1543年7月12日、イングランド王ヘンリー8世が最後の妻キャサリン・パーと結婚しました。
「最後の妻」というと何だか純愛物のドラマのようですが、そんな美しい話ではありません。
というのも、ヘンリー8世はキャサリンの前に、5人もの妻に酷い仕打ちをした上で離婚をしていたからです。
一体どんな仕打ちだったのか? というと以下の通り。
1.キャサリン・オブ・アラゴン
スペインのお姫様で、元々はヘンリー8世の兄アーサーの妻でした。

キャサリン・オブ・アラゴン/wikipediaより引用
しかし結婚からしてほどなくアーサーが病気で亡くなってしまい、スペインとイングランドの関係を維持するためヘンリー8世と結婚することになったのです。
しかしヘンリー8世との間に男子が産まれず、そうこうしているうちに王が後述のアン・ブーリンに心を移したため、無理やり離婚させられました。
2.アン・ブーリン
元は上記キャサリンの侍女でした。

アン・ブーリン/wikipediaより引用
若く美しく賢かったことからヘンリー8世を惹きつけ、王妃の地位を手に入れたものの、アンも女子しか産めなかったためやがて疎まれるようになります。
最終的に不貞の疑いをかけられ、斬首刑に処されてしまいました。
映画『ブーリン家の姉妹』は彼女と妹・メアリーを主人公とし、わかりやすくまとまっています。
3.ジェーン・シーモア
唯一となる男子を産んだ妃だったのですが、出産から一ヶ月もしないうちに亡くなってしまいました。

ジェーン・シーモア/wikipediaより引用
そのためヘンリー8世は次の王妃を求めるようになります。
4.アン・オブ・クレーヴズ
本人には落ち度がなかったものの、お見合い写真代わりにヘンリー8世へ送られた肖像画と全く異なる顔だったため、半年で離婚させられたといわれています。

アン・オブ・クレーヴズ/wikipediaより引用
しかし「王の妹」という称号や年金は与えられており、離婚後は王やその子供たちとの関係も悪くなかったようで、肖像画の件には疑問の余地も。
5.キャサリン・ハワード
上記アンの侍女だった人です。

キャサリン・ハワード/wikipediaより引用
結婚後に不貞を働いたと疑いをかけられ、激怒した王に処刑されました。
いかがでしょう?
ジェーン・シーモア以外の4人がヘンリー8世の都合で離婚・処刑されています。
そんな王様に求婚されたキャサリン・パーとは、一体どんな人物だったのか?
生涯を振り返ってみましょう。

キャサリン・パー/wikipediaより引用
※ヘンリー8世の妻だけでも「キャサリン」という名前の人が3人もいてややこしいため、本記事のキャサリンについては愛称の「ケイト」で記させていただきます
生い立ち
ケイトは1512年、騎士トマス・パーとキャサリン・オブ・アラゴンの女官モードの間に生まれました。
王妃が洗礼式の代母を務めたため、ファーストネームをもらったのだそうです。
こういう慣習があるので、西洋圏は同じ名前の人が多いんですよね。聖書由来の名前も非常に多いですし。
ケイトの後には妹アンと弟ウィリアムが生まれましたが、父とは早いうちに死別。
モードは夫を失った後も宮仕えを続け、女手一つで三人の子供を育て上げました。
モードは個室を与えられており、高級女官といった立ち位置だったので、再婚せずとも収入や立場を保てたと思われます。
また、母が女官ということから、ヘンリー8世の子供たちとも比較的身近に育ったようです。
二回の結婚
ケイトは17歳のとき、リンカンシャーの貴族エドワード・バラと最初の結婚をして、二年ほどで死別。
一年ほど置いて、今度はヨークシャーの貴族ジョン・ネヴィルと再婚しました。
ジョンには前妻との間に娘と息子が一人ずついて、ケイトは継母として二人の世話をしながら過ごします。
この頃の彼女自身は子供を授からず、愛情をもって彼らに接し、継子たちもケイトによく懐いたそうです。
長女でもあり、母が人のお世話をする仕事をしていたこともあり、自然と母性的な振る舞いが身についていたのかもしれませんね。
1537年にヨークシャーに反乱が起こり、ジョンも関与している疑いをかけられたため、自らロンドンに弁明しに行く……という出来事が起きました。
しかしその間に、ケイトと子供たちが人質になってしまうという一騒動が起きます。
幸いにしてなんとかジョン・ケイト一家は無事に済んだものの、心労がたたってか、ジョンが病気になってしまいます。
ケイトはロンドンのネヴィル邸に滞在し、献身的に夫の介護をするようになりました。
一方で、このころ妹のアンが宮廷に仕えており、ケイトはたびたび訪れたといいます。
夫に関する報告をそれとなく伝えておいて、家の立場が悪くならないように努める……なんて狙いもあったのでしょうか。
その中でヘンリー8世の3番めの妃だったジェーン・シーモアの兄トマスと親しくなったようです。
「もしもジョンが亡くなったら、彼と……」というのも考えていたようですし、だいぶ熱烈な手紙も書いているので、ガチ恋だったと思われます。
しかし、です。同時期に、ケイトの人となりがヘンリー8世の耳にも入ってしまいます。

ヘンリー8世/wikipediaより引用
彼女は以下のように王妃として申し分ない条件を持ち合わせていました。
・プロテスタントであり、信仰の問題がない
・年齢的にもまだ子供を埋める余地がある
・実家のパー家が野心的なタイプではない
そしてヘンリー8世からケイトに申し入れが届きます。
ケイトだって、これまでの王妃がどうなったか?その結末は知っていました。
しかし、むやみに断れば、実家や継子たちにまで累が及ぶ可能性もあり、事実上、彼女に残された道は他にありませんでした。
ヘンリー8世の妃として
ケイトは本心を押し隠しながら、1543年7月12日、ヘンリー8世の6回目の結婚相手になりました。
彼女は特に美人というわけではなかったようですが、教養と控えめな態度で、王だけでなく宮中の人々や王の子供たちをも惹きつけていきます。
特に気を配ったのが、王室の空気を家庭的にすることでした。
当時、ヘンリー8世の子供たちはそれぞれ別に暮らしており、あまり家族の繋がりを意識できずにいました。
これでは将来の連携もしにくく、敵対する可能性も高くなってしまいます。
そこでメアリー(1世)やエリザベス(1世)、そしてエドワードとの時間を大切にし、彼らがヘンリー8世に会う機会を増やして、家族意識を強めるきっかけを作ったのです。

エリザベス1世(左)とメアリー1世/wikipediaより引用
また、王を説得してメアリーとエリザベスの王位継承権を復帰させたのもケイトでした。
彼女の努力により、王室一家の空気は格段に良くなったと思われます。
特にエリザベスはケイトを強く慕い、離れて暮らしているときも頻繁に手紙を書いていますし、エドワードともたびたび文通をしていますので、義母や弟への親近感を持っていたことがわかります。
メアリーとは4歳しか歳が変わらなかったので、義理の親子というより友人に近い付き合いだったようですね。
宗教への態度
ケイトの人格に触れる上で欠かせないのが、聖書に関する活動でしょう。
当時の法律で、女性や庶民は聖書を読んではならないことになっていて、英訳聖書も存在しながらあまり広まっていませんでした。
ケイトは学者や女官たちを集めて聖書を読む会を開催。
聖書を元にして「正しい生き方」を説いた本を出版したり、積極的に神の教えに触れる人々を増やそうとしました。
女性観については当時の一般的なもので「父や夫、息子に従うべき」という軸もありました。
しかし「女性が聖書を読んでいる」というだけで反抗心があると見なされるような時代でしたので、一時期、反逆を疑われ、逮捕されかけたことがあります。
ケイトは王に直接弁明する際、自らの女性観が聖書に違わないものであること、王への反骨心や他意は全くないことを穏やかな言葉で述べたといいます。
するとヘンリー8世も態度を和らげて疑いを解き、
「私達はこれまで通り、友人同士だ」
と笑顔になったとか。
これは文字通りの友人というよりは、「疑いを解いたぞ」という意思表示だったのでしょうね。
この後、ケイトを逮捕する予定でやって来た役人がヘンリー8世に罵倒されて追い返されたそうですので、その人は気の毒ですが。
摂政を任される
夫婦と家族の絆を深めた後の1544年、ヘンリー8世はフランスへ出征することになりました。
これには少々ややこしい事情がありまして……。
カトリックから離れて英国国教会を作ったことで、イングランドはヨーロッパ各国から格好の的になっていました。
その中でヘンリー8世は、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世と手を結び、フランスを挟撃することにしたのです。
国王自身が遠征するとなると、王太子を摂政として留守を任せていくのがスタンダード。
しかし当時のエドワードはまだ7歳であり、とても国政を担える分別はありません。
そこで王は、ケイトを国王代理に任じました。
立場的にはエドワードの義母であるものの、彼女でなければならない理由となると少々薄くなります。
実務経験を重視するのなら、エドワードの母方の親戚から誰か選んでも良かったわけですし。
それほど、ヘンリー8世はケイトを信頼していたということですね。
ケイトは陣中のヘンリー8世にたびたび手紙を書き、政治的な報告の他にも子供たちの様子を伝え、親子の感情が途切れないように気を配りました。
王もそれに応え、返信には必ず子供たちのことが触れられていたといいます。
王との死別
戦争を終えて無事に帰還したヘンリー8世。
その後、肥満や脚気に苦しみながら、1547年1月に崩御します。
エリザベスはケイトと共にシーン城、のちチェルシー宮殿に移り、エドワードがロンドンで王位を継ぎました。
エリザベスとエドワードは手紙のやり取りをしてお互いを励ましつつ、それぞれの道を歩んでいくことになります。この後のことを考えると切ない限りですが。
チェルシー宮殿ではエリザベスや、後に「9日間の女王」と称されるジェーン・グレイの後見役のような立ち位置を務めていました。
そんな中、かつて情熱的な恋をしたトマス・シーモアが密かに通ってくるように……。
ケイトも彼を嫌いになったわけではなかったので、再び親しくなっていきます。
四回目の結婚
1547年初夏、ケイトとトマスは密やかに結婚しました。
この頃ケイトはまだヘンリー8世の喪中だったので、後日エドワードの許可を得て公表しようということになったようです。
エドワードからすると義母と伯父の結婚ということになるので、反対する理由は特にありませんでしたが、世間体を重んじたとみられます。
陽気なトマスはチェルシー宮殿の空気を明るくし、エリザベスとの仲も良好で、ケイトも喜びました。
しかし、次第にエリザベスに戯れるなど、不穏な言動も見えるようになります。
産褥死
1548年に入るとケイトの妊娠がわかり、体調が思わしくない日が続きました。
そんな中でトマスとエリザベスがハグしているところを見てしまい、
「エリザベスに何か間違いや不貞な噂が立って、王位継承権が脅かされるようなことがあってはいけない」
と懸念します。
そこでトマスがこれ以上戯れないよう、弟の家臣アントニー・デニーとその妻にエリザベスを預けることにしました。
アントニーはヘンリー8世にも気に入られていた人であり、その妻レディ・ジョアンはケイトが主催していた聖書の会の常連だったので、人柄も能力も信頼できたためです。
エリザベスは聡明で優しい義母との別れを悲しみましたが、ケイトが
「未婚の女性は貞節を守ることを第一に考えなければなりません。ましてあなたの立場ならなおのことですよ」
と諭すと納得し、デニー夫妻の元へ移っていきました。
到着後、エリザベスはさっそくケイトに手紙を書き、ケイトも何度か手紙を送り、良い関係を保っています。
しかし……。
ケイトはその後1548年8月末に娘を産んだものの、産後の経過が悪く、9月頭に亡くなってしまいました。
エリザベスは深く嘆き悲しみ、エドワードの摂政(エドワード・シーモア)がそれを知って、宮廷医を遣わして治療させたとか……。
おそらく「義母の出産や子育てが一段落して、自分のほうも落ち着いたらまた会える」と思っていたのでしょうね。泣ける。
“血の繋がらない家族”というのは、歴史上はもちろん、現代の一般人でもままあって難しいことです。
しかしケイトの振る舞いを見ていると、「お互いの歩み寄りと、間に立ってくれる人がいるとどうにかなるのかも」という気もしてきます。
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【参考】
石井 美樹子『エリザベス: 華麗なる孤独』(→amazon)
ほか





