一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)

鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

源平合戦の趨勢を決めた一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)平敦盛も討死

2025/02/06

寿永三年(1184年)2月7日は、源平合戦におけるハイライトの一つ【一ノ谷の戦い】が行われた日です。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも注目された一戦。

源義経が【鵯越の逆落とし(ひよどりごえ)】をやった戦いという認識が主流であり、その後の源氏優勢を決定づけた戦いとも見れるでしょうか。

他にも印象強めのエピソードがいくつか含まれている、この戦いを振り返ってみましょう。

鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』/wikipediaより引用

 


大天狗の罠?平氏が油断したところへ源氏凸!

まずは、この戦いに至るまでの経緯を簡単に振り返ってみます。

後白河法皇から正式に平家追討を命じられた源氏軍は、関東から上京する途中でデカイ仲間割れをしてしまいました。

木曽義仲とのイザコザです。

木曽義仲/wikipediaより引用

そして何とか片付けたのですが、その間に平家は清盛が新しい都としていた福原(現・兵庫県)で体勢を整え、再び源氏と戦おうと画策していました。

しかし、大天狗(※後白河法皇のこと)から「戦をやめい」という命令が届きます。

それが策かどうかは不明です。

9割8分くらいの確率で策なんでしょうけど、ともかくこれを信じてしまった平家が一瞬油断したところへ、源氏軍がワーっと攻めかかってきて始まったのが【一ノ谷の戦い】です。

逆落とし以前からほぼ奇襲に近い感じなワケで……うーん、策士ですね。

やってきたのは、いつも通り?影の薄い源範頼と、その反対に目立ちすぎな源義経でした。

範頼は平家方の大将にあたる平知盛(清盛四男・壇ノ浦まで実質総大将みたいな感じだった人)らと正面きって戦っており、サボッていたワケじゃありません。

何しろ義経が当時の規格外なことばかりやって、しかも成功してしまうのでいかんせん目立たないだけ。

範頼がどんな人だったかは以前取り上げたことがありますので、たまには目立たないお兄ちゃんのことも思い出してあげてください。

 


鵯越の逆落し 場所はいまいちハッキリせず

しかし、現代の我々にとっては問題が一つ。

義経が目立った最大の理由である「逆落としの場所」が、実はハッキリしていません。

「鵯越」という地名の場所と、実際の合戦場に少し距離があるのだそうで。

そのため主戦場である一ノ谷でやった可能性も高く、学者先生方の間でも意見が割れているとか。

『平家物語』などでは前者ですが場所が合わず、後者だとすると記録されていないのはなぜか? ということです。

もしかすると、地名の伝聞ミスか変更があったのかもしれませんねえ。

鉄拐山

もう一つの“急坂”候補とされている鉄拐山(眼下に須磨浦)/photo by Tak1701d wikipediaより引用

平家物語は誰か一人が書いたものではなく、弾き語りで広まっていったものですから、どこかの誰かが記憶違いや伝え忘れた点がないとも限らないですし。

義経が逆落としの場所を決めたのも、地元の猟師に「鹿が通れる道はありますが、馬はちょっと……」といわれて「鹿が通れるなら馬もおけ!突撃!!」と考えたから、という曖昧なものでした。

これが超訳ではなくガチなのですから、もう何も言えない。

まるで【馬鹿の語源】のような話ですね。兎だったらさすがの義経も諦めたかもしれません。

その場合でも源平の行く末は変わらなかったでしょうが、おそらく彼の知名度は一段低くなっていたんでしょう。

 

源平の興亡は実質的に決まった!?

また、平家物語で五本の指に入る超有名なエピソード「敦盛の最期」も一ノ谷での話です。

熊谷直実が逃げる若武者を組み伏せると、その幼さに驚き、苦渋の決断で首を取ったところ、まだ17歳の平敦盛であり直実の心に深く傷を残した――そんな話ですが、歴史の授業ではあまり取り扱われず、国語だけというのはちょっと寂しいというかビミョーな気になりますね。

逃げる平敦盛(左)と追う熊谷直実(右)/wikipediaより引用

こういうところで教科を越えてリンクさせると面白いんじゃないかと思うのです。

特に平安~鎌倉あたりって文学と歴史の関連が深い気がするんですよね。

熊谷直実にしても、この一件で現代で言うところのPTSDのような症状を心に負ってしまい、人の世の虚しさに打ちひしがれてしまう――そんな直実と敦盛から生まれたのが、あの有名な世阿弥作の能『敦盛』。

人間五十年

下天(げてん)の内をくらぶれば

夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり

一度(ひとたび)生(しょう)を得て

滅せぬ者のあるべきか

織田 信長でお馴染みのこの『敦盛』は『信長公記』の記録によると【桶狭間の戦い】前に舞ったとされ、非常に印象深いものです。

閑話休題。

熊谷 直実に関しては記事末の関連記事をご覧いただくとして、話を一ノ谷に戻しましょう。

後は結果ですね。

 


多くの人材を失ってしまった平家

結果としては当然ながら「勝った源氏・負けた平家」という構図になります。

しかし、戦いというのは最初から勝敗が決まっているワケじゃありません。

もともと戦の準備は整っており、平家だって勝つため死に物狂いで戦いました。

そのぶん犠牲も大きく、特に一族の中の若い世代がたくさん討死してしまいます。

平清盛の異母弟や息子の家の子供や清盛の養子など、次代の中枢になるべき人材の多くが一ノ谷で失われたのでした。

平敦盛が笛の名手であったことは有名ですが、他にも和歌や琵琶に秀でていた人もいたとか。

その辺はさすが名門ですね。

もしこの後で平家が盛り返しても、いずれ人材不足、後継者不足に悩んだと思われます。

ゆえに実質的には一ノ谷で源平の興亡は決まっていたとも言えそうです。

源氏は源氏ですぐに仲間割れをしますので、未来は不確定とも考えられますが……。

ともかく大打撃を受けた平家はさらに西へ逃げ、勢いに乗る源氏はそれを追い……次のハイライト【屋島の戦い】へと続きます。

那須与一の出番となりますが、その詳細は以下の記事にて。


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【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon
上横手雅敬『源平争乱と平家物語 (角川選書 (322))』(→amazon
『源平興亡三百年 (SB新書)』(→amazon
一ノ谷の戦い/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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