wikipediaより引用

合戦

応仁の乱って何なんだ?戦国時代の幕開けとなった大戦をコンパクト解説!

文明九年(1477年)11月11日は、応仁の乱が終結したとされる日です。

そもそも始まり方がグダグダな戦なので、終わった日についても諸説あるのですが、とりあえず今回は同日として扱わせていただきます。

歴史の授業でも確実に一度は習うハズですので、ご記憶の方も多いでしょうか。
今回は教科書よりもうちょっとだけ詳しく、この戦の流れと影響を見ていきましょう。

人名・地名はできるだけ省きましたが、それでもハテナが飛び交う複雑さなのはご勘弁ください。

また、足利家中心の話は以前も触れていますので、今回はそれ以外の点を主体にしたいと思います。
よろしければ以下の記事も併せてどうぞ。

 

将軍家の跡継ぎ問題が発端となり山名と細川が衝突

さて、足利8代将軍・義政が当初、弟の義視に将軍職を譲ろうとしたところで、息子の義尚が生まれてしまったことが応仁の乱の発端なわけで、これを見た室町幕府のお偉いさんたちもまた、義視派と義尚派で大きく割れました。

一応、おさらいしておきましょう。

8代将軍・足利義政

弟・足利義視に継がせようとする

足利義政に子供(足利義尚)が生まれて、チョット待ったぁああ!

ここから応仁の乱へ、10年続く

もともと幕府には「三管領」と「四職」というお偉いさんの代表格たちがいます。

三管領

細川氏
・斯波氏
・畠山氏

四職

・赤松氏
・一色氏
・京極氏
・山名氏

文字通り「幕府ナンバー2の”管領”になれる三つの家柄」と「室町幕府の軍事&警察トップになれる四つの家」のこと。四職のほうはちょっとわかりにくいですが、”職”の字に役所や権限という意味があるので、そこからきたものと思われます。

 

日野富子も特に反対はしていなかった

【三管領・四職】という制度からもわかりますように、室町幕府では家格を非常に重視した任官が行われていました。

しかし、応仁の乱が始まると、とにかく味方を増やすため、家格に構わずあっちこっちの武士を身分で釣りはじめます。

西軍=義尚派=山名持豊(四職)も、東軍=義視派=細川勝元(三管領)も、とにかく必死。

ちょっと話がそれますが、学生の皆さんは「誰がどっち陣営で誰の味方なんだよ!」と一番こんがらがるところだと思いますので、それぞれの陣営を色分けしてマーキングすると良いでしょう。人物は多くても、陣営は二つだから分けやすいですしね。

ワタクシの(ピー)年前の教科書もそうなっておりました。当時の先生ありがとうございます。

しかし、受験に出ないレベルで応仁の乱を見ていくと、色分けなどは「小細工(笑)」状態になります。あまりにも関係者が多い上に、裏切りが多発するからです。

そもそも当事者の一人とされる日野富子も、義政の弟・足利義視の将軍就任については特に反対ではなかったとされます。

あくまで中継として、その後に自分の息子に継がせたいと考えたのですね。幼少のうちからムリに将軍に就かせるよりも、義視にいったんお願いした方が自然な流れですしね。

 

誰かれ構わず東西が入り混じって戦争続く

そもそも、持豊と勝元は別の争いや、三管領の一角である畠山家のお家騒動絡みでライバル関係にありました。
応仁の乱で戦闘が始まったのも、畠山家の内紛がきっかけです。

他の家でもお家騒動が勃発し、幕府は一応調停に乗り出しましたが、武家の基本原則である「喧嘩両成敗」が守られていなかったため、余計に政治不信を招きました。こうなると、もうてんやわんやで……。
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