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築山殿(瀬名姫)が家康に送った最後の手紙 なぜ彼女は殺されたのか?

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徳川家康の正室・築山御前を乗せた輿は岡崎を出ると、三遠国境の本坂峠を越えて、三ヶ日へ。
そこから船に乗り、難所・猪鼻瀬戸を通り抜けて、猪鼻湖から浜名湖へ漕ぎ出すと、歌枕・浜名橋の黒木の橋桁を思い浮かべながら宇布見へ向かった。
入野川を遡り、入野之江(現・佐鳴湖)の北東、小藪村で下船。
ほどなくさしかかった大等ヶ谷(現・御前谷)で、野中重政が槍を輿に突き刺す。
谷中に、断末魔の叫びが響き渡った。
『築山御殿御伝記』意訳 ※1記事末に原文掲載(以下同)

佐鳴湖(三ッ山の対岸から撮影。手前は竹村広蔭選定の「佐鳴湖八景」碑)

佐鳴湖(三ッ山の対岸から撮影。手前は竹村広蔭選定の「佐鳴湖八景」碑)

徳川家康の正室・築山殿はなぜ殺されなければならなかったのか?
一般的に彼女の評価は、いわゆる悪女に近い。
家康との間に生まれた長男・信康が自害へ追い込まれ、彼女もまた冒頭で記したように家康の家臣に殺されている。
原因は、信康の妻であり、織田信長の娘であった徳姫に「武田との内通を密告」されたせいだというが、果たして彼女自身はどのような人物であったのだろうか。
おんな城主直虎』人物事典の第20回は、若き家康の正室であった築山殿(瀬名姫)にスポットを当ててみよう。

 

家康最初の妻は「肌の白い超絶美人」だった!?

徳川家康の正室は、家康と結婚して岡崎市の築山(地名)に住んだことから「築山殿」と呼ばれている(岡崎市では「駿河御前」、浜松市では「築山御前」)。

後の将軍正室であるからして、その立場は絶大なものだったと考えたくなるが、女性であったがゆえに生年も享年も本名も不明。肖像画も木像もないながら、「肌の白い超絶美人」だったと伝わる。三ッ山を背景に描かれた「築山御前像」(西来院蔵)は、大正から昭和時代に活躍した画家・鈴木白華の創作で、古い絵の模写ではない。

彼女は幼名も不明で、「阿鶴」や「鶴姫」と推定されている。
家康の初恋相手がこの鶴姫とも、はたまた亀姫とも、お田鶴の方(後の引馬城主・飯尾連龍室)ともいわれているが、家康が、築山殿とは別の初恋相手から娘に「亀姫」と名付けたとして、夫婦仲が悪くなったという伝承もある。

いずれにせよ、彼女の父は瀬名氏(後に関口氏の養子になって関口と名乗る)であるので、ここから先は便宜上、出身家名を使って「瀬名姫」と呼ばせていただく。

瀬名2丁目の西奈生涯学習センター「リンク西奈」(この南側一帯(200m☓200m)が瀬名氏居館)から北を撮影

瀬名2丁目の西奈生涯学習センター「リンク西奈」から北を撮影・この南側一帯200m四方が瀬名氏居館とされる

 

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竹千代と三河を手中に収めようとする義元の政略

「瀬名氏」とは、もともとは今川氏の出である。
「天下一苗字」ルールのため、「今川」と名乗れるのが宗家(駿河今川氏)のみというルールに従い、彼らの本拠地(静岡県静岡市葵区瀬名)の地名から「瀬名」と名乗っただけであって、実際は遠江今川氏の傍流。

瀬名姫の父は、今川義元の父・氏親からの偏諱で「親永」と改名するなど宗家の覚えもよく、その妻は今川義元の妹であった。
つまり瀬名姫は、義元の姪であり、同家の姫(プリンセス)と言える。

光鏡院(瀬名1丁目)の「今川陸奥守源一秀公供養塔」

光鏡院(瀬名1丁目)の「今川陸奥守源一秀公供養塔」・瀬名氏の祖である

そんなお姫様が、三河から来た人質・竹千代(後の徳川家康)と結婚することになったのだから、高いプライドが傷つけられる一方、逆玉の竹千代は、見目麗しき今川家の姫と結婚できて天にも昇る思い――小説などではそんな風に描かれることが多い。実際、身分的には不釣り合いなカップルであった。

にもかかわらず今川義元がこの婚姻を押し進めたのは、竹千代と三河国を同時に傘下に収める腹積もりであったからだろう。義元は、竹千代に「元」の一字を与えて元服させ松平元信(後の元康)と名乗らせた。そして若い2人の間には、永禄2年(1559年)3月6日に嫡男・信康、翌・永禄3年(1560年)6月4日に長女・亀姫が生まれる。

一男一女の子を残し、まずは御家安泰。しかしコトはそう単純ではなかった。

亀姫が生まれるわずか2週間前、桶狭間の戦いが起きていたのだ。この戦いが、瀬名姫にとって二重のショックとなったのは、後ろ盾の義元が殺されただけでなく、その直後の夫・家康の行動にあった。

家康はこのとき、駿府に戻ってくるのではなく、空き城となった岡崎城に入ってしまったのだ。これにより彼女とその子どもたちは、今川の人質同然の立場にさせられてしまったのである。

 

元康の独立に怒った氏真は、松平の人質を槍で串刺し

徳川側の史料によると、岡崎城に入った松平元康は「今川と織田の間に松平という壁を作った。この壁が破られないうちに今川義元の仇を討つように」と何度も今川氏真に催促したという。
しかし、氏真が動かない。だから仕方なく今川を見捨てて独立したとある。
確かに表向きはそのような言動をしたのかもしれない。
されど「今川氏(人質生活)から離れて三河に戻ろう」という気持ちは以前から持っていたのだろう。

いずれにせよこの独立に怒った今川氏真は、吉田城代・小原鎮実(おはら しずざね)に命じて、松平の人質13人(11~14人とも)を城下の龍拈寺(りゅうねんじ)口で、尻の穴から槍を入れて串刺しにした。

「十三本塚」の案内板

「十三本塚」の案内板

この酷い対応には、さすがの元康もガチギレ。東の今川氏真を完全に見捨て、西の織田信長と手を組もうとするが、そのためには高い壁を乗り越えねばならなかった。
家康の祖父である松平清康や父の広忠が、織田信秀(信長の父)と長年の宿敵関係にあり、更には元康自身も織田信秀のもとで人質生活を送っていたことがあり、織田家とはそうやすやすと同盟締結に至りそうになかったのである。

しかし、元康の伯父・水野信元や、実母・於大の方の再婚相手・久松定俊(後の俊勝)の尽力があって、元康は信長の居城・清洲城を訪問。以降、戦国時代において珍しく強固な「清洲同盟」(「織徳同盟」「尾三同盟」とも)が結ばれたのである。
締結日については、『信長公記』など第一級史料に掲載がないのが不思議だが、永禄4年(1561)9月とも、永禄5年(1562)1月ともいう。

 

夫の清洲同盟を遠く駿府の地で聞いた瀬名姫の心境とは

この同盟締結を遠く駿府の地で驚き、悲しんだのは瀬名姫である。

──夫が、今川家の仇・織田信長と同盟?
──これで夫は今川と切れた。私も離縁される?
今川寄りの妻子(築山殿と長男・信康、長女・亀姫)は「桶狭間の戦い」以降、駿府に残されたままで人質状態になっていた。

ほどなくして永禄5年(1562年)、元康は依然として今川傘下にあった三河国内の鵜殿長照(うどの ながてる)を攻めた。今川義元の妹の子であり、桶狭間の戦いの時には、元康が兵糧を入れて助けた大高城代であった。
このとき長照は愛知県蒲郡市神ノ郷町にある「上ノ郷城」におり、力攻めではなかなか屈しない同城に対し、元康は忍者を使って火をつけさせた。その様子を腰掛岩に座って見下ろしていたという。
そして首尾よく長照の子(氏長・氏次兄弟)を生け捕りにすると、駿府の妻子(築山殿・信康・亀姫)と人質交換することにした。

土塁の上の「上郷城址」碑

土塁の上の「上郷城址」碑

家康公の腰掛岩

家康公の腰掛岩

しかし、実際に人質交換するにあたっては、ひとつ問題があった。
「桶狭間の戦い」の時に母の胎内にいた亀姫が生まれており、交換には3人必要だったのである。

家康は、実母・於大の方に頼み、再婚相手との間に儲けた松平康俊(まつだいら やすとし)を差し出させた。
交換は吉田湊で行われ、妻子3人は船で岡崎城へ。この時、交換は鵜殿兄弟と信康・亀姫との2人だけで、康俊と瀬名姫の入れ替わりは1年後だったとする説もある。

善照院殿泉月澄清大居士(松平康俊)の墓

善照院殿泉月澄清大居士(松平康俊)の墓

【参考】上ノ郷城跡を愛する会

※人質として駿府にいた松平康俊は、武田氏が駿府を攻めた時に捕えられ、人質として甲斐国で監禁。雪の降る夜に脱走したため、足の指全てを凍傷で無くしてしまう。それを見た於大の方は「今後、自分の子は人質に出さない」と決めたそうだ。
後に豊臣秀吉が人質を要求してきた時、家康は於大の方に断られ、結果、次男・秀康を秀吉の養子(実質的には人質)に差し出したため、三男・秀忠が徳川二代将軍となっている。

 

家臣串刺しに続き、今度は瀬名姫の両親が自害に追い込まれる

大事な人質をまんまと家康に取り戻され、今川氏真は怒り心頭に発したのであろう。
完全に歯止めが効かなくなったようで、永禄5年(1562)、関口屋敷において瀬名姫の両親を自害させる。
「娘(瀬名姫)の夫(松平元康)が今川氏を裏切った罪」あるいは「娘婿に同調して今川氏を裏切る可能性がある」というのがその理由だ。

最近の学説では、織田信長を諌めようと自害した平手政秀のように「今川氏真を諌めるための自害だった」という考え方もあるが、ともかく瀬名姫両親の自害は、夫・松平元康と無縁ではない。
そして元康は、今川氏との縁が完全に切れると、永禄6年(1563)、今川義元から貰った「元」の字を捨て、「元康」から「家康」に改名した。

総持尼寺と守護社・築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)

総持尼寺と守護社・築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)

駿府の人質生活から解放され、信康と亀姫は岡崎城へ移った。その一方で瀬名姫は一時的に軟禁生活を余儀なくされる。

それが彼女が「築山殿」と呼ばれる所以にもなっており、岡崎城から離れた「築山」(菅生郷築山)に住み、「築山殿」「築山御前」と称されるようになった(これ以前は「駿河の御前」だった)。
あるいは別の説では、家康の父・松平広忠が、水野氏が今川方から織田方に移ったため妻・於大の方を離縁したように、今川方から織田方に移った家康も瀬名姫を離縁し、息子の信康が彼女を呼び寄せて「築山」に住まわせたので「築山殿」と呼ばれるようになったともいう。
更には好色で有名な朝倉義景の側室になった後、信康に引き取られて築山に住んだから築山殿となった説なども。
※築山の位置は、岡崎城の籠田総門付近にあり、人々が出入りするサロン(情報交換の場)になっていたとされる。そこで「軟禁状態」だったと目される

信康像(清瀧寺蔵)と「信康さん」(映画「反逆児」上映会にて)

信康像(清瀧寺蔵)と「信康さん」(映画「反逆児」上映会にて)

 

夫と姑にキレた徳姫が父・信長へ「12ヶ条の弾劾文」

元亀元年(1570年)6月、家康は、元服した信康に岡崎城を譲り、自身は浜松城へ移った。

城主になった信康は、母・築山殿を軟禁状態から解き、岡崎城内の東曲輪に入れたという。
これが大いなる悲劇の火種になった。
岡崎城には、松平家代表・於大の方(家康の実母)、今川家代表・築山殿(家康の正室)、織田家代表・徳姫(信康の正室)の3人の女性が揃ってしまったのである。

信康の妻・徳姫は、織田信長と生駒お類の長女であり、永禄10年(1567)5月27日に岡崎城へやってきていた(このとき2人は9歳)。
ただでさえ難しい嫁姑の関係。築山殿と徳姫との溝は、日に日に深まっていく。築山殿にとって徳姫は、宿敵・織田信長の娘であり、現代の常識から見ても好きになれるワケがない。

そして天正7年(1579年)8月、夫・信康とも仲が悪くなった徳姫は、ついに父の信長へ「徳姫12ヶ条の弾劾文」を届ける。その内容は……。

 

徳姫から送られた弾劾文は、築山殿と信康親子を中傷したもので、古文書はまだ発見されていないが、復元すると次のようになるという。

①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。
②築山殿は、女子しか生んでない私の事を「役立たず」と言う。
③築山殿は、男子は妾に生ませればよいと、武田関係者の妾を用意した。
④築山殿は、浮気相手の減敬を通して武田と繋がっている。
⑤武田勝頼は、信康を味方にし、織田・徳川滅亡後は信康を領主とし、築山殿は武田の武将・小山田と結婚させると言っている。
⑥信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれた侍女を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を裂いた。
⑦信康は、踊りが好きで、踊りが下手な者を射殺した。
⑧信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した。
⑨武田勝頼は、信康を味方にしたいと言っているので油断しないように。
⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。
⑪築山殿は、武田勝頼に「(今川義元を殺した)織田信長と(両親の自害の原因を作り、さらに今川家を滅亡させた)徳川家康を殺して欲しい」と言っている。
⑫近頃、岡崎城下で踊りが流行して、風紀が乱れているのは、城主の信康が愚公だからだ。
※「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)※2

言ってみれば「築山殿は好色で派手」「信康は残忍な愚公」という愚痴であるが、信長にとっては到底無視できない箇所があった。
「信康が武田と組んで、信長や家康を殺そうとしている」という点である。
これにブチキレた信長が「信康を殺せ」と家康に命じ、更には助命嘆願のため浜松城へ向かった築山殿も討たせたという。

──あくまで家康は、信長の命令で泣く泣く妻子を殺した。
これが通説である。
実際、その証拠(「築山殿謀反の誓書」※3と武田勝頼が築山殿に出した返信※4)が、築山殿の秘密の文箱から見つかったとされている。

しかし、である。いかにもな証拠が揃っている状況が逆に怪しいことから、最近になって、
──妻子を殺そうと思ったのは家康であり、信長が承認した。
そんな説が注目を浴びている。

この説の論者は、妻子殺害のバックボーンを、浜松に連れて行ってもらえなかった岡崎の徳川家臣と、浜松の徳川家臣の分裂を治めるためとも、家康と信康の不和ともする

 

瀬名姫の死 諸説と大きく食い違う浜松での伝承

では築山殿の最期はいかなる状況だったのか? 実は、これがよく分かっていない。

①岡崎城から浜松城に向かう輿の中で、野中重政に槍で刺された
②岡崎城から浜松城に向かう途中、三ッ山で野中重政に首をはねられた

主に2つの説が挙げられ、小説や演劇では①のように描かれることが多い。輿から引きずり出された築山殿は、大声で泣きわめき、呪いの言葉を吐くも、野中重政に首を切り落とされたという話である。

一方、②の築山殿は、凛として落ち着いているのが特徴だ。
小藪村で船から降りると「三ッ山に歓迎の宴の用意がしてございます」と言われて、「夫が出迎えに来てるかも」と思って輿に乗り、降りるとそこには白い横断幕……。全てを悟った築山殿は自害し、野中重政が介錯した。

片方は見苦しく、片方は実に潔い。
一体どちらが本当の彼女なのか。

実は、そもそも浜松の伝承では、まったく異なる話が伝わっている。
「岡崎城から浜松城に向かう途中」で殺害されたのではなく、築山殿は浜松にいたとしているのだ。背景にあるのは、徳川家康が、遠江侵攻時から築山殿を一緒に連れてきていたとする話で、
──女性を戦場には連れて行かないでしょ?
と反論されそうだが、徳川家康は、阿茶局や、お梶の方(男装・騎乗)を同行させた実績もある。

実際、今川義元の姪である築山殿を遠江侵攻時に連れて行くのはメリットがあり、
①自分は遠江国を領する今川家の姫の夫である
②妻の両親は今川氏真に自害させられた。これは敵討ちである
と正当性を主張することができたという。

そして、引馬城を守るお田鶴の方を討ち終えると、築山殿は塚を築いて自ら100本余の椿を植えたとされるが、そこで彼女が病気になり、名医として有名な元慶が呼ばれるが、これがよくなかった。
築山殿と元慶が不義密通をしたのである。
怒った家康は、三ッ山での宴会中に、野中重政に殺させた――というのが浜松に伝わる顛末である(『遠江古蹟圖會』「築山御前の墓」)。

 

首は、平岩親吉が織田信長に見せた後、岡崎に埋められた

築山殿が首を落とされたことに関係する「築山御前遺跡」とは、次の4箇所のことである。

①気落し坂(三ッ山から太刀洗の池に下る坂)
②太刀洗の池(野中重政が槍や刀についた血を洗い流した池)
③御前谷(旧・大等ヶ谷。築山御前の墓である胴塚があった場所)
④比丘尼谷(築山御前の墓の面倒を見る比丘尼が住んでいた場所)

なぜか三ッ山は入っていない。
築山殿の首が落とされたのは、三ッ山ではなく太刀洗の池の畔ともされ、「気落し」(気絶)という名前から、この坂の途中で絶命したと想像される。
太刀洗の池で刀(村正ではなく相州貞宗)を洗うと池の水が真っ赤になり、不義密通の罪人であるので首のない胴体を埋めて塚とし、上に目印として石地蔵が置かれたという。
その胴塚の世話をする比丘尼がいたという。

太刀洗の池(現在は埋め立てられて駐車場)

太刀洗の池(現在は埋め立てられて駐車場)

築山殿の首は、信康の傅役・平岩親吉が織田信長に見せ、首実検をした後、岡崎に埋めたという。
罪人(謀反人)であるから、墓もなければ、菩提寺もなく、ましてや法名もない。能見原(岡崎市能見町一帯)に埋めて塚とし、目印に榎が植えられ、石地蔵が置かれた。
これが「築山殿の首塚」である。

後に本多広信が、築山殿の菩提寺・梅築山西光院を建て、「西光院殿政岸秀貞大禅定尼」という法名を贈った。西光院は、能見山松応寺(岡崎市松本町。能見町の南隣)の塔頭となったが、明治に入ると廃寺寸前となり、石地蔵の首は落ち、榎の巨木だけがあったという。
見かねた智厭尼が改修し、この「首切り地蔵菩薩」を本尊として祀ったのが地蔵院(岡崎市福寿町)である。現在の本尊は阿弥陀如来に変わり、寺域が狭くなって首塚は均され、更に榎も切られて道路となっているが、築山殿のご位牌は保管されている。

護法山地蔵院の腹篭地蔵尊(中央の厨子の中)

護法山地蔵院の腹篭地蔵尊(中央の厨子の中)

「地蔵院」と聞くと、浜松市民は、「護法山地蔵院」(浜松市南区高塚町)が頭に浮かぶが、築山殿の菩提寺ではない。築山殿が肌身離さず持っていた石を地蔵尊の胎内に入れ、「腹篭地蔵尊」として位牌堂に安置している。

 

家康の特命を受けた石川数正が鎮魂に奔走す

築山殿と信康は、さぞかし無念の死であったろう。
両者は死後、怨霊となったらしく、岡崎では疫病が流行したり、火事が起こったりした。

そこで家康から「鎮魂せよ。しかし、罪人であるから、墓もダメ、菩提寺もダメ」という特命を受けた石川数正は、築山殿のために築山神明宮(ご祭神:天照大神)、信康ために若宮八幡宮(ご祭神:仁徳天皇)を建てたという。もちろん、ご祭神の天照大神と仁徳天皇は表向きで、実際は築山殿と信康である。

築山神明宮は、祐傳寺(岡崎市両町2丁目)の境内、通称「神明の森」に建てられたが、正保3年(1646)、当時の岡崎城主・水野忠善(三河岡崎藩の初代藩主)が、そこを足軽屋敷にしたので、八柱神社(岡崎市欠町石ケ崎)に合祀された。八柱神社のご祭神は、八王子(天照大神と素戔嗚尊が行った誓約(うけい)で生まれた五男三女神の8柱)であり、その親神(天照大神)を合祀しても差し支えない(後に信康の霊も合祀された)。

祐傳寺と八柱神社の石塔は「供養塔」であるが、「首塚」と呼ばれている。

祐傳寺の首塚

祐傳寺の首塚

八柱神社の首塚

八柱神社の首塚

 

99年後の百回忌にようやく法要が営まれた

一方、首のない胴体は、御前谷に埋められたという。
罪人であるから、墓もなければ、菩提寺もないのは首塚のときと扱いは同じ。塚の上に石地蔵が置かれただけで、比丘尼が花を添えていたという。

しかし延宝6年(1678年)8月、ようやく罪が許されたのだろうか。
「百回忌大法要」が開かれ、胴塚が掘り起こされて骨が取り出され、西来院に埋められると墓が建てられた(一回忌法要は死の直後に執行されるので、百回忌法要は死の99年後)。

このとき赤く染まっていた「太刀洗の池」の水が99年ぶりに清く澄んだことから、「清池院殿」(清池院殿潭月秋天大禅定法尼)という法名が新たに追号されたという。

築山殿の霊廟「月窟」の築山殿の墓

築山殿の霊廟「月窟」(築山殿の墓)

「月窟」の名の由来は、李白の詩「蘇武」の「渇飲月窟水」(渇しては月窟の水を飲み)である。匈奴に捕えられ、穴倉に飲食物を与えられずに捨て置かれたが、雪を飲料水、旗の飾りの毛を食料として生き長らえたという話だ。
築山に幽閉されていた築山殿の「潭月」(「潭」は「池」の意)のイメージだと言うが、今川や武田の人質であった松平康俊の「泉月」のイメージにも重なる。
現在、松平康俊の墓は月窟廟の横にあるが、本来、月窟廟は松平康俊の霊廟であり、百回忌の時に改装されて、築山殿の霊廟になったのではないだろうか?

「月窟」は、「ミニ東照宮」とも言うべき絢爛豪華な建物だったが、太平洋戦争の空襲で全焼。墓石も倒れて割れてしまい、戦後、某婦人(匿名希望)が全額負担して霊廟が再建され、割れた墓石はコンクリートで固められた。

 

なんと生存説も!? 寿桂尼の墓の世話をしていた?

源義経がチンギス・ハーン(成吉思汗)になったとか、明智光秀が天海和尚になったとか、真田幸村は豊臣秀頼と共に薩摩国に逃げたとか。世の中に「生存説」というものは多々ある。

ご多分に漏れず、築山殿にも信康にも。
身代わりとなって殺されたのは殉死したとされる侍女・河井某で、築山殿は生きており、寿桂尼(今川義元の母)の墓の世話をしていた比丘尼が、実は彼女だという。

龍雲寺の寿桂尼の墓(右)と黒木尼の墓(左

龍雲寺の寿桂尼の墓(右)と黒木尼の墓(左

寿桂尼の墓は、彼女の菩提寺の龍雲寺(静岡市葵区沓谷3丁目)にある。
龍雲寺は、武田信玄が駿府侵攻時に全焼。徳川家康は、駿府に入ると、跡地に比丘尼屋敷を建てた。
比丘尼屋敷には「今川ゆかりの高貴な老尼御前」が住んでいたという。その老尼御前を築山殿だとする説(寿桂尼の横の墓を築山殿の墓とする説)があるが、実際は黒木尼(寿桂尼の姉妹)であろう。

 

可愛げはない手紙 家康は「病んでる。重い」とそっけなく

築山殿は悪女だったのか?
私が思うに、ただ単にプライドが高くて、素直になれない、本音を語れないお姫様だったのではないか?
それがなぜ殺されねばならなかったのか?
残念ながら、理由は今なお不明である。

最後に、築山殿が家康に出した手紙を載せておこう。

我身こそ実の妻にて、御家督三郎ためにも母なれば、あながちに御賞翫あるべき事なリ。そのうへ吾父刑部どのは、御身故に失はれまいらせたり。其娘なれば、かたがた人にこえて、御憐みあらんとかねては思ひ侍るに、思の外引かへてかくすさめられまいらせず。郭公の一声に明安き夏の短夜だに、秋の八千夜とあかしわび、片敷袖のうたた寐に夢見るほどもまどろまねば、床は涙のうみとなり、唐船もよせぬべし。いまこそつらくあたらせ給ふとも、一念悪鬼となり、やがて思ひしらせまいらすべし。

「私こそが実の妻です。家督を継いでいる三郎の母でもあります。もっとご賞玩(しょうがん)くださってもよろしいではないですか。父の関口刑部少輔(せきぐちぎょうぶのしょうゆう)は、あなたのために命を落としました。その娘である私に情けをかけるどころか、カッコウが鳴くような寂しい場所に追いやりました。床は涙の海となりましたが、唐土(もろこし)の舟も寄らないばかりか、だれ一人として私を気にかけてくれません。執念深いとお思いでしょうが、一念の慈鬼(じき)となり思いを知らせます」(磯田道史『ちょっと家康み』「第12話 夫にあてた手紙」 (「広報はままつ」2015年9月号)より)

プライドをかなぐり捨てて書かれたかのような筆致に心を打たれる反面、父・広忠が今川に助けられた恩、人質待遇とはいえ今川に育てられた恩を忘れ、さらに今川の姫にして正室の自分をも置き去りにして、どんどん今川の敵である織田信長に接近していく夫へのいらだちも感じられる。

この手紙を読んだ家康は、いかに返信したのだろう。
「悲しませてスマン」と、築山殿をすぐに浜松に呼び寄せたのか?
否。
──いとどわづらはしく、おぞましさにおもひ給ひしなるべし。

今風に言うならば、
──病んでる。重い。
である。
家康は、築山殿のヤンデレぶりを「可愛い」ではなく、「いとど」(より一層)「煩わしい」「おぞましい」と感じ、さらに遠ざけたのだった。
いつの世も、一度壊れた男女の仲は、修復が難しいものである。

 

おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

【記事末資料】

※1『築山御殿御伝記』
「ゆきゆきて、遠つ淡国の国さかひ、本坂の関、うちこゆる。いつか乗りけり、三ヶ日や、昨日の淵は今日の瀬と、かはるならひに吹きよする、みる目はいかに猪の鼻の渡りに舟をやる水と、身の行末ぞたのみなく、わたしし黒木中絶へて、名のみぞ残る浜名ばし、こもれるうきを引く細江、やがて危きふち郡入野の川のひむがしの岸辺に深き大等が谷、浮び瀬のなきところにぞ、御舟は横に着にける」

 

※2「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)

一、築山殿悪人にて三郎殿と我身の中様々讒し不和になし玉う事
一、我身女子斗産たる事何の用にかせん大将は男子こそ重寶なれば妾を多置て男子を設たまへと築山殿の勧によりて勝頼が家人日向大和守が女を呼で信康の妾とし甲州へ一味する事
一、築山殿甲州の唐人醫師減度と言ものを密夫として剰へ彼を使として勝頼に一味し信康を申勧め甲州方の味方として信長公家康公を亡し信康には父の所領の上に織田家の知行の國を進せ築山殿をば小山田という侍の妻とすべし約束の起請文を書て築山殿へ返事
一、三郎殿常々物荒く御座し我身召仕みの小侍従と申女を我が目の前にて差殺し其上にて彼の女の口を引さき玉ふ事
一、去頃三郎殿おどりを好て見玉ふ時踊子の装束不宜又踊様あしくとて其まヽ踊子を弓にて射殺し玉ふ事
一、信康殿鷹野に出玉ふ折ふし道にて出家に出合ひたるに今日殺生のあらざるは法師に逢ひたる故なりとて彼法師の首に縄を付け力皮とやかに結付馬馳せつすり殺し玉ふ事
一、勝頼が文の中にも一味したるとなし何としても勧め味方にすべしとの事に候へば御油断あらば末々は悪敵に与し可申候存前申上候 以上

 

※3「築山殿謀反の誓書」

三郎信康は我が子なれば、如何にしても説き付け武田方の昧方とせん、徳川・織田の二将は妾に計あり、必らず倒すべし、此のこと成就せば家康の旧領はそのまま信康に賜わりたし、又、妾をば君か被官の然るべき者の妻とし給え、此の事業に肯諾を得ば速やかに誓書を賜わるべし、妾も速に計る所あるべし。

 

※4 武田勝頼が築山殿に出した返信

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今度減敬に被仰越神妙に覚へ候。何共して息三郎殿を勝頼が味方に申進め給ひ、謀を相構え信長と家康を対立し給うに於ては、家康の所領は申すに及ばず、信長の所領の内、何れなりとも望み任せて一ヶ国、新恩として参らすべく候。次に築山殿は幸い郡内の小山田左兵衛と申す大身の侍、去年妻を失ひ、やもめ住居にて候得ば、彼が妻となし参らすべく候。信康同心の御左右候はば、築山殿をば先立てて甲州御迎え取り参らすべし。
右の段相違するに於ては梵大帝釈四大王惣而日本六十余州大小の神祇別て伊豆箱根御所権現、三島大明神八幡大神宮大満大目在天神の神罪各々可相蒙者也。仍て起請文如件。
天正六年十一月十六日
勝領(血判)

 

 

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