生麦事件

生麦事件のイメージ/国立国会図書館蔵

幕末・維新

生麦事件で死者一名と重傷者二名 イギリス人奥さんは頭髪を剃られ薩摩vs英国へ

2025/08/20

文化や風習の違いはトラブルのもと。

日本史で、それが最もわかりやすいカタチで起きた事件が【生麦事件】ではないでしょうか。

文久2年(1862年)8月21日に横浜で勃発していて、その内容を一行で言い切るならこうでしょう。

【薩摩藩の大名行列で無礼だったイギリス人が殺された】

むろん英国もタダでは黙っておらず、その直後、鹿児島湾へ軍艦を引き連れやってきて、次々に砲弾を降らせる【薩英戦争】へと発展しています。

要は、幕末の一大転換点ともなっていたんですね。

本日は、事件をもう少し詳しく見て参りましょう。

 


大名行列の主は久光

生麦事件の「生麦」は地名から来ております。

神奈川県横浜市鶴見区――今も残っている地名というか、私鉄・京急線の駅名にもなってますね。

地元では、駅の目の前に大きなキリンビール工場があることで知られています。

事件当時の生麦/Wikipediaより引用

そんな生麦で起きた事件。

主役の一人が大名行列の主・島津久光(ひさみつ)でした。

当時の薩摩で最高権力者として「国父」とされながら、藩主ではありません。

前藩主の島津斉彬は久光の実兄で、その次の藩主は久光実子の島津茂久が継ぎました。兄・斉彬の息子たちは次々に夭折してしまったからです。

一応、薩摩藩主の系譜を記載しておきましょう。

1代 島津忠恒(ただつね) 1576-1638

2代 島津光久 1616-1695

3代 島津綱貴(つなたか)1650-1704

4代 島津吉貴 1675-1747

5代 島津継豊 (つぐとよ) 1702-1760

6代 島津宗信 1728-1749

7代 島津重年 1729-1755

8代 島津重豪(しげひで) 1745-1833

9代 島津斉宣 1774-1841

10代 島津斉興(なりおき) 1791-1859

11代 島津斉彬(なりあきら) 1809-1858

12代 島津茂久(もちひさ) 1840-1897

国父 島津久光 1817-1887

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馬に乗ったまま行列の前に現れ

さて、島津久光が江戸へ行き、帰る途中のことです。

大名行列のお通りですから、道行く人は全て土下座をして道を譲り、通り過ぎるのをじっと待っていたわけです。

しかし、生麦を通行中、頭を下げるどころか馬に乗ったまま行き違おうとする一団がおりました。

チャールズ・レノックス・リチャードソンを始めとしたイギリス商人とその縁者四人組です。

商売の合間に日本を見物しようと、川崎大師へ観光にいくところでした。

彼らはイギリス政府の役人でもなく、通訳もいなかったために悲劇が起きてしまいます。

小さな村の横を通る街道ですから、大名行列のような大人数が通れば道幅一杯。

しかしリチャードソン達は馬に乗ったまま行列の前に現れてしまったのです。

おそらく「前から何か大勢来るけど、うまく合間を通れば大丈夫だろう」ぐらいに考えたのでしょう。

あろうころか、久光の乗った駕籠の真横を通り抜けようとしたのです。

これに対して、薩摩藩士たちはついにブチキレ!

まだ「斬捨御免」が通用する時代のことです。

容赦なくリチャードソン達に斬りつけ、無礼を正そうとしたのでした。

 

女性は頭髪を剃られ……

結果としてリチャードソンは死亡、他二名が重傷、一人だけいた女性は奇跡的に無傷でした。

ただし、頭を剃られているので、それはそれでキツかったことでしょう。

彼女は大慌てで横浜居留地に戻り、救援を求めました。

重傷だった二名は当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ身を寄せ、治療を受けます。

当然、イギリス領事達は大激怒。

この時点ではまだきちんと事件の真相を質し、解決を図ろうとしていました。

開港など諸々の折衝を何とかうまく進めていきたい幕府としても、頭を抱えながら協力します。

一方、周辺の市民はのんきなもので「さすが薩州さま!俺達にできないことを平然とやってのけるッ!」と大喜びだったとか……。

いやはや、感覚の違いって恐ろしい。

 


薩英戦争へ発展

この事件が本格的にヤバくなってくるのは翌年(1863年)からのこと。

イギリス公使の元へ本国から「幕府に謝罪と賠償金、薩摩からは犯人の引渡しと賠償金を寄越せと言え!」という指示が届きます。

さらに、幕府を脅すために横浜へフランス・オランダ・アメリカとともに艦隊を送りつける徹底振りでした。

「謝って犯人を出して、金を払うなら許してやんよ!ゴタゴタ抜かすと……」というわけです。

さすが海賊紳士のイギリス。

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すったもんだの末、幕府は賠償金を払うことになりました。

もちろん薩摩にも艦隊が送られています。

「まずは話し合うけど、ゴタゴタ抜かすと(ry」という態度を両方へ見せたわけです。

が、こちらの交渉は激烈なまでに不調。

当事者だけで話し合うとうまくいかないのは、どこの国のどの時代でも同じだったようで……。

しかもその間に薩摩の船がイギリス艦隊に捕まるという事故が発生。

「開戦か!」

「一応、艦隊を用意したけど、幕府が金払ったんだから薩摩もそのうち折れるだろ」と思っていたイギリス側も、砲撃されては黙っていられません。

「やんのかコラァ!」とキレ返し、【薩英戦争】が始まってしまうのでした……。

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いったいここまでで何人が何回キレたんでしょうか。

この戦争は現在の鹿児島市街が焼き払われる、イギリス艦隊も旗艦艦長と副長が戦死するなど、双方にそこそこの犠牲が出ます。

痛み分けとなった後に再度横浜で話し合い、英国へ賠償金を払うことで生麦事件の解決としました。

ちなみに、実行犯の薩摩藩士たちは「どこに逃げたかわからないからどうしようもありません。見つけたら処刑しておきますんで」ということで処罰を免れています。

 

維新後は残念ながら……

このときの奮戦を見て、イギリス側は「薩摩ってヤツらは使えそうだ」とでも考えを改めたのでしょうか。

その後イギリスの役人が頻繁に薩摩を訪問するようになります。

薩摩藩も「やっぱり攘夷なんて無理だ、これからは外国に学ばなければ……」ということで両者は急速に接近していくのでした。

こうして、日本列島の南端から、技術的・人材的に倒幕への流れができていきます。

さらに薩摩と長州が実質的に政権を奪取したことから、明治維新後は日英同盟が結ばれるなどしていますよね。

ただし、その関係性は対等とはとても言えず、実質、イギリスに使われてしまうような一面があり、一言でいえば残念な展開。

詳細については以下の記事をご覧いただければと存じます。

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大名行列で庶民は土下座しなくてOKなときも?

参勤交代などにおける大名の移動で薩摩に対して、庶民は土下座の必要なく、御三家と御三卿だけが土下座された――そんなご指摘をいただきました。

安藤優一郎氏の『参勤交代の真相』(→amazon)を参照しますと、

庶民の土下座が免除されたのは

【江戸御府内(江戸の市域で南は品川あたりまで)】

であり、横浜にある生麦は土下座の必要な地域だと思います。

歴史の授業で習う参勤交代には、知らないことがたくさんありますね。

『参勤交代の真相 (徳間文庫カレッジ)』は非常に読みやすい一冊ですので、ご興味を持たれた方はぜひ。


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長月 七紀・記

【参考】
安藤優一郎『参勤交代の真相 (徳間文庫カレッジ)』(→amazon
国史大辞典
生麦事件/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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