竹中半兵衛重治

竹中半兵衛/wikipediaより引用

豊臣家

竹中半兵衛の生涯|官兵衛と並ぶ“伝説の軍師” 数々の功績の真偽に迫る

戦国時代における天才軍師といえば?

武田信玄の懐刀・山本勘助は……天才と言うよりもっと土臭い、野生なイメージでしょうか。

太原雪斎も、天才というより僧侶ならではの老獪な策士という感じですし、この両者よりも比較的「天才」に近いのが黒田官兵衛ですかね。

しかし、他ならぬ大河ドラマ『軍師官兵衛』で、彼よりもっと「天賦の才」という言葉に近い武将が出ておりました。

そうです、竹中半兵衛(重治)です。

ドラマに限らず、数々の小説やマンガ、ゲームの中でも「白皙(はくせき)の名軍師」とされ、黒田官兵衛に並び称される名将として描かれますが、一方で、実際は意外と地味という評価も聞かれたりします。

いったい史実の竹中半兵衛とは、どんな人物だったのか?

天正7年(1579年)6月13日が命日となる、その生涯を振り返ってみましょう。

竹中半兵衛/wikipediaより引用

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竹中半兵衛の出自は美濃土豪

天文13年(1544年)。

竹中半兵衛(本稿はこの名で統一)は、美濃国に誕生しました。

父は大御堂城主・竹中重元。

母は妙海大姉(杉山氏)。

竹中氏は、本姓桓武平氏の鎌倉氏庶流とされていて、室町期は美濃守護である土岐氏の家臣でした。

本拠は大野郡大御堂城で、半兵衛もそこで誕生。

天文14年(1545年)に父の重元が岩手弾正を攻略すると、以降、菩提山城(岩手山城)に本拠を移し、半兵衛もこれに従いました。

竹中重元は、天文年間(1532-1555年)に土岐氏が没落すると、代わって台頭してきた美濃の斎藤氏に仕えます。

そして永禄3年から5年(1560-1562年)頃に、父の死を受け、家督を相続することになりました。

 


稲葉山城乗っ取り事件

永禄7年(1564年)、現代まで竹中半兵衛の名を驚異的に高めた出来事が起こります。

稲葉山城乗っ取り事件です。

難攻不落として知られる斎藤氏の稲葉山城(後の岐阜城)/Wikipediaより引用

これは一体、どういう顛末だったのか?

当時の状況から説明して参りますと、半兵衛の主君・斎藤家当主は、その3年前の永禄3年(1560年)に家督を継いだ斎藤龍興でした。

この龍興、政務に無関心なばかりか、要となる美濃三人衆や半兵衛ら家臣を遠ざけていました。

◆美濃三人衆
・稲葉一鉄
・安藤守就
・氏家卜全

尾張の織田信長が圧力を強めており、やる気を失ってしまったのです。

そこで半兵衛は過激なやり方で「喝」を入れることにしました。

他でもありません。舅の安藤守就と共に居城・稲葉山城(のちの岐阜城)を攻略するというもの。

わずかな手勢で城を乗っ取ると、半兵衛はその城を龍興に返し、近江の浅井長政を頼って辞去したともされます。

実際は、斎藤龍興の反撃に遭い城を出ています。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用

半兵衛は、領土欲や野心の薄い人物とされることがあります。

そのイメージはこうした行動が元になっていると思われますが、いかんせん潤色じゅんしょくされた逸話ですので、本当に無欲だったかはわかりません。

ただ、能力が高かったことだけは間違いないでしょう。

龍興が織田信長に破れたあと、浅井長政の客分となり、1年後の永禄11年(1568)には旧領に戻って隠棲しました。

 

信長、そして秀吉に仕える

隠棲したからと言って有能な竹中半兵衛が放って置かれるわけもありません。

美濃を攻略した信長は、半兵衛に仕官して欲しいと持ちかけます。

織田信長/wikipediaより引用

ただし、彼が本当に伝説的な軍師だから――そう見做すことにはちょっと注意が必要です。

半兵衛の経歴について気になるのが三国志や関連作品でお馴染み「諸葛亮」の存在です。

「三顧の礼」で誘われたとか。

半兵衛が信長より秀吉の方が優れていると見込んだとか。

諸葛亮と劉備の話をトレースした流れで盛られる傾向にあり、そのへんはあくまでフィクションとして楽しむほうが良さそうです。

ぶっちゃけると創作ですね。

実際には、豊臣秀吉の家臣として信長の支配下に入る「与力」扱いでした。

絵・富永商太

無論、半兵衛は優れた人物ですが、浅井長政と対立している信長にとって、敵に近い人脈を持つ将は、それだけで魅力があったのは確かでしょう。

実際に半兵衛は、浅井人脈を活用した調略を行っています。

スーパー軍師像があまりに輝かしいため、かえって実像が見えにくいのですね。

変な言い方ですが、半兵衛はごくごく有能な「武将」です(そもそも軍師という言葉は後に作られたイメージの職です)。

 

秀吉配下の「両兵衛」

竹中半兵衛は、秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、その家臣として中国に向かいます。

天正6年(1578年)には、宇喜多氏の備前八幡山城攻略で功績。

このころには、同じく秀吉の家臣であった黒田官兵衛孝高とも親しくするようになりました。

黒田官兵衛/wikipediaより引用

秀吉配下の「両兵衛」とは、この半兵衛と官兵衛をさすことは、よく知られています。

・名前も似ている

・どちらも有能な軍師

そんなわけで、二人はコンビ単位で扱われるわけです。

しかし、くどいようですが、両者とも活躍はかなり誇張されている。そこは考えるべきでしょう。

 


村重に投獄され苦しむ官兵衛

両兵衛が親しかったことは史実です。

二人の交流における最大のクライマックスは、大河ドラマ『軍師官兵衛』でも盛り上がる荒木村重の謀叛でしょう。

荒木村重/wikipediaより引用

村重が有岡城に立て籠もり、信長に対して謀反を起こした際、黒田官兵衛はその説得へ。

しかし村重に捕縛された挙げ句、牢獄に幽閉されてしまいます。

投獄され苦しむ官兵衛。

団結する家臣団たちや家族の姿は、フィクションでも大きな見どころとなっています。

大河ファンの方でしたら、今なお栗山善助や井上之房、あるいは母里太兵衛、後藤又兵衛の顔などが浮かんでくるでしょうか。

官兵衛との連絡が途絶えた信長は、彼が裏切ったと激怒します。

そして官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を殺せと秀吉に命じたのです。

 

「偽首」で松寿丸の命は救われた

このとき竹中半兵衛は、信長の首実検に「偽首」を差しだしました。

要は別の少年の首が差し出され、松寿丸の命は救われたのであり、半兵衛が自領に引き取って、家臣の不破矢足の屋敷で匿いました。

しかし、です。

その翌年の天正7年(1579年)4月、半兵衛は病に倒れ、陣中で没します。

享年36。

後に、有岡城が陥落し、ようやく土牢から解放された官兵衛は、半兵衛に感謝の念を示したとされます。

荒木村重の籠もった有岡城(伊丹城)

感謝してもしきれない。まさに黒田父子にとって命の恩人でした。

半兵衛亡き後の同家は、嫡子の竹中重門が継ぎました。

重門は、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、江戸幕府では旗本(交替寄合席)となっています。

半兵衛が助命した黒田長政が大大名となったことを考えると、少し寂しいと言えるかもしれません。

黒田長政/wikipediaより引用

これは能力の差というよりも、半兵衛の死が早すぎた影響もあるのでしょう。

やはり、もっと長生きして采配を振るって欲しかった――そう思わせる人生なのでした。

 


秀吉あっての半兵衛像

フィクションの華々しい軍師像を削ってゆくと、竹中半兵衛の人生は、秀吉の影に隠れてしまいがちです。

彼の活躍をつきつめてゆけば、結局のところ、秀吉がいかに優れていたか、ということにつながります。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

半兵衛のものとされている戦果の最終決定者も実行者も、ほとんどが秀吉なのです。

秀吉という日輪の影を反射して輝くのが半兵衛。

もしも彼が長生きしていれば、黒田官兵衛のようにもっと活躍を残すことができたでしょう。

稲葉山城を乗っ取り。

信長に若くして請われて仕え。

秀吉が常に戦場で側におき。

そして『信長公記』にもその死が記載されたということは、やはり優れた人物であるという証です。そこは否定できません。

彼の事績であり、人柄がわかる行動としては、やはり黒田官兵衛・長政父子を救ったことではないでしょうか。

危険を顧みないその行動は十分賞賛に値するもの。

大河ドラマ『軍師官兵衛』でも、その熱い友情と交流が描かれました。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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