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【シーボルト事件】
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軍事機密である地図の交換は大問題
地図の交換など、現代であれば他愛のないことかもしれません。
しかし、当時は大問題。戦争をする上で重要な情報になるからです。
おそらく、シーボルトにも景保にも、そんな視点はほとんどなかったでしょう。前述のように、シーボルトがプロイセンの密命を受けていたなら話は別ですが。
少なくとも景保は学者としてずっと生きてきた人間ですし、既に「太平の世」となって200年以上もの時が過ぎています。
「戦なんて、今のご時世に起きるわけがない」と思っていてもおかしくはありません。
なお、高橋景保がなぜ“最新”の日本地図を持っていたか?というと、あの伊能忠敬が景保父に弟子入りしていた関係で、景保も地図の完成を手伝ったからです。
そればかりかオランダの書物を参考にして世界地図『新鐫総界全図附日本辺界略図』を作成したりもしています。
しかし、こうして友情の証(?)として交換された地図が、運悪く幕府のお偉いさんにバレてしまいます。
シーボルトが帰国しようとしたとき、荷物を載せた船が難破。
運良く彼自身は無事でしたが、難破した船から海岸へ荷物が流れ着き、その中の日本地図が見つかってしまったのです。
ドイツで地図の写しが見つかった!?
太平の世とはいえ、幕府は元々武士の集まりであり、軍事組織です。
「地図を手に入れた外国人」=「外国の隠密か?」と連想するのに、そう長くはかかりませんでした。
それでも「おとなしくウチの国の地図を返せば許してやんよ」(超訳)とは言ったそうなのですが、シーボルトが「やなこった」(超訳)と断固拒否したため、国外退去および再入国禁止という厳しい処分になったのです。
シーボルトは景保をはじめとした日本の協力者たちに非常に感謝しており、彼らを巻き込みたくないがために、
「一生日本に留まり、人質になってもいい」
とまで言ったそうですが、こちらは幕府が聞き入れませんでした。
景保は疑いが晴れないまま、1829年(文政十二年)に獄死。
シーボルトはのちに許され、1859年(安政六年)に長男とともに再来日しています。
景保……(´・ω・`)
なお、船から見つかったものについては「地図ではなく植物などの標本だったんじゃないか」という指摘もされたりしました。
これに対し2016年7月、「地図の現物」と思われるものがドイツで見つかっています。
「シーボルト事件」で、幕府に没収された地図の写しとみられる地図が7日までに、ドイツの子孫宅で見つかった。
調査した国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の青山宏夫副館長(歴史地理学)によると、シーボルトは事件発覚前に地図を描き写していたと推測され、発見されたのは、それを基に作成された地図という。
日経新聞より引用(→link)
約200年の時を経て、ドイツと日本が古地図で繋がった――って、まさに歴史ロマンの一つですね。
何にせよ、これを火種とした対外戦争にならなくてよかった……ということで。
とにかく高橋景保さんが気の毒でなりません。
死後に裁判が行われ、そこで死罪になっているので、獄死でなくても辛い最期には変わりなかったかもしれませんが……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト/Wikipedia
シーボルト事件/Wikipedia