(長女)です。

場合によっては、武田の有力家臣に嫁いで、家を守り立てる道もあったでしょう。

しかし、当時の情勢から、信玄は長女を他国へ嫁がせることを決めます。

黄梅院は12歳で後北条氏の次代を担う北条氏政に嫁ぐことになり、武田・北条・今川の間で結ばれた甲相駿三国同盟の楔となったのです。

北条氏政の肖像画

北条氏政/wikimedia commons

まさに政略結婚のテンプレな経緯で相模に輿入れした彼女でしたが、両家の喜びはなかなかのものでした。

輿入れに際して信玄は、お供の騎馬3,000をつけるなど合計1万人規模で娘を送り届けたと言います。

さぞかし華やかな行列だったことでしょう。

 


義元が信長に討たれ、三国のバランスが崩れる

いざ嫁いだ黄梅院と夫・氏政との仲も良好でした。

公家の姫である三条の方から生まれたので、生来の気品や身につけた教養など、夫から大切にされるような美点もたくさんあったのでしょう。

後に後北条氏を継ぐ北条氏直をはじめ、子宝にも恵まれました。

しかし、大国の事情が絡んだこの蜜月は、長くは続きませんでした。

前述の通り、武田・北条・今川の三家は甲相駿三国同盟を結んでいましたが、【桶狭間の戦い】で今川義元が斃れたことにより、三家の絶妙なパワーバランスが崩れていくのです。

今川義元の肖像画

今川義元(高徳院蔵)/wikimedia commons

北条と武田は、上杉謙信という共通の敵がおりました。

しかし信玄は、強敵・謙信との戦いを避け、南進戦略に切り替えていくのです。

要は駿河の今川へ攻め込んだのですね。

それが永禄11年(1568年)のこと。

話は単純に【甲相駿三国同盟】の破綻にとどまりませんでした。

今川家で義元の跡を継いだのが今川氏真であり、その正室が後北条氏の姫・早河殿(はやかわどの)だったため話がこじれます。

端的にまとめますと「信玄の攻撃により今川家臣に見放なされた氏真は北条のもとへ逃避。妻(北条の娘)は着の身着のまま、徒歩で逃げざるを得なかった」という感じです。

 

なぜ信玄ほどの者が敵を増やすような真似を……

自分の娘がそんな目に遭わされ、いい気分になるわけがない――。

当然ながら北条氏康は、武田家に対して激怒。

北条氏康の肖像画

北条氏康/wikimedia commons

信玄が自ら強敵を敵に回してしまったというのも腑に落ちないのですが、まぁ、それだけ海のある駿河が魅力的であり、謙信が強敵だったのでしょう。

ともかく手切れとなれば、北条にしたところで、これ以上、敵の娘を家にとどめておく理由はありません。

かくして黄梅院は永禄12年(1569年)、甲斐へ送り返されることになりました。

「堪忍分」という収入(領地・権益)をつけてくれたので、舅の北条氏康としても、黄梅院個人に対しては悪い印象を抱いていなかったのでしょう。

堪忍分とは、客として身を寄せていた人や、家臣が討ち死にした場合に、遺族に与えられるものです。

氏康はおそらく、前者の意味で黄梅院に堪忍分16貫文を与えたのでしょう。

まぁ、跡継ぎを産んでくれた上、息子とも仲良くやっていた人を別れさせなければならないのですからね。

良心があれば呵責を覚えるのは至極当然ですね。

もともとは信玄の攻撃があったわけですが。

 

氏康から黄梅院へ渡された餞別は15年分のお米代

ちなみに、16貫文はどれぐらいの価値なのか?

戦国時代の貨幣価値は諸説ありますが、1貫=米1石という説があるので、わかりやすさ優先で試算してみましょう。

「米1石=成人が1年に食べる米の量」です。

となると、黄梅院は16人を1年、あるいは1人を16年養えるだけの金額をもらって離婚した(させられた)ことになります。

現代でも離婚の際に子供の養育費の話が出ますが、この場合は「子供を育てるのに必要な費用のうち、食費分だけもらった」という感覚になるでしょうか。

まぁ、黄梅院の場合は子供を連れて帰ることはできませんでしたが……。

少なくとも、「蔑まれて叩き出されたわけではない」ということになるでしょうか。

甲斐に戻った後は世の無常を嘆いたのか、甲府にある大泉寺というお寺で出家したといわれています。

彼女の憔悴ぶりは凄まじかったようで、離縁から約7ヶ月後に27歳という若さで亡くなっております。もしかしたら離縁の前あたりから病みついていたのかもしれません。

だとしたら、瑕瑾がない上に病身の嫁を送り返さねばならないことになるわけで、氏康が堪忍分を与える気になるのもうなずける話です。

 


菩提寺は甲斐市にある早雲寺黄梅院

父の信玄としても、娘のやつれた姿とその後の早すぎる死は相当堪えたようで、彼女を丁寧に弔いました。

黄梅院の菩提寺は、現・甲斐市に建てられ、今は当時の本尊であったとされる子安地蔵だけが近くの竜蔵院に安置されております。

京都にも同名のお寺があるので、間違えないとは思いますがご注意を。

また、妻を深く思っていたのでしょう。

後に武田と和解した氏政も、後北条氏の菩提寺である早雲寺内に黄梅院(現存せず)を建立。彼女を弔っていたと伝わっております。

大河ドラマ『真田丸』では高嶋政伸さんが演じられ、どことなく性格に偏りのある人物像として描かれましたが、実際は妻を愛する一人の武将としての一面が垣間見えるところですね。

まぁ、主役ではないので、そこまで描かれることもないのでしょうが……。

早雲寺本堂/photo by 立花左近 
wikipediaより引用

なお、完全に余談になりますけれども、毛利両川の一人・小早川隆景の戒名も「黄梅院」です。

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梅は熟すと黄色くなりますから、隆景はともかく、若くして無念のうちに亡くなったであろう黄梅院に名付けるのは少々酷な気もしますが……(´・ω・`)

もしも生まれ変わりがあるのなら、来世こそ幸せになっていてほしいものです。

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【参考】
国史大辞典
黒田基樹『戦国北条家一族事典』(→amazon
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
黄梅院について/甲斐市
黄梅院 (北条氏政正室)/wikipedia
早雲寺/wikipedia
黄梅院_(京都市)/wikipedia
小早川隆景/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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