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ボロボロになった会津若松城・戊辰戦争後に撮影/Wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新 その日、歴史が動いた

なぜ会津は長州を憎む? 会津戦争で降伏した若松城(鶴ケ城)と藩士たちが見た地獄

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戊辰戦争における局地戦の一つ・会津戦争
絶対的に不利な状況の中、籠城を続けてきた鶴ヶ城(会津若松城)で、会津藩主の松平容保(かたもり)が新政府軍に降伏しました。

慶応四年(明治元年・1868年)9月22日のことです。

会津と長州が今なお不仲である原因にもなっておりますが、2017年に発表された新史料により従来の定説が大きく変わりそうな流れでもあります。
その点も含めて見て参りましょう。

松平容保さんといえばこの写真/Wikipediaより引用

【TOP画像】会津戦争直後に撮影されたボロボロの若松城(鶴ケ城)/Wikipediaより引用

 

保科正之が定めた「会津家訓十五箇条」に絶対服従!

会津戦争は大河ドラマ「八重の桜」や白虎隊の各種作品で何度も取り上げられているできごとなので、大筋をご存知の方も多いでしょう。
そして会津藩主・容保といえば、「最後まで将軍家への忠義を通した人物」というイメージですよね。

容保は初代藩主の保科正之が定めた「会津家訓十五箇条」の一つ目「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」に徹底的に従ったとされています。

おおざっぱに意訳すると「ウチは将軍家にでっけえ恩があるんだから、どこのどいつが裏切ってもウチだけは将軍家に忠実でいなくちゃいけねえ! 従わないようなヤツはオレの子孫じゃねーし、そんな主には家臣たちも従わなくていいからな!」というところでしょうか。

正之さん、いくら自分がお兄さん(家光)に恩がありまくるからって、ちょっと言い過ぎじゃないでしょうか。

というか死んだ人に「オレの子孫じゃねえ」とか言われても痛くもかゆくもないだろ……というのは現代の感覚の話ですよね。
この時代、儒教などの影響で「ご先祖様が第一!」な風潮がありましたので、ご先祖様の言うことには従わなくてはならなかったのです。

まして、容保はよそから養子に入った人ですから、「郷に入っては郷に従え」とならざるを得ません。そうしなかったせいでお家騒動になった藩もちらほらありますしね……。

 

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「婦人女子の言一切聞くべからず」という項目も!?

でも、この家訓の中には「婦人女子の言一切聞くべからず」という項目もあります。

意訳する必要もないくらいそのまんまですね。
あれ、そうなると山本八重さんは……? 大河ドラマでは、結構、八重さんのいうこと聞いていましたよね。

この家訓は毎年家臣の前で藩主が朗読していたといいますから、容保がこの部分を知らなかったわけもありません。
まあ、いくらお殿様でも家臣や庶民を100%思うように動かせるわけではないですし、逆に譲歩しなければならないこともあったでしょう。
こういうのって、真面目な人ほどジレンマに陥りますよね。

とはいえ、巻き込まれた庶民からすると、お殿様の事情をそこまで斟酌することはほぼ不可能。
降伏後に東京に移送される容保を見送る際、生き残った会津藩の庶民は「ちっ、あんな偉そうなこと言って、のうのうと生きているよ。腹も切れずに恥ずかしくないのか」と殺気立っていたそうで。

新政府軍はむしろ、「暴動が起きて捕虜の容保が殺されないか」と危惧し、警護をつけていた……と、会津を訪れた外国人が記録しています。

それにしても、降伏後の新政府軍のやりようもヒドイ。なんと「会津戦争の死者は埋葬するな!」という命令を出すのです。これは会津郡・新政府軍問わずだったようですが、哀れ、野ざらしになった遺体は鳥や獣によって無残な姿に……。

鳥葬(※画像検索ダメ絶対)という遺体の葬り方はチベットなどの文化として存在するものの、それとは訳が違います。

請願書が多く寄せられたため、後々埋葬の許可が出るのですが、、その理由は「疫病の原因になりかねない」というにべもないもの。
しかも藩士たちにはやらせなかった上、きちんとしたお墓を作るのではなく、罪人塚という形で誰も彼も一緒にされてしまったのです。

この状況を見るに見かねた伴百悦(ばんひゃくえつ)という会津藩士が、自ら身分をやつして遺体の埋葬に当たったといいます。彼が関わっただけでも、会津軍・新政府軍を合わせて1600人を超える遺体があったそうで。

恐らく見せしめや苦戦の鬱憤晴らしなのでしょうが、八つ当たりも甚だしいというかなんというか……。

 

いつかは会津と長州は和解するのでしょうか

以前、旧長州の山口県萩市の市長が「もう120年経ったので、仲良くしませんか?」と誘った際、会津若松市の市長が「まだ120年しか経ってないので」と断ったそうですが、これではその気持ちもわかろうというもの。
長州藩の人が全員そうではなかったにしても、割り切れませんよね。

最近では震災の復興支援や白虎隊士への献花などで、だいぶ進展しているようですが。やられた相手が許すには、想像を絶する時間が必要なようで。

……と思われましたが、2017年に新たな史料が見つかりました。

戦闘終了から間もない10月2日に、
新政府のほうから会津戦争の戦死者を埋葬するよう命じていた
という内容です。

<戊辰戦争>戦死の会津藩士「半年間野ざらし」定説覆る 「降伏直後埋葬」示す新史料

戊辰戦争(1868年)で戦死した会津藩士の遺体が会津藩降伏直後に埋葬されたことを示す史料が見つかったと、会津若松市史研究会副会長の野口信一さん(68)が2日、発表した。遺体は新政府軍が埋葬を禁じ、半年間野ざらしにされたと伝えられてきた。(河北新報より引用)

こうなりますと、会津側の恨みも勘違いから生まれているわけで、これまでの定説で育ってきた世代からすると、複雑な心境でありましょう。
「ハイそうですか、私達の勘違いだったのですね」
と、すぐにわだかまりを解くのは難しいかもしれません。

河北新報さんの記事によると、「567人を64カ所に埋葬した」という記述だそうですが、これだと伴百悦の話とあまりにも数が違いすぎています。
会津戦争での会津側の死者は3000人ほどと考えられていますので、そこと比較しても少なすぎますね。
合計しても数が足りません。

「記録があるから全てが正しい」ともいい切れませんし、記事に書かれていない部分にもまだまだ多くの記述があるでしょう。敗戦側が味わう屈辱や、実害は、勝者には理解できないものでもあります。

もちろん、現段階での史料から、会津側の感情が和らいでいくことが望ましいのは間違いありません。

当事者の子孫の方々にとって、前向きになれるきっかけが見つかったのは喜ばしいことですから……と思ったら、本サイト執筆者の小檜山さんが、キッチリと記事にまとめてくれておりました。

遺体埋葬問題についての詳細は、以下の記事をご覧ください。

会津戦争の『遺体埋葬論争』に終止符を……亡骸の埋葬は本当に禁じられたのか?

 

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ホントはすごい、容保のビッグダディー

その後、容保(会津へは養子入り)はお兄さんの尾張徳川家当主の徳川慶勝(よしかつ)や弟の一橋家をついだ茂徳(もちなが)が助命嘆願をしたため罪を減じられ、処刑されることはありませんでした。

しかし元が真面目な人ですから、相当罪悪感はあったとみえて自ら蟄居(自宅謹慎)しています。
明治時代に慶勝から「尾張徳川家を継がないか」とも言われていますが、容保は断りました。

「自分のミスで多くの人を苦しいめに遭わせたというのに、それを忘れて他の家を継ぐことはできない」という理由だったそうです。
ただの理想主義なお殿様ではなかったということですね。

明治時代に磐梯山が噴火して旧領に戻った際、容保を懐かしみ、ありがたがった古老もいたそうで。

明治11年9月に撮影。左から元桑名藩主、会津藩主、一橋家、尾張藩主

明治11年9月に撮影。左から元桑名藩主、会津藩主、一橋家、尾張藩主

ついでながら、容保の実の兄弟がすごいのです。

尾張徳川家 慶勝
会津藩 容保
一橋家 茂徳
桑名藩 定敬

しかも、4人全員実家でなく、養子でこれらのそうそうたる家の主となったのです。
彼らのお父ちゃんはというと、高須藩主(岐阜県)というマイナーな人。ある意味でこのお父ちゃん松平義建が歴史を動かしたのかもしれませんね。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「東北戦争」 会津戦争/Wikipedia 伴百悦/Wikipedia

 



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