信長には、20人以上の子供がいたといわれています(一説には11男11女)。
享年が49。
しかも超多忙であったことを考えればかなり多いほうですが、子供たちの中で歴史に足跡を残せたのはほんの一握り。
長男・信忠をはじめ、次男・信雄、そして三男の織田信孝(おだのぶたか)です。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
今回は、天正十一年(1583年)5月2日に自刃したとされる、織田信孝の生涯を追ってみましょう。
次男・信雄とほぼ同じ日に生まれ
織田信孝は、どうにも「あと一歩で」という貧乏くじを引くタイプの人だったようで、いくつかそんな話が残されています。
実は生誕からしてそう。
すぐ上の兄・織田信雄とは、生まれた順が逆だという説があります。

織田信雄/wikipediaより引用
「生母の身分が低かったから信孝が三男にされた」とか「信長への報告が遅れたから」とも言われてますが、今のところ決定打になる記録はないようです。
ちなみに幼名は「3月7日生まれだから幼名が三七丸になった」という俗説があり、記録上では4月4日が誕生日となっています(新暦で4月22日)。
すると色々と生まれ順の認識がおかしくなってくるのですが、この話はおしまいにして先へ進みましょう。
信長は三男坊を優遇も冷遇もせずに扱いました。
10歳のとき、信長が平定した伊勢の神戸(かんべ)家に半ば無理やり養子入りさせ、「神戸信孝」と呼ばれることもあります。
・長男の織田信忠が織田家の跡取り
・次男の織田信雄は北畠に養子入り
・三男の織田信孝は伊勢の神戸家へ
次男の信雄も北畠に入れられた流れですので、特に信孝だけがどうこうはないと思います。
補佐の傅役(いわゆる“じいや”)やその他の家臣もキッチリつけております。
烏帽子親はあの鬼柴田
家臣たちの助力と信長の七光りもあって、信孝は順調に伊勢を治めることができました。
検地をやったり、楽市楽座など父親が広めた制度を自国内でも採用したり。
さらには伊勢神宮への参拝客が来る宿場のメリットを存分に活かして、国を富ませます。
元服は、長兄・織田信忠&次兄・織田信雄と同じ元亀三年(1572年)のこと。
儀式は岐阜城で行われました。
このとき信忠は17歳、信雄と信孝は14歳です。信忠はやや遅めですが、他の二人はちょうど適齢という年頃ですね。

織田信忠/wikipediaより引用
信孝の加冠(烏帽子を被せること)の役目は、あの柴田勝家が務めたといわれています。
「鬼柴田」ともいわれる勝家ですが、幼いころから知っている主君の息子が成長した姿を見て、まぶたなり胸なりを熱くしていたかもしれませんね。
信孝と柴田は、信長の死後、秀吉を相手に【賤ヶ岳の戦い】で共に戦うことになります。
天皇や宣教師からの印象も良く
長島一向一揆で初陣を果たした織田信孝はその後、織田家の主だった戦に次々と参戦。
他にも22歳で調停との交渉役を任されたり、信長が本願寺と和解する際には先に大坂へ来て下準備をしたり、信頼度は上々だったようです。
正親町天皇からも杉原紙(和紙の一種)や練香(香木などを練って固めたお香)などをたびたび賜っており、覚えがめでたいといってもいい雰囲気といえるでしょう。
次男の信雄が勝手に伊賀へ攻撃を仕掛けて大敗を喫し、信長から
「お前、次にヘマしたら俺との親子の縁を切るからな」(意訳)
とキツく叱られたことがあるのと比較すると、信孝の評価は上々だったと思われます。

織田信長/wikipediaより引用
イエズス会の宣教師らとも親しかったようで、次のような記録も残っています。
「彼はキリスト教の宗旨をよく理解し、改宗しようとしているが、父の勘気を恐れて時期を見計らっている」
また、並行して本拠・神戸城の拡張工事を進め、五層の天守や多数の櫓を持つ近世城郭に大改造していました。
要は、内政能力も問題なかったといえましょう。
おそらく順調に行けば、北畠家に入っていた信雄と神戸家の信孝で「毛利両川」ならぬ「織田両川」のような状態になっていたと思われます。
しかし、皆さんご存知の通り、そうはいきません。
そう、本能寺の変が勃発するのです。
長宗我部攻めの総大将で本能寺を迎える
天正10年(1582年)に入り織田信孝は、四国の長宗我部家攻めで総大将を任され、5月11日から大坂入り。
丹羽長秀らと準備を始め、堺の港から四国へ向かおうとしました。
このタイミングで起きたのが【本能寺の変】です。
京都から堺はわりと近いですから「信長死す」の報は即座に届きました。
しかし、信孝や織田家の重臣だけでなく、一般人にまで知れ渡ってしまったのでさあ大変。
ほとんどの兵が逃げてしまい、四国攻めどころか父の仇である明智光秀を討つ準備もできなくなってしまいました。

明智光秀/wikipediaより引用
信孝はさぞ焦ったことでしょう。
しかし、ここで一念発起します。
「一緒に四国行くはずだった光秀の娘婿、このまま放置していたら危険じゃねぇか?」(超訳)
娘婿とは大坂にいた津田信澄であり、かつて信長と家督を争った弟・織田信勝(織田信行)の息子でした。
信長にとっては甥っ子ですね。つまり信孝たち兄弟にとっては従兄弟にあたります。
それだけなら殺す要因などはないのですが、困ったことに津田信澄は、明智光秀の娘と結婚していたのです。
要は、血筋からしても立場からしても、光秀に加担している可能性はそこそこ高かったわけです。
まあ普通、こういうときは親類縁者で兵力を固めますからね。
それを見事に裏切ったのが、細川藤孝(細川幽斎)と細川忠興の親子です(忠興の正室・細川ガラシャが明智光秀の娘)
秀吉に乗っかるカタチで光秀と対峙
そんなわけで「怪しいから討っておく!」程度の理由で津田信澄は始末されてしまいます。
今のところ学者先生方の間では
「信澄は無関係じゃね? 濡れ衣だよ多分……」(超訳)
という説が根強いようです。
計画的とはいえない光秀の行動からしても、信澄が無実の可能性はかなり高そうです。
というか信澄が加担していたならば、先に織田信孝に攻めかかっていたのではないでしょうか。
明智軍は本能寺と同時に織田信忠を襲っているのですから、できるだけ織田家の禍根は早めに始末しておきたいと考える場面です。
なんせ信澄を排除したところで、光秀が京都を陣取っているのは変わりません。
しかし信孝が直接明智へ襲いかかるには兵が足りませんでした。
そこに豊臣秀吉が毛利攻めから帰ってきたので、信孝はこれに加わって光秀と戦い、山崎の戦いで勝利を収めました。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)
後世から見ると「この時点で秀吉に加わったら臣下になるも同然では……」という気がしてきますが、当時の信孝は「秀吉の兵を使って仇を取るんだ!!」ぐらいの考えだったのかもしれません。
一応、名目上は総大将ではありました。
めでたく光秀を討った後は「父上の信頼からしても、実力からしても、次は俺の時代」ぐらいに思っていたのでは……。
そう、そこで開かれたのが後世でも知られる【清洲会議】でした。
清洲会議から賤ヶ岳の戦いへ
清洲会議は、これまで「織田家の跡継ぎを決める」という認識でよく語られてきました。
次男の織田信雄か、三男の織田信孝か?と揉めているところで、秀吉が「信長様の孫である三法師様が当主じゃ!」と出しゃばってきた、という展開ですね。

『絵本太閤記』に描かれた清洲会議のシーン/wikipediaより引用
しかしこれは後世のフィクションという見方が強く、実際は、
・跡継ぎは三法師で決まっている
・問題は誰がその名代を務めるか?
という内容だったとされます。
すでに織田家の家督は信長から織田信忠へ譲られており、三法師がその信忠の息子だったからです。
しかし現実的に三法師は幼く、誰の後ろ盾もなく強大な織田家当主が務まるわけがありません。
そこで三法師が成人するまでの名代が必要となり、「信勝にするか?それとも信孝か?」と清洲会議で話し合われたわけですが、スンナリとは決まらず、まずは信長の側近であった堀秀政に預けるという形で話は収まります。
信孝にしてみれば、モヤモヤとする決着。
誰一人としてこのまま平和に時が進むとは思っていなかったでしょう。調略の得意な秀吉は、そのまま
・織田信雄(信孝の兄)
・丹羽長秀(信長の側近)
・池田恒興
・徳川家康
と、錚々たるメンバーを自軍に引き入れていきます。
信孝としては、重臣の一人である柴田勝家だけでも……とすがる思いだったでしょう。
そこで、どうしたか?
賤ヶ岳は利家を調略した秀吉の勝ち
織田信孝はこの時点で美濃を掌握しきれていなかったため、秀吉と正面から対決することができず、後手後手に回ります。
柴田勝家だけでも味方にせねばならない――ということで、未亡人だったお市の方を鬼柴田へ再婚させたのは信孝の口利きだったともされますが、秀吉方となる武将はさらに増えていきます。
・森長可(森蘭丸らの兄)
・稲葉良通(稲葉一鉄/元・美濃三人衆の一人)
・氏家行広(信長の家臣)
・斎藤利堯(斎藤義龍の弟)
特に、斎藤利堯はこの直前まで「信孝の家老」という立ち位置だったため、事の深刻さがよくわかります。
そして翌天正十一年(1583年)、ついに柴田勝家と秀吉の間で【賤ヶ岳の戦い】が勃発。詳細は以下の記事に譲りますが、
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賤ヶ岳の戦い|秀吉と勝家が正面から激突!勝敗を左右したのは利家の裏切り?
続きを見る
信孝と柴田はうまく連携できず、前田利家の裏切りもあって柴田勝家は敗れてしまいます。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
この前田利家を取り込む秀吉の手腕が恐ろしいばかりで、たとえ勝家や信孝でなくとも勝利するのは難しい相手だったでしょう。
程なくして勝家自害の報が届き、誰も頼れる者がいなくなったところで、信孝は、自身の城を囲んでいた信雄、そして秀吉に降伏することになります。
そして野間大坊(現・愛知県知多郡)で自害することになりました。
このとき実に凄まじい最期が伝わっています。
「報いを待てや 羽柴筑前」
野間大坊は、かつて源頼朝の父である源義朝が、家臣のツテを頼って身を寄せたところ、裏切られて殺されたと言われている場所です。
もちろん信孝も知っていました。

野間大坊の境内にある源義朝の墓/wikipediaより引用
そこで信孝は、もうこれ以上なす術がないと悟り、命令に従って命を絶つことになります。
凄まじい最期が伝わるのはこの後です。
信孝はまず腹を十字に切り裂き、内蔵を取り出した上で、こんな辞世を詠んだというのです。
「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
【意訳】源義朝が部下に襲われて命を落としたようにここは主君が死ぬ場所。次はお前がそうなるのを待っているんだぞ、秀吉
腹を切った上に、秀吉に対して、こんな恨みの歌を残したと言われているのです。
まぁ、状況からして頷けるものがありますが、これはさすがに後世の創作の可能性が高いでしょう。
いくら織田家に文学的な意味での才人があまりいないとはいえ、明らかに粗雑過ぎる歌ですし、この歌とセットになって語られる「内臓をつかみ出して掛け軸に投げつけた」というのも無理がありすぎます。
切腹は、そんなに簡単なものでもないのは、以下の記事で歴女医のまり先生もご指摘されています。
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切腹のルールと恐ろしい現実~もしも一人で実行したら地獄の苦しみが待っている
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掛け軸と自害時の短刀が非公開になっているのが、事をミステリアスにしているんですね。
お墓は安養院という別のお寺にある
もしも本当に織田信孝の辞世なら、曖昧な言い伝えではなく、自筆でどこかに書き付けるか、家臣が書き留めているでしょう。
そういう痕跡が全くなく、しかも庶民でもわかりやすそうな歌であるということは、創作の可能性であるほうが高い。
後世の人が信孝を哀れみ、その気持ちを酌んでこういった言い伝えを作ったのだとすれば、多少は慰めになったかもしれません。
まぁ、歌がホントかどうかはともかく、死んでも死にきれない恨みを秀吉に対して抱いていたのは確かでしょう。
野間大坊には義朝の供養として木刀をお供えする人が多いそうですが、信孝についてはあまり注目されていないようで。

野間大坊にある織田信孝の墓/wikipediaより引用
できればご一緒に手を合わせて欲しい……そんな信長三男・織田信孝の辛い最期でした。
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【参考】
国史大辞典
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織田信孝/wikipedia







