日本史で一・二を争う悲哀な生涯をたどった子供。
それは治承二年(1178年)11月12日に生まれた安徳天皇ではないでしょうか。
源平の争い……というか主に平清盛に巻き込まれ、幼くして亡くなった天皇として有名ですね。
現代の我々からしてもあんまりな人生ですが、当時の人々もそう思っていた節があります。
その生涯をおさらいしてみましょう。
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2歳にならないうちに即位した清和天皇
安徳天皇は、清盛の娘・徳子(建礼門院)が母。
そのため、ゴリ押しによって生後一ヶ月で皇太子となり、二歳にもならないうちに即位しました。
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もちろん実権などあるわけありません。
清盛が平家に都合の良い政治を行うための傀儡だったわけで、実はこの頃にはもう、平家の独占禁止法なやり口に反感を持つ人も多くなっています。
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安徳天皇もまた、成長してからも福原遷都(未遂)で連れ出されるわ、とんぼ返りさせられるわ……清盛に振り回され、源平の争いでバタバタする中で西国へ落ち延びることになりました。
屋島にいた頃には、現在の屋島東町の高台に行宮(あんぐう・一時的な天皇の住まい)が作られています。
ここには今も安徳天皇を祀る神社が建てられていて、近代の皇族も訪れたことがあります。
現在は民家も多く、残念ながら見晴らしが良さそうには見えません。
神社の奥側なら違うかもしれませんが。
祖母と共に入水し最期を迎える
どんなに負けても安徳天皇を手放さなかった平家。
源義経が指揮する【壇ノ浦の戦い】で、結局、祖母の二位尼(清盛の妻・時子)と共に入水することになってしまいました。
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二位尼が「極楽浄土にお連れいたします」というと、安徳天皇は自ら手を合わせ、東(伊勢神宮)を拝し、続けて西に向かって念仏を唱えたといいます。
まだ6歳だったことを考えると……。
成長していたら聡明な君主になったであろう行動ですね(´;ω;`)ブワッ
せめて母の建礼門院と一緒であれば……という気もしますが、建礼門院は自らも身を投げた後、源氏に引き上げられているので、一緒に入水して一人だけ助かっていたとしたら、それも辛い話です。
山口県下関市伊崎町へ流れ着いた遺体は御旅所で安置
ぶっちゃけた話、平家は全滅しても仕方ありませんが、安徳天皇や建礼門院は、送り返すこともできたはずなんですよね……。
名誉が命より重んじられる時代のこととはいえ、皇族を道連れにすることに対して罪悪感はなかったのでしょうか。
少々アレな話になりますが、水死体というのは一度沈んでも、いずれ浮き上がってくるものです。
命の灯火が消えた安徳天皇の体も、流れ流れて現在の山口県下関市伊崎町へ流れ着き、地元の漁師たちによって引き上げられました。
そして”御旅所(おたびしょ)”に一度安置したといわれています。
御旅所とは、神様や神輿の休憩所のことです。
皇室の生まれ=神の子孫ということで、安徳天皇もそういった扱いをされたものと思われます。
グーグルマップでは「赤間関神宮小門御旅所」となっていますね。
文字通り目の前が海なので、この言い伝えにはとても現実味が感じられます。
安徳天皇の異母弟である後鳥羽天皇は、幼くして亡くなった(おそらく)見たことのない兄の霊を慰めるため、下関で”先帝祭”を催しました。
現代まで続いていて、祭りの行列で先頭を務める中島家の人々は、当時、安徳天皇の遺体を引き上げた漁師の子孫なんだそうですよ。
伝統が千年以上続いているだけでスゴイですが、それをずっと同じ家の人が務めているのもまた歴史の重みを感じますね。
ちなみに、安徳天皇は退位しないまま京を去った(拉致された)ため、後鳥羽天皇とは二年ほど在位期間がかぶっています。
後鳥羽天皇がわざわざ”先帝祭”と題したのは、自分が唯一の帝になったことを示したり、兄を敬う意味もあったのかもしれませんね。
さて、平家の落人伝説が全国にあるくらいなので、安徳天皇が落ち延びた説も各所にあります。
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