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柳沢吉保/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 江戸時代

柳沢吉保~徳川綱吉の寵臣は、実はおとなしい人だった?

更新日:

江戸時代には概ね各代の将軍に一人ずつ、代表的な重臣がいます。
彼らの多くは「御側御用人」(おそばごようにん)と呼ばれる、将軍の意見を代弁できるほどの役職についていました。
間部詮房や田沼意次など、現在悪人のイメージが固定化している人はだいたいやっていますね。
まあ、いつの時代も身分が上がるほど叩かれやすくなるというのは変わりませんが。
今日の主役は、この地位で初めて事実上の江戸幕府ナンバー1ともいえる権勢を誇った人物です。

正徳四年(1714年)の11月2日、江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の御側御用人だった柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)が亡くなりました。

 

元々は館林藩の一藩士に過ぎなかった柳沢吉保

この時代の人によくあることで、柳沢吉保は出家後も含めると五回くらい名前を変えているんですが、めんど……ややこしいので吉保で。
吉保は綱吉より一回り年下だったので、当然綱吉も既に亡くなっています。
六代家宣の代になるのとほぼ同時に隠居しており、現在の六義園(東京都北区)での静かな死去でした。

「え、重臣って死ぬまでエラかったんじゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。
吉保は綱吉によって引き立てられたため出世しましたが、元は館林藩の一藩士に過ぎませんでした。
しかも生まれるのが遅かったせいで、長男だったのに家督を継げなかったという不運の人でもあります。

しかしここで運の悪さを使い切ったのか、それとも悪あがきをしなかったのが神様のお目に適ったのか、綱吉へ謁見する機会に恵まれ私的な学問の弟子になることができたのでした。

 

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赤穂浪士とか生類憐れみの令など悪評ばかり

ここから吉保の出世街道が始まります。

毎年のように加増、昇進、加増、加増、加増、昇進で最終的にはそれまで原則譜代大名しかなれなかった老中・大老の地位にまで上り詰めてしまいました。

その割に彼個人の業績はさほど伝わっていません。
「赤穂浪士の切腹は吉保の意向らしい」とか「生類憐みの令に反対しないなんて役立たずだ」とか、憶測に過ぎない悪評ばかりなのです。

でももしこうした悪評通りのことをやっていたとしたら、当然将軍の代替わりの際処罰されますよね。

しかし何のお咎めもなく、悠々自適な老後を送っています。
元がほぼ一代で成りあがったような人ですから、後ろ盾である綱吉が亡くなればいつでも取り潰せたのに、です。
こうなるとやはり、吉保に対する悪評は根も葉もない噂という可能性のほうが高くなります。

徳川綱吉/Wikipediaより引用

 

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決して権力を自由にアレコレしていない

既に実質的には一番の権力者なのですから、積極的に力を使いたければ幕府中枢に居座って新将軍にあれやこれや口を出すこともできたでしょう。
やろうと思えばできたのにしなかった、というのは最初からその気がなかったという証拠ではないでしょうか?

そもそも家を継げなければ男子は穀潰し扱いされるこの時代に、実家の家督にさえ執着しなかったことといい、元から権力への欲というものがない人だったという見方もできると思うのです。
真面目に仕事をした結果が出世に繋がるのは当然のことですし。

現在一般的に吉保=悪代官のイメージが固定化されているのは、忠臣蔵で悪役に描かれることが多いからでしょうねー。
綱吉のエコヒイキもスゴイですけど、いやードラマの影響ってコワイ。

長月 七紀・記

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参考:柳沢吉和/Wikipedia

 





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