孝明天皇/wikipediaより引用

幕末・維新

孝明天皇を知れば幕末のゴタゴタが超わかる! 謎に包まれた御意志とは

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京都を中心に混乱する政局

安政7年(1860年)3月3日。

桜田門外の変】というテロリズムが勃発。

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幕府の権威がジリジリと低下する中、京都はさらに存在感を増してゆきました。

日本各地から尊皇を唱える者たちが集い、不穏な空気が醸成されるのです。

幕府内でも分裂が起こります。

幕府閣僚が江戸と京都に滞在するようになり、彼らの間で意見がたびたび割れるようになりました。

江戸の閣僚たちは、徐々に西洋人たちにも慣れてゆき、開国こそ当然であると思うようになります。

彼らにすれば、京都の意見は古くさく、国家の一大事をふまえていない、的外れなものでしかありません。実際、攘夷などが可能でないことを長州や薩摩を筆頭に痛感させられています。

一方、京都の閣僚は、どうしても朝廷や天皇の意志を尊重せざるを得ないわけです。

それだけでなく公卿も意見が分裂しておりました。倒幕すら念頭においた長州藩と親しい公卿らは、過激な攘夷を後押しするような工作に手を貸しました。

彼らは天皇とは距離があり、孝明天皇自身の考えを知る機会は少なかったようです。

しかし、たちの悪いことに彼らは勅(=天皇の言葉)を偽造できてしまいました。

これも幕末混乱の一因を招きます。

なぜ長州藩は、この時期に無茶苦茶な攘夷を繰り返したのか?

その答えのひとつに、文久年間に以下のような流れがあったからです。

長州藩が「奉勅攘夷」を行う

味方の公卿がそれに対して「褒勅」を出す

「天皇にも褒められたし、攘夷をもっとがんばるで!」

長州藩が「奉勅攘夷」を行う

当然ながらこれには大問題がありまして。

孝明天皇は「長州藩に攘夷をしろとは言っていないし、それを褒めたおぼえもない」のです。

結果、天皇の意志がようやく発揮されたのが、

「八月十八の政変」
禁門の変

でした。

簡単に言えば長州藩が、会津藩と薩摩藩に追い出されるというもので、詳細は以下の流れをご覧ください。

禁門の変は西郷隆盛の初陣でもありますね。

禁門の変(蛤御門の変)御所に発砲した長州と天皇の意を汲んだ会津の因縁が

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孝明天皇の意に沿う「一会桑」政権

長州藩が抜けた京都の政局は、大きく動きます。

禁門の変が成し遂げた影響は、長州藩の失墜だけではありません。

これほどの大きな政変が起こり、かつその中央にいたのが孝明天皇であったということは、幕府権威の低下をますます深刻化させるわけです。

分裂していた政局の重みは、京都側が増して江戸側が低下することに繋がりました。

そんな最中、孝明天皇が信頼を寄せたのは、以下の人物および勢力でした。

◆将軍後見職
一橋慶喜

◆会津藩主・京都守護
松平容保

◆桑名藩主・京都所司代
松平定敬

この三者を「一会桑政権」とも呼びます。

しかし当時そう呼ばれていたわけではなく、あくまで後世に付けられた呼び名です。また、三者の意見が必ずしも一致していたわけではありません。

自己の権勢を高めるために、天皇を利用したい一橋慶喜。

天皇への忠誠心一筋で、政治的な駆け引きには疎い松平容保。

松平容保
松平容保(会津藩主)の迎えた最期は悲劇だった?天皇と藩祖に捧げた生涯

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兄である松平容保に付き従う松平定敬。

「同床異夢」と言いますか。三人の向いている方向は、必ずしも一致しないのです。

江戸の幕府閣僚のみならず、他藩も反発します。

孝明天皇があまりに松平容保贔屓が激しかったため、しらけムードすらあったようです。

松平容保/wikipediaより引用

この思いは他藩だけではなく、国元に残った会津藩首脳からも懸念が表明されています。

会津藩の京都守護職就任は財政的負担が大きく、危険視されていました。

そのため当初から藩首脳部から反対論が噴出。

容保が孝明天皇の寵愛を受け、プレッシャーがますます強まってゆく中、藩首脳部は解任と帰国すら願い出ます。

しかし、容保はそれを拒んだのでした。

 

シラけムードの「長州征討」

孝明天皇自身の意志を反映して、取り組むことになったのが長州への処分です。

しかし、世間からみると、処分は天皇の意志によるものというよりも、

【会津藩vs長州藩の私的な怨恨】

が由来とみなされたようです。

結果、「長州征討」は、やることがあまりに中途半端な不完全燃焼となってしまい、かえって幕府の権威を傷つけます。

「あのとき外国の支援を受けてでも、長州を叩き潰しておけば!」

「そもそも、やるんじゃなかった」

そんな声がありますが、いずれにせよ中途半端だったと散々な評価を受けております。

長州征伐(征討)がスッキリわかる! 天皇・幕府・外国人の視点も大事だよ

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なぜこんな不完全燃焼に終わったのか?

というと、やる気があったのが孝明天皇とその周囲だけであった、ということも大きいでしょう。

責任者の西郷隆盛は露骨にサボタージュしておりますが、薩摩藩はそのシラケムードの筆頭におりました。

西郷隆盛49年の生涯まとめ【年表付】誕生から西南戦争での最期まで

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かつて薩摩藩は、会津藩と並んで「八月十八日の政変」や「禁門の変」を戦っております。

しかし「一会桑」から外されてしまい、政治的疎外感を味わっていました。

そんな薩摩藩が目を付けたのが「朝敵」認定されている長州藩です。

犬猿の仲同士で手を組み、目障りな「一会桑」打倒を目指そうというもの。

その先にあったのが【薩長同盟】でした。

薩長同盟の当初の目的は、

・第二次長州征討の際には、薩摩側が幕府側に圧力を与える

・長州が戦闘に勝つことがあれば、薩摩側が斡旋して朝廷に和議を持ちかける

・幕府側が撤退したら、薩摩の斡旋で工作を行い、朝敵認定取り消しを行う

・一会桑側が妨害してきたら、武力行使も辞さない

というもので、この時点で倒幕は視野に入っておりません。

薩長同盟の目的は「倒幕」ではない!それでも龍馬や慎太郎が奔走した理由

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そしてこの「薩長同盟」が成立した慶応2年12月25日(1867年1月30日)。

孝明天皇は崩御しました。

死因については、毒殺説を含めてここでは取り上げません。

むしろ重要なのは、毒殺説がささやかれるほど、特定の勢力にとっては障害であったという点ではないでしょうか。

孝明天皇は、「一会桑」にとっては扇の要のようなものです。

結束は崩れ、薩長側の勝利へと情勢は向かってゆきます。

政治的な駆け引きは苦手とし、孝明天皇の深い信任を頼りにしてきた松平容保にとっては、引き返すことのできない地獄への道が開かれました。

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