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【テンプル騎士団】
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逮捕、没収、拷問、自白、火刑……あまりに悲惨な……
10月になると、フィリップ4世はフランス各地で、騎士団総長ジャック・ド・モレーをはじめ構成員15,000人を逮捕。
同時に騎士団の土地や財産を取り上げ、いくらになるか……?と勘定を始めました。
その中には、なぜか書類だけは含まれておりませんでした。
おそらく騎士団内の誰かが隠蔽に成功したのでしょう。このことも、騎士団の神秘的イメージ作りに一役買っています。
逮捕された騎士団員たちは、粗末な食事だけを与えられ自白を迫られます。
それでも拒むと、残酷な拷問の数々を受けました。その間にも、フィリップ四世の息のかかったスパイたちが、騎士団のでっちあげた悪行の数々を全土で吹聴して回ります。
騎士団員たちは苦痛に耐えかねて罪を告白し、命を落としてゆきました。
しかし幾人かの騎士たちは、聖職者の前で「自白は王に強要された」と撤回します。
告白と撤回という堂々巡りに、フィリップ4世は苛立ち始めます。
1310年、フィリップ4世はついに騎士団員の大量処刑に手をつけます。
パリ郊外の畑に立てた杭へと連行し、ある時は54人、またある時は67人と、縛り付けた団員たちを火刑に処したのです。
燃やされる騎士団員を見て、パリっ子もこれはやり過ぎではないか、と戦慄したことでしょう。
骨と灰、そして気高い精神が残された
大量処刑の翌1311年、審問は終了。
さらにその翌1312年、教皇クレメンス五世は、ヴィレンヌ公会議でテンプル騎士団の解散を宣言しました。
フィリップ四世は、没収財産が懐に転がり込むことを熱望していたでしょうが、ホスピタル騎士団に引き継がれます。
残りの財産は他の団体にうつされ、フィリップ四世が手にしたのは……?
フィリップ四世が手にした財産は、実に一割程度に過ぎませんでした。
あれだけ執拗に追い詰めておきながら、手にしたものは多くはなかったわけですね。
このことから、王によるテンプル騎士団迫害は財産狙いではない――という説もあるそうですが、いかがなものでしょうか。
財産の譲渡は1313年までに終わりました。
翌1314年、それまで黙秘を続けてきた総長ジャック・ド・モレーの審問が再開。このとき既に七十歳近い高齢であったド・モレーは覚悟を決めていました。
彼は頑として自白を拒みます。
ノートルダム大聖堂に引き出され、群衆に向かって叫びました。
「私はいつわりの告白をしたことを認めねばならない。修道会は無実だ!」
群衆は驚き、どよめきが広がります。
さらにもう一人の高位の騎士団員が、やはり自白を撤回。二人はたちまち捕まり、火刑台へと引き立てられました。
あとに残されたのは骨と灰、そしてその気高い精神でした。
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