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【和犬の歴史】
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おつむは束髪「カメ」抱いて
明治時代、西洋風の格好をして気取っている男女を皮肉った「オッペケペー節」が流行しました。
その中に、こんな歌詞があります。
亭主の職業は知らないが。
おつむは当世のそくはつで。
ことばは開化のかんごで。
みそかのことわりカメだいて。
当時の西洋流婦人を皮肉った歌詞なのですが……。
西洋流の束髪にして「カメ」を抱いて――というスタイルを批判されてます。
「亀」ならえーやん……って、それ、どんな状況?と思いますよね。
違うのです。「カメ」は西洋犬のことなのです。
英語圏の人々が「カムヒア!」と愛犬に呼びかける言葉を聞いて、「カメ」というのは犬を指すのだと誤解していたのです。
こうして西洋犬に高い値段がつき、西洋風の名前で可愛がられる一方、日本犬はみすぼらしいとして【駆除の対象】となってしまうのでした。
畜犬規則……飼い主のいない犬は撲殺すべし
ミーハーな人たちだけが、こうした風潮を後押ししたわけではありません。
右にならえで西洋流を取り入れたい政府も、犬の飼育法を変えたいと考えました。
「里犬」という飼育法は、いかにも後進的デアル。
哀れな里犬を駆除して、西洋のように一対一で飼育することこそ、文明開化デアル。
とばかりに「里犬」は、危険で不潔なものとして次第に駆除対象とされていくのです。
明治6年(1873年)、飼い主のいない犬は撲殺すべしという「畜犬規則」が始まりました。
実際、里犬たちは殴り殺され姿を減らしてゆきます。
まさしく日本犬受難の時代。
幕末から維新への動乱において、血を流したのは人だけではありませんでした。
まぁ、駆除にはやむをえない一面もあります。
野犬が人に噛みつく危険性がありましたし、狂犬病の怖さもありました。
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現代のように去勢や避妊が広まっていなかったわけですから、繁殖も野放図であったことでしょう。
ガス灯がともり、煉瓦の建物が建ち、人々がスーツやドレスに身を包む。
文明開化の中には、犬が絶命する鳴き声も含まれていたのです。
戦時供出という大打撃
西洋犬に押され、細々と生きてきた日本犬にとって決定的な大打撃となったのが
【太平洋戦争時の犬の供出】
でした。
2014年の朝の連続テレビ小説『花子とアン』でも描かれましたが、太平洋戦争時の日本では、兵士の防寒具に毛皮を用いるため、多くの犬猫の供出が行われたのです。
空襲が始まると、非常時にパニックになった犬が危険であるという理由も加わりました。
供出された犬は撲殺され、皮を剥がれました。
こんなことしていれば、当然ながら数はドンドン減るばかり。
西洋犬であれば、戦争が終われば原産国から輸入することができます。
しかし、日本の各地で飼育されてきた地犬(じいぬ)の場合は、そんなことできません。
もともと、そこにしかいないのですから、途絶えたらおしまい。
青森犬
越後犬
秩父犬
赤城犬
加州犬
熊野犬
日高犬
高野犬
阿波犬
壱岐犬
上記の犬種はすべて絶滅してしまった地犬で、しかも絶滅犬の一部に過ぎません。
明治維新以降の日本では、西洋犬の増加に重きが置かれすぎて、日本の地犬が決定的な打撃を受けてしまったようです。
こうして歴史をたどると、日本人と犬の関係は、必ずしも良好なものだけではなかったと思えてきます。
しかし過去は過去、現在は現在です。
私たちは犬に対して、もっと優しくなれるはず。
健気な犬とこれからこそ、よい関係を築いていきたいものです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
仁科邦男『犬たちの明治維新 ポチの誕生』(→amazon)