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【『べらぼう』感想あらすじレビュー第9回玉菊燈籠恋の地獄】
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瀬川に千両の値がついた
蔦重にしては足取り重く、忘八親父どもの集う二階へ向かうと、何やら盛り上がっているではありませんか。
『光る君へ』では、壺に矢を投げ入れる「投壺」(とうこ)で遊ぶシーンがありましたが、今回は「投扇興」(とうせんきょう)をやっている親父がいますね。
中国、韓国、北朝鮮では残ったものの、日本の「投扇興」は明治以降に廃れます。
それにしても、なぜ盛り上がっているのか?
というと、どうやら瀬川の身請けが決まりそうとのこと。いねの口から鳥山検校の名が出てきます。
江戸でも指折りの金持ちだ、身代金はいくらだとさらにその場が湧き立っておりやす。
すると、いねが扇を投げながらこうだ。
「千両!」
気持ちとゲームが重なっておりやす。
禿のころから育て上げ、千両で身請けとなりゃ、女郎双六のあがりとしちゃ上々だもんな。
りつが瀬川の気持ちを確認すると、いねは乗り気だと返します。
「裏を返せば、検校ってことが気にならないくらい、男としていいってことだろ」
そうなんですよね。市原隼人さんだもんな。この配役が見事で、たとえば昭和だったらもっと違うかと思いやす。
往年の俳優ならば金子信雄さんあたりじゃねえか?と、それを敢えてそうしないことで、検校の特性が返って強まっているとも思うんです。
駿河屋は動揺する重三に気づき、話があったんじゃないか?と促しますが、出直してくると誤魔化す蔦重。
さて、しかし、誤魔化しきれていますかね。
蔦重が暗い顔で蔦屋へ戻ってくると、次郎兵衛の調子の外れた歌声が聞こえてきます。
三味線を弾いて大声で気持ち良さそうだな!
しかし、演じる中村蒼さんは歌うことが苦手で、本当に大変だそうですぜ。つっても下手くそな役回りだけど、それにしたって羞恥心の克服ってもんがやっぱあるんだろうな。
いや、ほんと、感動的なぐらい良い塩梅の下手くそなんですよね。ここまで下手で堂々と歌えるっつうのがすげえ!「ジャイアンリサイタル」呼ばわりも納得です。
映像化作品だとこういうのは上方修正されがちですしね。
たとえばシャーロック・ホームズのバイオリンは、原作では下手はなずが、映像化されるとそこそこ上手いことが多いもんです。
しかし、これを聞いて付き合う新さんはえらいよ。いや、仕事場でこれを聞かされる留四郎が災難だ。
蔦重がやってくると、安堵したように立ち上がる新之助。やっぱつれぇよな。
次郎兵衛の三味線には「付き合わなくていいっすよ」と蔦重が言うと、新之助が真剣な顔で「身請けにはいくらかかるのか?」と尋ねてきました。
思い詰めた様子の新之助と共に蔦重が外へ出ると、その後、ややあってから己の唄と三味線を聞く者がいないことに次郎兵衛は気づくのでした。
金がない者、金では買えないもの
「三百両……」
川縁でそう聞かされ、思わずどさっと腰を下ろしてしまう新之助。
蔦重が、なぜ急にそんなことを……と不思議がっていると、うつせみが新之助に会うための花代を稼ごうとして、おかしな客を取っていたことがわかりました。
腕に自分の名を彫り込み、彼女が痛がる様子を楽しんでいるとか。それでもう、うつせみは全身傷だらけなんだそうで……。
なんて野郎だ……んなもん羅切(※意味は各自お調べください)にしちまいな!
だから勤めをやめさせたいと、新之助は考えたんですね。
そのふてぇ客はうつせみを自分のモノにしたい。新之助はそんな客からうつせみを守りたい。
しかし、三百両とは、金のない男にとってあまりに非現実的な数字。身請けなど夢のまた夢と絶望しています。
「つまるところ、花魁にとって、金のない男の懸想など幸せになる邪魔立てでしかないということかもな」
「そうっすねえ……」
そう語るしかない男たち。
目の前を流れる水面がキラキラと照り返してきて、人間はなんとちっぽけなのかと思えてきます。切ねえ。もう本当に切ねえ。
瀬川に、禿のあやめが赤本を差し出してきます。
「これはまだ取っとくのでありんすか?」
「わっちが初めて男からもらった贈り物でござんしてなぁ。納めといて」
あの『塩売文太物語』でした。
鳥山検校がどれだけ美しく高い簪や錦を山ほど贈ろうとも、この本一冊にはかなわない。
これを送った男は金がないことに絶望しておりますが、金ではどうにもならないものもあるのです。
己の恋に気付いた蔦重は
九郎助稲荷の前で、瀬川を認めて蔦重がニカッと笑います。
そういや先日、「横浜流星さんではなく、別の売れっ子役者主演で見たい」という本作の叩き記事があったんですけどね。こりゃむしろ吉兆だと思うんすよ。
そこで挙げられた役者が松重豊さんだったら、なんだかすごい変わった思い入れのある方で、「いいからおめえさんは『孤独のグルメ』でも見てな」となるんすけどね。
あがった役者が『おんな城主 直虎』で井伊直政を好演した菅田将暉さん、そして『豊臣兄弟』主演の仲野太賀さんだったんですよ。
んなもんおめえ、大河ファンへの目配せバッチリじゃねえですか。
大河ファンのPVを稼ぎたい気持ちはわかった。
でもそんだけすよね?
私は横浜流星さん以外、ありえねえと思っておりやす。
彼の蔦重は、歌川国芳の描く江戸前の男みたいに見えるんすわ。役者絵や武者絵よりも、団扇絵のリラックスしたイケメンですね。
浮世絵って、昔はリアリティが全然ないなぁと思っていたものですが、よい時代劇を見ているとハッとさせられます。
表情やなにやら、ピタッと浮世絵と重なる。
こういう魅力的な人間がいて、それを描いたものだと納得できるのです。
横浜流星さんの蔦重もまさにいそう。
彼は江戸っ子の持つ生命力が、魅力そのものが、顔や所作に滲んでいる。まさに適役だと思いやすぜ。

『通俗水滸伝豪傑百八人之一個 浪裏白跳張順』歌川国芳/wikipediaより引用
瀬川はそんな蔦重のわざとらしい笑顔を見て「気味悪いね」と呟きます。
瀬川の隣に腰を下ろし、またわざとらしく笑う蔦重。そして身請けの話を持ち出します。
「その身請け、断ってくんね? へへっ」
「は?」
そう持ち出され瀬川が驚くと、素直になれねぇ蔦重は地本問屋と揉めたと言い出します。
『吉原細見』を吉原だけで捌くためにも、瀬川がいなくなると困ると言います。
「この間は身請けされて幸せになれって言いんしたかと」
そう怒りを滲ませる瀬川。そりゃそうなるよ。
それを認めつつ、こんなに早いとは思わなかったと蔦重。
呆れてため息をつく瀬川。
「それに……検校で手ぇ打つことないんじゃねえか?」
「鳥山様は素敵な方でござんすよ。男ぶりはいいし、品もいいし、何より、お優しいし」
この会話は重要です。
蔦重は「検校」という相手の属性。
それに対し瀬川は「鳥山様」と個人を持ち出しています。
ヒルなりの言い分
蔦重は、目が見えないから世話が大変だと指摘します。
目の障害を問題視しているわけですね。しかし瀬川はそれに対し、お側役がおられんすと返す。
徐々に本質へと話が向かってゆきます。
「それにまるで見えているかのように動かれるのでありんすよ。顔も見えぬのに人の機微も察せられんす……それこそ目あきの男の倍も、百倍も」
こう瀬川が語りつつ腰を上げる。
振り返るとき、目が開いていても鈍い蔦重への嫌味がチクリと滲んでいます。
それに対し蔦重は「お前……惚れてんのか?」と最悪の答えを返してしまう。
「……かもしれんせん」
呆れ果てて足早に去ろうとする瀬川。
その背中に蔦重は立ち上がり、語りかけます。
「おい……江戸中の笑いもんになんぞ! お前にどんだけいい顔してんのか知らねえけど、あいつらクズ中のクズだぞ! お上の情けをいいことに葬式まで押しかけて毟り取ってその金貸して大儲けする。この世のヒルみてえな連中だぞ!」
瀬川はキッと振り向いていう。
「あんただって、わっちに吸い付くヒルじゃないか! 河岸のために五十両取ってこい。今だって客呼ぶために身請けを蹴れっていう。わっちに……客を取り続けろって言う! 同じヒルなら、まだよそ様に吸い付いてくれる方が愛らしいってもんさ!」
何も言い返せない蔦重。
さて、ここで悲しい“ヒル”の話をしましょう。なかなか難解ですね。
蔦重のいう「お上の情け」とは、徳川家康が当道座に対して約したことです。
盲人組織である当道座の歴史は室町時代まで遡る。
江戸幕府が開かれると、土屋円都という検校が家康のもとまでやってきました。
彼は家康が今川家に人質としていた頃に近侍していた縁があり、それを頼りに家康に当道座の庇護を頼み、認められた。
これが「お上の情け」でやんす。
家康の側室で秀忠の母にあたる西郷局も視力が弱く、盲人庇護に熱心で、家康に影響を与えたともされます。
『どうする家康』ではレーシック手術でも受けたかのように、その設定が消えたのは惜しまれることでした。
しかし、この「お上の情け」ってえのが、半端ねぇんすよ。
農民は年貢がある。町人は労役がある。当道座はこれを免除されています。
さらに当道座の者が遠出するとなると、集落では出迎え、泊めて、次の目的地へ送り届ける義務まで生じる。
このあたりまではまだ福祉の範囲、お情けということで納得できたでしょうなァ。
しかし、ここから先がどうにも過剰に思えたようでして。
彼らには「高利貸し」の特権まで与えられました。
そこで、ありえないほどの利子をつけ、それこそ葬式だろうが乗り込んで取り立てる。相手が首をくくろうがお構いなし。
なぜそんな横暴が罷り通るのか?というと、相手が文句をつけてこようもんなら「東照大権現のお墨付きだぞ!」と強行できた。天下御免ってやつだな。
徳川吉宗の時代あたりまでは、米を中心に経済が回っていたからまだ被害も抑えられていました。
かつて吉原で金にものを言わせ、名花を手折る悪党といやぁ、伊達騒動の主役こと伊達綱宗のような大大名。
二代目高尾太夫の強引な身請けは一悶着起こしたもんです。

月岡芳年『月百姿』に描かれた2代目高尾太夫/wikipediaより引用
それが貨幣経済が浸透して、何もかもが「金! 金! 金!」という田沼政治の時代になると、当道座の者たちはますます顔がでかくなります。
特に10代・徳川家治の時代は、吉原に出入りする盲人が一番多かったともされます。
検校がうなるほどの金を持ち、かつ憎まれるのは、田沼時代を説明するうえで大変重要な要素となってくるんですね。
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