鳥羽上皇

鳥羽上皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

鳥羽上皇の「長男は実子なのか」問題|院政全盛を終わらせ武者の世を招いた遠因

2025/06/30

上皇や法皇というのは、後世の我々にとってなかなか厄介な存在です。

一般的に「上皇」という言葉が強く意識されるのは「白河天皇(在位1072-1086年)が上皇となって院政を始めた」頃からでしょう。

しかし、厳密に見ると上皇はもっと昔からいて、たぶん皆さんの想像よりもずっと多くおられます。

第44代の持統天皇(在位690-697年→持統上皇)から、ラストとなった江戸時代の光格天皇(在位1779-1817年→光格上皇)まで、ざっと数えて60人以上。

まぁ、当たり前なんですけどね。

天皇を譲位した場合に上皇という称号になりますので、在位中に崩御されなければ自然と上皇になります。

こうした背景を踏まえて、今回見てみたいのが保元元年(1156年)7月2日に崩御された鳥羽上皇の「院政」です。

西暦で見ると在位期間が1107年~1123年で、同年以降、上皇となりました。

鳥羽天皇(鳥羽上皇・法皇)/wikipediaより引用

 


「治天の君」は上皇だった平安末期

実際に政治を行っていた天皇や上皇を「治天の君」と言います。

平安時代末期の院政は、まさにそういった上皇が政治を行う時代。

第72代白河天皇(白河上皇・白河法皇)から始まったこの系統は、次に第74代鳥羽上皇へと引き継がれました。

白河天皇/wikipediaより引用

その前の第73代堀河天皇は体が弱く、29才で在位中に崩御しており、一代飛んで院政が継承されたのです。

今回は、白河上皇の次の次である鳥羽上皇以降の院政を見て参りましょう。

治天の君・補足

・天皇が政治を行うと→親政

・上皇が政治を行うと→院政

※ちなみに上皇が出家すると法皇になります(宇多法皇以降)

 


妻は藤原璋子

まずは当時の天皇の流れを見ておきましょう。

※(  )内は天皇としての在位期間

第72代 白河天皇
(1072-1086年)

第73代 堀河天皇
(1086-1107年)

第74代 鳥羽天皇 ←今回の主役
(1107-1123年)

第75代 崇徳天皇
(1123-1141年)

第76代 近衛天皇
(1141-1155年)

第77代 後白河天皇
(1155-1158年)

第78代 二条天皇
(1158-1165年)

二条天皇から下以降は、源平の戦いと絡む話になってきますので、ここでは割愛。

鳥羽天皇は康和五年(1103年)、堀河天皇の第一皇子として生まれ、その年のうちに皇太子となりました。

『歴代尊影』堀河天皇/wikipediaより引用

幼いうちに父帝が亡くなって即位したため、祖父・白河上皇が院政を続け、その後見を受けて育ちます。

后妃の選出にも白河上皇の意思が反映されており、鳥羽天皇が14歳のときに権大納言・藤原公実(ふじわら の きんざね)の娘・藤原璋子(しょうし・待賢門院)を女御とし、翌年には彼女を皇后にしました。

受験生の方は、璋子の名前がテストに出ることはあまりないかと思いますが、藤原道長の娘・藤原彰子と字面が似ているので、少々注意したほうがいいかもしれません。

まぁ、時代が全く違うので「どの天皇の時代なのか?」ですぐにわかります。

・一条天皇や紫式部が絡むなら“彰”子

・院政や鳥羽天皇の名前が出てくるなら“璋”子

「ショウ」の字をキッチリ把握しておきましょう。

鳥羽天皇と璋子の夫婦仲は悪くなかったのですが、璋子は白河上皇のお気に入りでもありました。

これが後々、火種を生むことになります。

 

崇徳天皇は4才 近衛天皇は2才で即位

鳥羽天皇と璋子、二人の間には間もなく皇子が生まれました。

後の崇徳天皇です。

父である鳥羽天皇が健康であれば、特に皇位継承を急ぐ理由はありません。

しかし、白河上皇はひ孫となる崇徳天皇の即位を異様に急がせました。

崇徳天皇/wikipediaより引用

崇徳天皇が4歳のとき、鳥羽天皇から譲位させてしまったのです。

これでは「皇位の安定」の他に何らかの恣意があった……と思われても仕方がありません。

ただ、孫である鳥羽上皇は、絶大な権力を持っていた白河法皇に逆らいきれません。

問題は、白河法皇が崩御してから表面化します。

この時点で崇徳天皇はまだ10歳なので、実父である鳥羽上皇が院政を引き継ぎました。

やっと好きに政治へ取り組めるようになった鳥羽上皇は、白河法皇の方針を否定するような動きを見せ始めます。

政治的トラブルにより、宇治で隠居謹慎していた璋子の父であり前関白の「藤原忠実(ふじわら の ただざね)」を復帰させたり、その息子である藤原頼長を重用したり、その一方で璋子を遠ざけたり……。

また、白河法皇の側近(院の近臣)だった権中納言・藤原長実の娘である得子(美福門院)を女御に迎えて、後に近衛天皇となる皇子をもうけました。

そして近衛天皇に皇位を継がせるため、鳥羽上皇は崇徳天皇を強引に譲位させています。

『歴代尊影』近衛天皇/wikipediaより引用

このとき、近衛天皇は2歳。

とんでもない年齢で即位しておりますね。

 


崇徳上皇にはどうしても実権を与えたくない

同じ年に鳥羽上皇は落飾(らくしょく・仏門に入ること)して法皇となり、院政を続けます。

そして近衛天皇が現職のまま16歳の若さで崩御すると、今度はその異母兄にあたる雅仁親王(後白河天皇)を皇位につけさせました。

後白河法皇/Wikipediaより引用

生まれ順と即位順がずれているのでわかりにくいですが、鳥羽法皇からするとこうなります。

長男・崇徳天皇(1123-1141年)

九男・近衛天皇(1141-1155年)

四男・後白河天皇(1155-1158年)

だいぶムチャクチャな継承順ですが、こうなったのもいくつかの要因がありました。

・近衛天皇に皇子がいなかった

・鳥羽法皇が自分の息子に皇位を継がせたかった

・何が何でも崇徳天皇の系統が続くことを避けたがった

また、院政には「当代の天皇が“直系の子や孫である場合”に、上皇・法皇が後見する」という建前がありました。

明文化されていたわけではなく、そういう慣例があった。

つまり、兄弟ではできない。

異母弟=年が近い近衛天皇や後白河天皇の代に、兄の崇徳上皇が院政を執るというのは難しいんですね。

となると鳥羽法皇が実権を握り続けるわけです。

 

なぜ鳥羽法皇は崇徳天皇を嫌った?

崇徳天皇は、我が子である重仁親王の立太子を夢見ていました。

そのため不本意な譲位の後も、後白河天皇が即位するまで望みを捨てず、歌会を開いて西行などの歌人と交流したり、詞花和歌集の編纂を命じたりして待ちます。

この時点では、重仁親王が鳥羽上皇の寵妃・美福門院の養子となっていたため、まったく不可能な話ではなかったのです。

しかし、美福門院にはもう一人守仁親王(後の二条天皇)という養子がいて、その父が後白河天皇でした。

「存命中の父を飛ばして皇統が継がれる」というのは望ましくないため、後白河天皇が中継ぎのような形で即位した……という一面もあります。

というか、なぜ鳥羽法皇はそんなにも崇徳天皇を嫌ったのか?

実はその理由が不明でして。

あくまで俗説ですと

「崇徳天皇が生まれる前から、母親である待賢門院・璋子は白河上皇に寵愛されていたため、鳥羽上皇は崇徳天皇を自分の子供ではないと思っていた」

からだとされています。

鳥羽上皇が崇徳天皇を「叔父子」と呼んでいた……なんて話もあります。

 

崩御後に崇徳上皇の不満が噴出

事が事だけに正史扱いはされていない説ですが、他に取り立てて理由がないんですよね。

また、この話が当人たちとほぼ同時代~鎌倉初期にかけて成立した『古事談』という書物に出ていて、時代もさほど離れていないため、全く根拠がないわけでもなさそうなのがなんとも……。

もしかすると「鳥羽法皇は長子であるはずの崇徳天皇に異様に冷たい」ということから、想像を膨らませた人がいたのかもしれませんけど。

いずれにせよ、鳥羽法皇の崇徳天皇に対する冷遇が酷かったことは変わりありません。

途中までは少なくとも表向きつくろっていたのですけれども……。

かくして法皇の蒔いた種は、良くないカタチで残りました。

病によって保元元年(1156年)7月2日に鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇の不満が噴出。

それが【保元の乱】の要因の一つとなり、歴史に大きな動きをもたらすのです。


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【参考】
国史大辞典「鳥羽天皇」「崇徳天皇」

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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