明治9年(1876年)1月14日は瀧山の命日です。
一瞬「誰?」と思われそうですが、NHKドラマ10『大奥』シーズン2で古川雄大さんが熱演したイケメン武士と言えば、思い出される方もいらっしゃるでしょうか。
劇中では、幕閣随一の切れ者である阿部正弘に見いだされ、将軍・徳川家定に仕えるべく大奥入りした最後の大奥総取締。
阿部を支え、家定に対する忠義は、視聴者の胸に刺さるものがありました。
そこで気になってくるのが、史実の瀧山でしょう。
男女逆転版のドラマと違い、史実の瀧山は当然女性であり、大奥を取り仕切るその能力は徳川慶喜に「手強い」と恐れられるほどの存在でもありました。
では一体どんな女性だったのか?
瀧山の生涯を振り返ってみましょう。
三代にわたり娘が大奥に仕えた大岡家
瀧山は文化2年(1805年)生まれ。
14歳を迎えた文政元年(1818年)に大奥へ上がります。
大奥にあがるには身許が大事であり、そのための人脈が必須条件となります。
彼女の父は御鉄砲百人組・大岡義方であり、瀧山の祖父・義安の娘も“染嶋”という名前で大奥に奉公していました。
瀧山にとってはおばにあたり、彼女が大奥に入る条件は揃っていたと言えるでしょう。
瀧山の弟の娘である“ませ”も大奥に奉公し、天璋院篤姫の中臈になっています。
篤姫の愛猫・サトの世話係を担っていました。
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幕末の大奥で自由恋愛できた唯一の存在~サト姫(篤姫の猫)が贅沢で微笑ましい
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ませは明治になってから三田村鳶魚に大奥事情を語り残したことで知られます。
つまり大岡家では、三代にわたって叔母と姪が大奥に仕えたのです。
なお、瀧山の祖父である青木長国は、勝海舟の母方曾祖父にあたります。
勝海舟の母・信の従姉妹が瀧山という縁もあったのです。

実は瀧山の縁者であった勝海舟/wikipediaより引用
大奥の瀧山は手強い……慶喜がおそれた存在
大奥や奥御殿という世界は、何かと誤解されがちです。
後宮美女三千人がひしめき、将軍様のお手つきを願っていた――というのはあくまでフィクションの世界観。
力仕事をする者もいれば、当初から「男と関わらない」と誓いを立てた者もいる。あるいはキャリアを積んでコネづくりに励んだ者もいたのです。
瀧山がもしも別の時代に生まれていたら、歴史の中にひっそりと埋もれていたかもしれません。
しかし彼女は、幕末動乱の時代を生きることとなる。
その最たる出来事が【将軍継継嗣問題】でしょう。
病弱で世継ぎもできない13代徳川家定のあと、誰が将軍になるのか?

徳川家定/wikipediaより引用
慶福(のちの徳川家茂)か、あるいは慶喜か?
そんな政治抗争が勃発した――と、幕末作品では必ずのように取り上げられますが、これは後世【一橋派】の意見が大きく通った結果です。
例えば、西郷の関連作品などを見ていると、『なぜ一橋派の将軍にしないんだ!』と視聴者は憤るかもしれません。
しかし血統面では、最初から慶福に正統性がありました。
さらには慶喜の父・徳川斉昭は幕末きってのトラブルメーカーとして悪名高く、12代将軍・徳川家慶や大奥からも煙たがられていたものです。
13代・徳川家定もまた「慶喜だけはありえない!」と敵視するほどでした。
当時の正統な認識としてはこうです。
そもそも慶喜が将軍になるという選択肢がおかしい――。
よく「一橋派 vs 南紀派」なんて説明されますが、きちんと実態を示すなら次のような表現が相応しいでしょう。
一橋派 vs そもそもなぜ一橋推しなのかわからない南紀派
こうした状況を踏まえて、明治維新後の慶喜を振り返ってみると、なかなか酷いことを語っている。

隠居生活で狩猟を楽しんでいた慶喜/wikipediaより引用
『昔夢会筆記』の一節にこうあるのです。
「将軍にはなりたくなった。幕府の衰亡の兆しが見えていたわけだし。
そもそも大奥には、老中よりも手強い瀧山がいる。
改革なんて全くできない。これで立ち直ることなぞできまい」
改革という言葉を掲げた慶喜の言い分を聞いていると、さも瀧山はそれを邪魔する偏屈な人物かのようです。
しかし、瀧山の立場からすれば、以下のように反論したくなるところでしょう。
・慶喜は確かにやる気がない。しかしその言い訳に大奥を使うのはおかしい
・大奥は確かに慶喜を嫌っていた。それは父の斉昭が散々嫌がらせをしてきたからであろう
・むろん大奥のコストカットは大事であるが、それが些細なことに思えるほど幕府での改革事項が山積みだった。大奥の改革だけを訴えても仕方がない
・結局、大奥で嫌われたから、後になって安全なところから悪く言っていませんか?
慶喜には、そう断じられても仕方がない負の実績を重ねています。
最たるものが【鳥羽・伏見の戦い】でしょう。

鳥羽・伏見の戦い(上:富ノ森の遭遇戦と下:高瀬川堤での戦闘)/wikipediaより引用
大坂城で家臣たちには「戦え!」と鼓舞しておきながら、自分だけ戦場から逃げ出し、おめおめと江戸城へ戻ってきた。
合戦の場から、大将が真っ先に逃亡するなんて、歓迎されるわけがありません。
会津藩士から罵倒されるわ。いっそ慶喜を切腹させよう!と言い出すものまで出るわ。挙げ句の果てに、本人は毒殺を恐れて、まともに食事も取れないわ。
当然、大奥も怒り心頭であり「節約のせいで来客用の寝具はありません」として、慶喜は毛布にくるまって眠りました。
そんな慶喜が、瀧山や大奥に対して恨みつらみを抱えている可能性は高く、明治維新後に、批判なき場所から語られた言葉に客観性はないでしょう。
瀧山が一目置かれるような存在だったことは間違いないとも言えるでしょうか。
大奥はなぜ慶喜を嫌ったか?
慶喜の将軍就任を嫌ったのは、なにも瀧山一人だけのことではありません。
大奥の総意であり、薩摩の意を受けた篤姫が一橋派を推そうにも、現実的には困難な状況がありました。
むしろ瀧山や大奥の影響からか、篤姫が慶喜の資質に疑問を抱くようになり、実際、父子の人間性に触れ、呆れるようになった可能性は否定できません。

篤姫/wikipediaより引用
なにせ篤姫の慶喜に対する嫌悪感は、かなり激烈なものがあります。
一橋派は、この国難においては年長で聡明な慶喜こそふさわしいと将軍に推しました。
最愛の子が将軍となれば願ったり叶ったり。
12代・徳川家慶に嫌われ、将軍家に敵意まで募らせていた徳川斉昭にとっては大願成就とも言えます。
斉昭は極端なマッチョイズムの持ち主で「女の園である大奥なんぞあるから軟弱になる!」と、独自のしばきあげ理論を展開。
しつこく嫌がらせのように「倹約しろ」とねじ込んでいました。
子供じみた嫌がらせもしています。
狩猟で獲った獲物を大奥に持ち込み、女性たちが嫌がる様を見て喜んでいたのです。
まるで学校の敷地に小動物の死骸を置くような、ネットスラングでいえば厨二病。
しかも斉昭は、上臈の唐橋を手籠にして妊娠させたのですから徹底的に嫌われ、大奥だけでなく水戸藩内でも女中たちはご乱行に怯えて暮らしていました。
時代劇で嫌がる女性を帯回しする殿様――まさにあれが斉昭とでも言いましょうか。
「わしほどの男に抱かれるのは女の誉れじゃろう! ガハハ!」と脂ぎった自慢を本人がしていたという話もあり、もはや人としてどうかしているレベルです。

徳川斉昭/wikipediaより引用
だからでしょう。家定の母である本寿院は「慶喜が将軍となったら自害する」とまで思いつめていた。
斉昭の意に屈することを想像するだけで、ゾッとするのが大奥の総意だったのです。
13代家定は「慶喜が聡明で美男であったために嫉妬した」なんて話があります。
歴史的に無かったことを証明するのは困難ですが、斉昭と慶喜父子の言動を踏まえていると、彼らが嫌われるのは当然のことでしょう。
父子の愚行を振り返ってみると、滝山からは、女性への暴力に断固立ち上がった勇気ある姿も浮かんできます。
そして、こうした大奥の懸念は、先を予見していたとも言えます。
14代将軍となった慶福あらため徳川家茂は、若いながらも責任感が強く、最善を尽くすべく奮闘しました。
勝海舟は家茂のことを語る時、目に涙が光りました。
生まれた時代がもっとよければ……と嘆いていた。
勝以外の幕臣にとって、実質的な最後の将軍は家茂だったのです。
これは何も幕臣に限らず江戸っ子も同じで、慶喜に対しては「豚や牛を食ってやがる、あの一橋の腰抜けヤロウ」と罵倒する声が聞かれたとか。
瀧山は大奥の終焉を見守ったのか
NHKドラマ10『大奥』でも聡明な姿が描かれていたように、史実の徳川家茂も若いながら立派な人物でした。
しかし、その母である実成院が陽気で酒好きな性格。
大騒ぎするため、瀧山が諫めたと伝わります。

徳川家茂/wikipediaより引用
また、京都から家茂の正室として和宮が嫁ぎ、何かと揺れる大奥を取り仕切って、篤姫をよく支えたのも瀧山でした。
前述の通り、多くの幕臣と同じく、瀧山にとっても最後の将軍は家茂です。
慶応2年(1866年)に亡くなったとき、自身も御年寄職を辞しました。
慶喜の正室・美賀子の贈り物を記録した中に
「慶応3年(1867年)10月、瀧山に白銀20枚等を贈った」
という記録が残されています。
その名目は「下宿」、つまりは永の暇乞い、退職したとあるのです。
瀧山は慶応4年(1868年)の【江戸開城】において、天璋院を説得したとされてきました。
しかし、実際は退職済みであり、そのとき大奥には居なかったことになります。
彼女は大奥を出て、川口で静かな余生を過ごしました。
そして明治9年(1876年)1月14日に没し、享年71。
墓は錫杖寺(しゃくじょうじ)にあります。
晩年、瀧山は養子を迎え、瀧山家を興しました。
現在もその子孫は続き、先祖が遺した史料を保管。
瀧山がいかに重要な役割を果たしていたのか、記されています。
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【参考文献】
別冊歴史読本『天璋院篤姫の生涯』(→amazon)
久住真也『幕末の将軍』(→amazon)
家近良樹『徳川慶喜 (人物叢書)』(→amazon)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
他





