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【『べらぼう』感想あらすじレビュー第9回玉菊燈籠恋の地獄】
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MVP:いねと松葉屋半左衛門
先週、忘八にスカッとしておいて、それを全力で撤回したくなるほど厳しい回。
ただ、松葉屋は若干、妻ほど厳しくないという個性が出ておりました。
彼は先代がいて、生まれながらにして忘八になる定めだったんでしょうね。これはあの次郎兵衛にも言えることです。
次郎兵衛みたいなバカボンが、どうすりゃ駿河屋を継げるのか?
その答えが松葉屋夫妻にあります。
しっかり者の妻を娶り、引き締めにかかるしかないですな。商売の表も裏も知り尽くした、それこそ女郎出身がよいのかもしれませんぜ。
実は初回から、松葉屋夫妻は「妻が実質的に仕切っているのではないか?」と予感していました。
今では抜け目ない半左衛門も、若い頃はぬぼーっとしていたのかもしれません。
半左衛門は残酷なようで、花魁を妻にしたということは、彼女がどれだけ命をすり減らしたか理解しています。
そこにも大きなドラマを感じるんですよね。
いねも、きっと仲間の女郎たちが酷い目に遭う様を見聞きして、色々考えてああなったんだと思います。
花を生けながらそれを瀬川に語るという状況が秀逸で、彼女にとって女郎は花のようにも思える。
しっかりと綺麗に見えるように飾ろうとして、鋏を入れて、ときに枝も落として、そうしていかねばならない。
花魁を辞めても吉原にとどまり、憎まれ役にならねばならない覚悟と矜持を感じました。
松葉屋は女郎の扱いが良い方なんですよね。
食事内容がしっかりしているし、明るい場所で蔦重の本の貸し借りをさせている。
瀬川に語りかけてくる口調も、やさしさを感じさせます。
かぼちゃを食わせて節約しているドケチの大文字屋と比較するとわかりやすいでしょう。
一緒くたにされてきた忘八たちも、個性や濃淡が見えてきましたね。
色々と考えていると、ドケチ大文字屋にいながら、蔦重の袖を平気で引っ張っていた“かをり”のことなんて思い出して、不安になってもくるんですが……。
忘八をまとめて疎んじていた頃が、すっかり遠くなっちまった。
なんてこったい。
総評
ジックリ見ていくと、わかってくることが多いこのドラマ。
己の未熟な知識も恥ずかしくなってきたり、新鮮な喜びも味合わせてくれます。
今週の予習にと、講談「玉菊燈籠」を聞きました。
最初はなんだか古臭えな、講談だしな、と思っていたんですが、聞き進めるうちにどっぷり浸かって、気がつけば洟を啜っていました。
江戸時代の文化や歴史は、古臭いようで、拭ってみると光がさんさんと差し込んでくる。そういう新鮮な喜びがあるんですね。
今回も、あらすじだけ読めばベタだし、古臭いし、瀬川の言葉じゃないけど、馬鹿な話に思えます。
足抜けの無計画ぶりも無様といえばそうだし、幸せにすると断言したときの蔦重は頭空っぽなんですよね。
でも、そういうところもひっくるめて、この話を否定できますか?
自由ってなんだ。愛とはなんだ。恋とはなんだ!
そういうシンプルな問いを突きつけてきます。その今では当たり前のことが、この時代はそうではなかったのだと。
とはいえ、歴史の針を巻き戻してみると、それこそ戦国乱世では当たり前ではなかったことを、この時代の人は享受しています。
衣食住。
殺されない権利。
読み書き。
知識を得て、書物を読み笑えること。
権利は拡大しています。
それでも「我儘」に生きたいと平賀源内はいう。
米から銭へ変えていかねばならないと、田沼意次はいう。
そうやって歴史を変えた先に私たちはいる。
この『べらぼう』の時代に生きた人々が、変えていかねばならないと思い切った時代の末尾に、私たちは生きているんじゃないかと今週は痛感しました。
現実世界で、ひとつの時代が終わろうとしているではないですか。
毒のある男らしさの終焉へ
蔦重と新之助、瀬川とうつせみ、いねと半左衛門。
今回は男女の対比が鮮やかでして。
どの組み合わせも、実は男の方が弱い。
蔦重と新之助は、自分では愛する女をどうしようもできないことが情けなくて、悲しくてたまらない。
彼らは時代の犠牲者といえる。
時代の犠牲者は吉原の女郎だけではないということを、本作は突き付けてきます。
ただでさえ儒教文化圏は女児の間引きが多く、都市部は男女比が歪みがちです。そのため機会的同性愛が増加し、小話でも恐妻ジャンルが成立する。
江戸の場合、これが極端に出ています。
新興都市である江戸は、極めて男女比が歪でした。
田舎から次男以下が食い扶持を求め、わずかな可能性を見出したくて街に出てくる。妻を娶るなんて大変な幸運ですから、それこそ“女房の尻に敷かれる”となるわけでして。
成人の男女が結婚して子を持つことが当然となるのは、人類史でも近代以降の話ですから、この時代の先ですね。
新之助とうつせみが『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』を見たら、なんて素晴らしい世界なのかと目を輝かせることでしょう。
きっと、私たちは、昔の人からみたら理想的な世界に生きている。
そう言いたくなるようで、今を生きる立場からするとそうともいえない。
むしろ、失ったものがあるのではないかと思えてきました。
今回の男は本当に無様で。
あんなに力強く瀬川と一緒になるといった蔦重は、結局何もできやしない。杜撰な足抜け計画しか立てられません。
その計画を先行した新之助は、何もかもが無様でした。
追っ手がきて刀を抜いても、即座に捕まってしまう。心中しようとしても、刀の先がちょっと腹に触れただけで「痛っ!」と声をあげてしまう。
物語のように美しくなくて、ただただ情けない、等身大の男がそこにいました。
でも、私たちの先祖って、こういう情けねえ男が大半だったと思うんです。
それがどこで変わったのか?
近代以降の日本というのは「極端に美化した武士道」を民に叩き込んできました。
武士のように潔く散れと思い込んだ結果、断崖絶壁から飛び降りたり、手榴弾で死を選ぶ庶民が続出したわけです。
そういう苦い経験があるから、アメリカ占領時は日本史ものの作品は禁止されたこともあります。
禁止するまでもなく、しばらくは武士道に対し懐疑的な作品が多かったものです。
それが時代がくだり、戦後80年ともなると、民放からはとぼけた男が出てくる時代劇はなくなる。
大河ドラマは戦国幕末ばかり。
なんなんでしょうね。『青天を衝け』は、幕末の志士にしては幼稚で「胸がぐるぐるする!」なんて決め台詞にしていたし。
『どうする家康』もグニャグニャで。
そういうダメ男でニチャニチャしたコメディをやりたいなら、なぜ戦国幕末にするのか。
時代劇でも弱くてダメな男を描きたいなら……そうだ、江戸時代中期の江戸っ子でいいんじゃねえか? そう方向転換したんじゃないですかね。
そしてこれが、ピタッと時流にハマった、そういう奇跡を見る思いがしています。
先日、トランプ大統領が投稿した「トランプ・ガザ」ビデオが世界中に衝撃を与えました。
そのあとのトランプ大統領、ヴァンス副大統領が、ゼレンスキー大統領を攻撃するような会見も、おそろしいものがありました。
でもこの流れには、一本線が引けると思うんですね。
ガザのビデオでは、金・女・うまいメシ・地位がドーンと前面に出ているんです。本能的な、いかにも資本主義的で脂ぎった男の欲望がそこにはありました。
『仁義なき戦い』の山守親分級の欲求ですね。マブいスケがいたらすかさず触り「ええケツしとるのぉ〜」とニヤつくみたいな話よ。
でも、本当に心底、女性の臀部を触りたいからそうしているのでしょうか?
私には、ああした行為が有害な男らしさ(トキシック・マスキュリニティ)そのものに思えるんです。
ヴァンスは特に極貧から成り上がったぶん、トランプより強烈に見える。
強いと言いたいがために、勝てる相手を見出して踏みつける。札束をばらまき、ねえちゃんのケツを揉みしだく。
そんなことをして意味はあるんですかい?
本当にそうしたいわけでなく、何かの強迫観念でしているんじゃねえですかい?
そういう男性の弱さに寄り添って「格好悪くて弱くてもいいんだぜ」と言えることが今求められている気がするんです。
どこで人類はそういうことを忘れたんだろう?
近代から現代へ向かう中、誰もが役に立つ存在にならねば、と効率を求めてそうなっちまったんじゃねえかと。
今回の弱くて情けねえ男を見ていて、ずっと洟をすすりっぱなしでした。
情緒が大渋滞を起こしてぶっ壊れるんじゃねえかと思いました。
この作品は女の苦しみに目を向けるだけでなく、男の弱さをも認めている。
得難い作品ですよ。
武士ローテーションじゃア、こうはいかねえ。大河は新時代に入りやしたぜ。本当にありがてえことだよ。
追記:大河ドラマ関連のよいニュースと悪いニュース
2024年大河ドラマ『光る君へ』の電子版シナリオ集が発売されました。
紙だと分厚くなるものも電子ならば簡単にできる。そんな新時代に沿ったことで、めでたいですね。
吉高由里子さんはドラマアカデミー賞で主演女優賞を受賞しました。
おめでとうございます。まさしく大河ドラマの新時代到来。
そして、今からこういうことを言うのも何ですが、来年の『豊臣兄弟』はどうにも時代とそぐわなくなって、失敗する可能性が見えてきています。
これも現代社会の状況が関係しています。
豊臣氏は東アジアでは評価が最低です。
理由もなしに戦争を仕掛けたのですから当然でしょう。そういう豊臣氏を礼賛する作品は、時勢にそぐわない。
一方で江戸時代は、ゼロどころかマイナスからスタートした外交秩序の回復から始まり、成功をおさめているといえる。
周辺諸国との外交が成功していたこの時代は、再評価に回帰していくと思われます。
『3ヶ月でマスターする江戸時代』に出ている先生方の本も、どっさどっさと売れて読まれていただきたい。
その後の明治以降は、近代化に成功したようで、外交的には失敗しているといえる。
例えば幕臣は、英露の展開する「グレートゲーム」に巻き込まれることを回避し、フランスとの提携を選びました。
長期的に見るとこれが正解だった。
しかし、実際の明治以降はロシアの脅威を警戒しつつ、イギリスの真意を伺い、次第に泥沼に突っ込んでいくわけです。
それもこれも、元を辿れば幕臣ほど慎重ではない「志士」たちが、倒幕というエサをチラつかされ、イギリスの言いなりになってしまったことが発端とも言えるわけでして。
そういう明治以降の外交は、幕末から見直す必要があります。もっと遡って、それこそ田沼時代からそうした方が良いかもしれません。
そんな流れに2025年は合っていると思っていたところ、2027年の大河ドラマは小栗忠順が主役と発表されました。
幕末の幕臣は時代錯誤ではない。
テロで盛り上がっていた「志士」たちなどより、はるかに先見の明があった。
それを大河で描ける時代になったんですね。
時代としては幕末でも、江戸関東幕閣中心は極めて珍しい。というか、初ではないですか? 大きな転換、画期的です。
思えば私はオリンピック大河の年、「こんなテーマをやるなら『柳生一族の陰謀』をやれ」とぼやきました。
渋沢栄一大河の時は「小栗忠順より先に渋沢栄一が大河とは、酷い話だ」とぼやいていました。
それがようやく、どちらも願いが叶って、嬉しい限り。これからも受信料は真面目に納めます。
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べらぼう/公式サイト