マリー・アントワネット

マリー・アントワネット/wikipediaより引用

フランス

マリー・アントワネットの「パンがなければ発言」はウソ!処刑の理由は曖昧だ

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フランス国民はオーストリアが嫌い

国民がマリー・アントワネットを罵る言葉に

「オーストリア女」

というものがありました。

彼女が嫌われた理由はいろいろありますが、その中でどうにもならない一つが「オーストリア出身」ということでした。

偉大な女帝であるマリア・テレジアの末娘として生まれたマリー・アントワネット。

当然ながら恋愛結婚であるはずがありません。

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表向きはオーストリアとフランスの関係改善を願って――と美辞麗句が並べられルイ16世のもとへ嫁ぐことになりました。

実際のところは“意志薄弱と思われたルイ16世”に対してマリー・アントワネットが政治的影響力を与えることを期待していた狙いがあったのです。

こうしたオーストリア側の思惑に反し、ルイ16世は政治見識を持った君主であり、妻の介入を最小限にとどめました。

ルイ16世も「暗君」として知られますが、マリー同様に誤解されがちで、実は賢帝だったのでは?という評価に最近ようやく見直されるようになりつつあります。

それでもともかく、世間の目から見ればマリー・アントワネットは政治に口を出し、夫を尻に敷く妻に見えました。早い話、フランスよりオーストリアの利益を優先するように思われたのです。

王妃となったマリー・アントワネット/Wikipediaより引用

かくして、国になじまない「オーストリア女」こと、マリー・アントワネットは憎まれるようになり、憎悪が頂点に達したのが1791年の【ヴァレンヌ事件】でした。

革命によって不自由を強いられていた国王一家がパリを脱出。

ベルギー近郊の村へ逃亡しようとしたのですが、途中ヴァレンヌという場所で捕まり、パリへ戻されてしまうのです。

この計画をマリー・アントワネットが主導していたころから、国民は彼女がルイ16世をそそのかし、外国へ脱出してフランスを攻撃しようとしたのだと考えました。

フランス国民の害を為す「オーストリア女」としての悪評は頂点に達し、ついには処刑台へ。

ギロチン台へ連れて行かれるマリー・アントワネット/Wikipediaより引用

刑を執行したのは、歴史上2番目に多くの首を落としたことで知られるアンリ・サンソンでした。

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こうして振り返ってみると、あまりに酷い話ですが、一体なぜこんなことになってしまったのか?

マリー・アントワネットの出自以上に本質的な問題だったのが、彼女が女性であったことでした。

 

政治に口を出す女は嫌われる

当時のフランスでは、女性が政治的影響を持つことが嫌われました。

そんなところへきて「オーストリア女」のマリー・アントワネットが夫を尻に敷いているという噂が流れたため、世間は彼女を冷たい目で見るようになったのです。

フランス革命期は、政治的に活躍した女性が数多くいました。

そもそも革命の口火を切ったヴェルサイユ行進は、パンを求めた女性たちが起こしたもの。革命が掲げた自由と平等は女性にも適用されると胸を躍らせ、女性たちは理想と政治的な主張を掲げたのです。

武器を取り兵士として従軍しようとした女性もいました。

しかし、革命が進むにつれ、彼女らは逮捕されたり処刑されたりして、姿を消してゆきます。彼女らに男性が言い放った言葉は辛辣でした。それは……。

「女性たちは家庭で夫を支え、子供を育て、政治に口を挟もうなどとは思うなよ」

革命の嵐が吹き荒れ、恐怖政治が一段落したあと、崇高な理想に燃えた政治家はほとんど残っていませんでした。

生き延びた政治家たちの大半は堕落し、贅沢三昧にふけりだします。

その周辺に残ったのは、政治的な野心とは無縁、贅沢で享楽的な「メルヴェイユーズ」(伊達女)と呼ばれる美女たちでした。

その中には、のちのナポレオンの妻となるジョゼフィーヌもいました。

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