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【デジレ・クラリー】
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スウェーデン王太子カール・ヨハン、本気を出す
ナポレオンはスウェーデンへ向かうベルナドットにこう約束させようとしました。
「自分の母国フランスには刃を向けるなよ」
しかしベルナドットは断ります。
「スウェーデン王太子になったからには、スウェーデンの為に尽くすのは当然のこと。そのためにフランスを敵に回すことになったとしても、それは致し方ないことでしょう」
むむぅ、そう正論を言われるとぐうの音も出ません。
ベルナドットはスウェーデン国民と議会の期待に応え、病弱な老王にかわって、摂政王太子としてスウェーデンを導くために邁進します。
彼は身近でナポレオンを見てきて、その栄光ももはや翳り、没落は不可避であると分析していました。
まずはナポレオンの大陸封鎖令を撤廃、隣国ロシアと同盟します。
更には、元ナポレオンの配下として冷徹に観察したフランス軍の弱点をロシア皇帝アレクサンドル一世に伝え、細やかなアドバイスをします。アレクサンドル一世はすっかりベルナドットの人柄と戦略眼に魅力され、思わずこう漏らします。
「いやあ、キミは実に素晴らしいね。私の妹の夫にしたいくらいだなあ! どうかね? 悪い話ではないと思うのだが」
スウェーデンとロシアは歴史的に因縁のある仇敵です。
ロシア皇帝がスウェーデン国王を褒め、皇女を娶らないかと薦める。平民出のベルナドットにとって、信じられないような話でした。
「陛下、まことに光栄な話です。しかし私には、愛する妻デジレがいます。たとえ陛下の妹君であっても、他の女性を妻にするなど考えられません」
ベルナドットは断ります。賢明な判断です。
この決断には反面教師がいたかもしれません。他ならぬナポレオンです。
ナポレオンは深く愛する糟糠の妻にして、国民から絶大な人気を誇るジョゼフィーヌがおりましたが、1801年に子ができないことを理由に離婚しているのです。
そして、ヨーロッパ王室の血を引く世継ぎを作るため、各国の王室に縁談を持ちかけたのでした。
が、ロシアはじめことごとく断られ、やっと迎えることができたのは、オーストリアの皇女マリー・ルイーズです。
マリー・アントワネットを「オーストリア女」と罵り、断頭台に送り込んだフランス国民にとって、そのトラウマを刺激する新皇后は好かれるはずもありません。
ナポレオンはこの離婚と再婚によって国民からの人気を大きく落としていたのです。
勝手知ったるフランス軍の弱点をつき勝利に導く
ナポレオンもベルナドットも、低い身分の出から今の地位に登った存在です。
国民の人気を失えば、その地位は危ういもの。どんなにうまい話であっても、自分の高潔なイメージに泥を塗りかねない離婚と再婚は、彼にとっては避けるべき陥穽でした。
彼にとっては、ナポレオンが断られたロシア皇女との縁談を、持ち込まれただけでも名誉なことでした。
1812年、ベルナドットのアドバイスも功を奏し、ロシア軍は侵攻してきたフランス軍に壊滅的な打撃を与えます。
もはやナポレオンの天下は下り坂でした。
ヨーロッパを苦しめたナポレオンも、ついに終わりが見えて来たぞ!
全ヨーロッパが満を持してフランスに反撃の牙を剥いたとき、ベルナドットもかつての母国に刃を向けました。
スウェーデンは対仏同盟に参戦したのです。
しかし、あのアレクサンドル一世をも含めて、諸国の首脳はベルナドットに冷たい目を向けます。
「今でこそスウェーデン王太子だけども、元はフランス人だ。彼には本気でフランスと戦う気はあるのだろうか?」
よっしゃ、見せてやりますよ、スウェーデン王太子の本気を!
ベルナドットは、勝手知ったるフランス軍の行動パターンを各国に伝えるのです。
そして1813年、ライプツィヒの戦いを迎えます。
諸国民の戦いと呼ばれた反ナポレオン戦争は、今ここに決戦のときを迎えました。
プロイセン、オーストリア、ロシア、そしてスウェーデン。四カ国の軍を束ねるのはベルナドットです。
ベルナドットはフランス軍の行動パターンを読み、半年間の激戦ののち、敵を罠に誘いこみ、見事勝利をおさめたのでした。
「いずれ王位を追われろ!」と、ナポレオンの願い虚しく……
三万の捕虜を残しフランス軍は撤退。ベルナドットは祝杯をあげます。
いやぁ、ナポレオンを倒して勝利の酒もうまい♪
もちろんナポレオン側は納得ができなかったでしょう。
「あいつ、フランス軍で俺の部下の時は弱かったよな。なんで今こんなに強いんだ!」
そりゃ俺の使い方が悪かっただけだろ!とベルナドットなら思うところでしょうか。
味方では頼りなく、敵にすると強いというのはある意味最悪ですよね。
ベルナドットは、フランスにとどめを刺す過程において、デンマークからノルウェーを割譲させることにも成功。スウェーデン国民は、優れた王太子を迎えたことにさぞかし満足したことでしょう。
そして1818年2月、ベルナドットは即位しカール14世ヨハンとなります。統治に意欲を見せる彼は、その後も名君として慕われました。
「あんな奴、どうせ長続きはしないさ。いずれ王位を追われるに決まっている!」
1815年、ワーテルローの戦いで完敗し、皇帝の座を追われていたナポレオンは、流刑地セント・ヘレナ島でそう毒づきました。
しかし、ベルナドットは1844年に81才という、当時としては驚異的な高齢で崩御するまで、ナポレオンを倒し、国を豊かにした名君として、国民に慕われるのです。
かつての祖国フランス、特にナポレオン好きからは「石川数正と小早川秀秋を足して、さらに一万をかけたくらい」嫌われていますが、スウェーデンの名君という評価からすれば大したことではありません。
危険な情事に耽るよりお喋りや手芸を楽しむ方がいい♪
かようにベルナドットが波乱万丈の人生を送る一方、デジレはどうしていたのでしょうか。
ドラマや小説のヒロインなら、元婚約者と夫との板挟みになって胸を痛めるところでしょうが、特にそんなことは感じられません。
彼女がフランス崩壊という状況下、真剣に取り組んでいたのは姉・ジュリーの安全確保でした。
フランス革命期から第一帝政において、女性たちも数奇な運命に巻き込まれたものの、彼女はそんな中、極めてマイペースに生きていました。
夫とナポレオンという巨大な男に挾まれ、両者から「コイツが情報を漏らすのでは?」と疑いの目で見られても、彼女はとことんマイペースで、うまく泳ぎ回るのでした。
新婚当初こそ軍務で不在になりがちな夫を慕い、悲しんでいたものの、その寂しさを姉や友人との交際で紛らわせることを学びます。
ナポレオン本人はじめ、当時の軍人は留守中の妻の不貞行為に悩まされる男が多かったのですが、デジレの場合は違います。
危険な情事に身を任せるより、気の合う女友達とのおしゃべり、手芸を楽しむ方が彼女の好みにあっていたのです。
政治に口を出すこともなく、野心に燃えて夫を焚きつけることもなく。興味関心があるのはいかに楽しく生きるか。それと、家族のことでした。
こう書くとなんだかつまらない無個性な女性のようですが、ちょっとお嬢様風で子供っぽいところはあるとはいえ、なかなかチャーミングな人でした。
人と争うようなところもなく、元婚約者を掠奪したジョゼフィーヌとも関係は悪くはありません。
ナポレオンの母や妹がジョゼフィーヌを露骨に嫌いましたが、デジレはそんなことはしません。
しかもデジレの子・オスカルの妻はそのジョゼフィーヌの孫でこれまた同名のジョゼフィーヌ(ややこしくてすみません)なのですが、この嫁とも良好な関係でした。
そんな性格のためか、劇的な生涯のわりに、フィクション等ではあまり日の目が当たらないようです。
ストレス発散をうまくできていたのか、彼女はこれまた驚異的な83才という長寿を保ち、1860年まで生きたのでした。
マルセイユのお嬢様から王妃へ、幸福なシンデレラストーリーでした。
デジレは死ぬまでこっそりとナポレオンの恋文を保管していたそうです。
愛が残っていたのか、それともフランス皇帝の遺品として珍しかったのか。
ベルナドットとデジレの子孫によるベルナドッテ王朝は、断絶を経験することなく、現在に至るまで続いています。
ボナパルト家の天下は崩壊し、彼らの王朝よりはるかに歴史が長い、ハプスブルク家やロマノフ家ですら玉座を追われました。
「外国人の、しかも平民の王朝なんて、どうせ長くは持たないだろう」
そんな予想に反して王家は栄え、彼らの子孫はノーベル賞授賞式のプレゼンターを務めているのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
藤本ひとみ『ナポレオンに選ばれた男たち―勝者の決断に学ぶ』(→amazon)