斗南藩

松平容大(左)と松平容保/wikipediaより引用

幕末・維新

斗南藩の生き地獄~元会津藩士が追いやられた御家復興という名の流刑

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猪苗代か? 南部か?

実は、3万石ならば、うってつけの土地がありました。

会津藩の猪苗代です。

この町は、もともと城下町の若松に次ぐものです。

それというのも、藩祖・保科正之を祀る「土津神社」や代々の藩主墓地があるのです(磐椅神社公式サイト)。

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名君と知られる藩祖・保科正之が、徳川秀忠の子だったために許されたのか。

「一国一城令」の違反になりかねない猪苗代城まであった土地です。

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その猪苗代にすればいいのに、なぜ青森県の斗南(となみ)になったのか。

昨今のネットでは、その理由を

「会津藩の首脳部がマヌケだったから」

「会津藩の民の反抗が激しくて、猪苗代を選べなかったから」

なんて囁かれたりもするようです。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

確かに会津藩が京都守護職になって以来、増税が続きました。

戊辰戦争に巻き込まれた民が、一揆を起こした、とされています。

ただ、この話はそう単純なものではありません。

会津藩士の死骸から刀剣を盗んで売り払った民が、他の住民から白眼視された話。

白虎隊士を、命の危険を冒してまで民が救った逸話もあります。

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そもそも、猪苗代にやって来た会津藩の上層部が、民にあっさりと殺される可能性があったのか?

それを考えてみるべきでしょう。

実は彼らには、猪苗代を選べない別の理由がありました。というのも……。

 

激論! どこで会津藩を再興する?

そもそも会津に駐留していた西軍は、会津藩士の襲撃に悩んでおりました。

鬱陶しい会津藩士を、第二の都ともいえる猪苗代に残したところでどうでしょうか?

根性を出せば、スグにまた反乱されかねない。

そう懸念して当然です。

一方の会津藩士たちも、とにかくは御家復興が大事なワケです。

そこで東京組の会津藩家老たちは話し合いました。

山川浩(25)

広沢安任(やすとう・40)

永岡久茂(30)

「会津の猪苗代サいだら、薩長どもから反乱を起こすつもりかと、疑われちまうべした」

「んだんだんだ!」

これがまず、第一の論点でした。

明治政府は初期の頃、不平士族の反乱に悩まされました。

維新サイドの土地でもそんな状態ですから、会津藩士を地元に置き続けるなんて危険視されて当然です。

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もうひとつ。

幕末にロシアやフランスまで見た山川浩には、こんな考えもあったことでしょう。

「会津には海がねえ。海がありさえすれば、都合のいいこともたくさんあるべや!」

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どうしても海が欲しかったが

海がない――。

実は会津藩士が幕末で痛感した弱点、それが海でした。

最近は原発のイメージからでしょうか。

福島県には海があると一緒くたにされがちですが、会津藩は内陸。

それゆえ薩摩藩や長州藩のように海外事情に通じることもできず、ましてや海軍力となる戦艦を持つこともできず、貿易による収入増も見込めなかったのです。

この結論を、おそらくは山川自身も悔やんだはずです。

広沢安任としては、この土地を通過した経験だけはあったようですが、それでも知識が充分と限ったわけではありませんからね。

広沢安任/wikipediaより引用

現在のように、インターネットでGoogleアースを参照できるわけでもない時代。

そのあたりは察しましょう。

しかも若松県知事・四条隆平も、早く南部へ移住するよう急かしていたとか。

一方で町野ら会津在留藩士は、東京組に大反発。

実は猪苗代か南部かで揉めたのは、藩士同士だったのです。

ついには永岡と、東京まで押しかけた町野は、刀を抜き放つところまで争ったほど。

両者は譴責、謹慎処分を受けましたが、この闘争の結果、友情も芽生えたとも言います。

かくして南部地方が会津藩士の新天地となりました。

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