威勢ばかりで中身が伴わず、結局は何もできない――そんなことからアメリカでは最近、トランプ大統領が「TACO」なんて呼ばれています。
日本でいうところの「タコ」ではありません。
Trump Always Chickens Out.
トランプ氏はいつも尻込みする。
というわけで、結局、コイツなんにもできねーじゃん!という意味ですね。
そうした人間の本質はアメリカ人も日本人も、昔も今も、さして変わらないということでしょうか。
元弘3年/正慶2年(1333年)6月5日に後醍醐天皇が始めた親政(天皇自ら行う政治)も【建武の新政】と呼ばれ、味方であるはずの公家からも「物狂いの沙汰(クレイジー)」とディスられるほど評判の悪いものでした。
それは実際にどんな政治だったのか?
詳細を振り返ってみましょう。

後醍醐天皇図/Wikipediaより引用
そもそも建武の新政とは?
建武の新政、言葉の意味としてはこうなります。
「元弘三年(1333年)に鎌倉幕府が倒された直後から、後醍醐天皇が始めた数々の革新的な政策」
後醍醐天皇はこれ以前から独自の政策を始めており、例えば京都の米や酒の値段を決め、商人に米の定価販売をさせようとしていました。
その他にも以下のような命令を出しています。
・元亨二年(1322年)洛中酒鑪役賦課令
洛中の酒屋を朝廷の支配下に入れて課税と労働を担わせようとしたものです。
・神人公事停止令
神人=神社で働く非農業民(商工業者)に神社からの課税・労働を免除して、その代わりに天皇へ食料や物品を捧げさせようとした法律です。
・洛中地子停止令
公家と寺社が洛中から地子(土地の貸与料)を取るのを禁じました。
・諸国新関停止令
これについては少々説明が必要かもしれません。
当時は、関所で通行税を取って荒稼ぎする者が跡を絶たず、特に瀬戸内海近辺や淀川沿い、琵琶湖~北陸の街道などに数多くの関所が設置されていました。
それによって荘園領主や寺社は潤いますが、商人や旅人の通行が阻害されてしまう。
「関所が多いと支障が出るのでやたらと作らないように!」という鎌倉幕府の命令は、西日本となると届きにくかったようで、ゆえに後醍醐天皇からもこの命令が出されたというわけです。
後醍醐天皇は、これらの方策により、京都近辺の流通促進と朝廷の財政改善を進めようとしたのです。

平安京/wikipediaより引用
その頃の鎌倉幕府(北条氏)は、元寇に対する恩賞問題が後を引いていたばかりか、依怙贔屓で身内を地方官に任じて現地で反感を買い、瓦解寸前。
後醍醐天皇個人としても、
「幕府が決めた両統迭立なんてイヤだ! ワシの子孫に皇位を継がせていきたい!!」
と熱望していました。
両統迭立については非常にややこしく説明が長くなるため、以下の記事をご覧ください。
-

南北朝時代|何年続いた?両統迭立に始まり明徳の和約以降も燻った不毛な争い
続きを見る
ともかく、問題はこのタイミングで後醍醐天皇と側近が立てた討幕計画
・正中の変
・元弘の乱
が二回ともポシャっていることでしょう。しかも天皇方から幕府への密告によって事件が発覚したのですから、いかに後醍醐天皇の政策がマズかったか。
急進的すぎて、味方から見ても成功しないと判断されたのです。
そして隠岐へ流されてしまいますが、後醍醐天皇の皇子である護良親王を中心に、討幕の動きは再び強まっていきました。
どうせなら名門出身の尊氏にお願いしたいわ
幕府のほうでも、足利尊氏や新田義貞が幕府に反抗し、他に楠木正成などの悪党も挙兵。
こうして鎌倉幕府は倒されましたが、この時点で武士たちと後醍醐天皇の間に大きな意見の不一致がありました。
当然ながら後醍醐天皇は、自らの血筋による皇位の独占と、天皇親政を目指して幕府を倒そうとしていました。
一方の武士たちは次の通りです。
「幕府という形態に文句はないが、北条氏が勝手すぎるので別の人に親分をやってほしい(どうせなら名門出身の尊氏サン!)」
つまり多くの武士たちは、後醍醐天皇のために幕府を倒したわけではなかったのです。

左から新田義貞・楠木正成・高師直・足利高氏/wikipediaより引用
しかし後醍醐天皇はそんなことに気付かず(気にせず?)
「幕府を倒すのに協力したんだから、全国の武士もワシに従うに違いない!」
と早合点して、実情にそぐわない政策を始めてしまいました。
これが【建武の新政】というわけです。
延喜・天暦の治を目指して
目標は、天皇親政の聖代とされた【延喜・天暦の治】です。
後醍醐天皇の時代から時を遡ることおおよそ450年前、醍醐天皇や村上天皇の時代にあたり、そもそも「”後”醍醐天皇」と名乗ったのも醍醐天皇への憧憬からきたものと考えられています。

醍醐天皇/wikipediaより引用
本来、天皇の名前は「諡号」といって、本人の死後につけられるものです。
存命中は「お上」や「帝(御門)」と呼んだり書いたりするのがセオリーでした。
それを後醍醐天皇は自ら定めたのです。
この時点で伝統を重んじる公家社会からは「なんなんだ! この人?」と思われていたことでしょう。
後々のことも考えると、醍醐天皇を目指す前に仁徳天皇や光明皇后の事跡でもたどったほうが良かったのでは……という気がしてきます。
では実際にどんな政治体制となったか?
建武の新政では、以下のような役所が設けられました。
【中央政治】
◆記録所
建武政権における最高機関。実は後醍醐天皇が親政を始めた元亨元年(1321年)からあった。
寺社などの荘園の調査と訴訟を扱う。
楠木正成などが所属。

楠木正成/wikipediaより引用
◆武者所
後醍醐天皇の親衛隊+内裏&京都市中の警備隊。
新田義貞など新田氏が多く所属。

新田義貞公肖像/wikipediaより引用
◆恩賞方
討幕に参加した者への恩賞を決めるため、先例や意見を参考に話し合う部署。
◆雑訴決断所
所領や年貢に関する訴訟の大半を担当。記録所から多くの訴訟が移管された。
公家と武家が入り混じったカオスな役所。
綸旨の内容にミスが多かった・訴訟が多すぎた・職員同士の連携がうまく行かなかったなどなどの理由で仕事が滞りまくり、二条河原の落書で「役に立たねえ」(超訳)と名指しされる。
この他に実態のよくわからない機関として「窪所(くぼどころ)」という役所がありました。
次に地方の統治体制を見てみましょう。
【地方統治】
◆陸奥将軍府
現在の宮城県多賀城市にあった役所。東北における北条氏の残党狩りも行った。
長官:義良親王(後醍醐天皇の息子)
補佐:北畠顕家

後村上天皇(義良親王)/wikipediaより引用
◆鎌倉将軍府
関東の裁判を主に取り扱い、ときには朝廷とも連携した。また、足利一門による軍事機構「関東廂番」も抱えていた。
長官:成良親王(後醍醐天皇の息子)
補佐:足利直義(尊氏の弟)

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
そして建武の新政における最大の特徴がこちらです。
「全ての部署が天皇直属とされた」
今まで中央政治を執り行ってきた「太政官」とその下にある八省の仕事を実質的に否定することになりました。
八省の仕事と、建武の新政で設けられた諸々の部署には被るところが多々あったためです。
『梅松論』という本では、後醍醐天皇がこれらを指して
「朕の新儀は未来の先例」
というパワーワードを残したことになっており、つまりは
「今までの政治制度を一度全部なかったコトにして、これから新しい仕組みで新しい社会を作る!」
という気概を見せていたのです。
しかし、これは公家社会と極めて相性が悪い考え方です。
そもそもお役所というのは「政務を専門家によってできるだけ早く処理する」ために作られ、業務が円滑に進むよう、先例やノウハウを世襲で伝えてきました。
現代社会にも通じるところがありますが、地域や国ごとの慣例・信仰を完全に無視した法律や制度はほぼ作れません。
乖離が激しいほど強い反発を招いて遵守されなくなり、定めた意味がなくなって社会的な混乱を招くからです。
後醍醐天皇はそういった社会の流れをぶった切るに等しいことをやってしまった……ということになります。
手段と目的が入れ違うどころの話ではなく「車輪の再発明」にも似た無駄ですね。
実力主義が導入されたものの……
後醍醐天皇のフォローをしておきますと、建武の新政は「実力主義による登用を行った」という面もありました。
公家社会では家ごとに「どこまで出世できるか」という決まりがあり、その最大限出世できる官職のことを【極官(きょっかん)】といいます。
これは序列を安定させるためのものでしたが、
・能力があっても家柄が良くないと出世できない人が出てくる
・能力がないのに家柄がいいというだけで高官に上る人もいる
という弊害もありました。
大河ドラマ『光る君へ』でも何度もそういう場面がありましたね。
また、後醍醐天皇は元々異母兄である後二条天皇の子・邦良親王が即位できるようになるまでの「中継ぎ」という面が強く、宮中の味方も多くありませんでした。
これらを解決するために考えたのが「身分を問わない登用」というわけです。
他に、下級役人が就くものだった守護や国司に、もっと上の身分の人を就けて、地方にも天皇の力が行き届くように図っています。これも前例を無視したやり方ですね。
この一例が後に大活躍する北畠顕家です。

北畠顕家/wikipediaより引用
彼は従三位という高位だったにもかかわらず、もっと格下の陸奥守の官職を与えられ、しかも現地に赴くことを強制されています。
公家社会では陸奥守のように国司の座を与えられても、自分は現地にいかず次席の人間に任せる「遙任(ようにん)」が認められていたので、顕家も当初はそうしていました。
しかし忠臣だった彼は、きちんと奥州へ行き、結果として大きな功績を挙げています。
ちなみにその後、後醍醐天皇がどこでもドアでもあるかのように顕家を呼びつけたり奥州へ戻したりしたため、せっかくうまく行っていた奥州の統治は頓挫しました。あーあ。
実情を見ず理想だけ追い続けた
後醍醐天皇のゴリ押しポイントはまだあります。
「大内裏の再建」と「貨幣鋳造」という、莫大なコストと人手がかかることをやろうとします。
大内裏は平安京のイメージでお馴染みですが、この時代には火災で失われていました。後醍醐天皇はそこも延喜・天暦の治にしたいと考えて再建を計画したようです。

平安京復元模型/wikipediaより引用
また、貨幣の鋳造については
「自国内で貨幣を作って流通させ、外国製の貨幣を排除したい」
という理由だったようです。
しかし、当時の情勢は
・元寇の後、ロクに褒賞を得られなかった武家が、倒幕でやっと実利を得られるチャンスだったのにその処理を後回しにした
・鎌倉時代を通して飢饉や災害が頻発していた
など不利な条件が積み重なっており、後醍醐天皇が掲げた政策を即座に実行できる状況ではありませんでした。
だからこそ大内裏という重要な機関がずっと再建されなかったわけで……眼の前に答えがあったのに、後醍醐天皇には見えておらず、見ようとすらしていなかったといっても過言ではないでしょう。
一応、治安向上には関心を示しており、建武元年(1334年)前半には諸国で乱暴狼藉を取り締まりと中央への報告を定める法律を出しています。
しかしこれも「中央への報告に基づいて、雑訴決断所が対処と罰を決める」というものだったので、当時の通信事情を全く考慮していないやり方でした。
また、倒幕から半年以上経ってもその類が収まっていなかったことも示しています。
狼藉を働く側としても、自分たちの生活のためにそのような行為に及んだ者が少なからずいたでしょう。
こうなったら「報告は後でいいので、騒動を鎮めた者に褒賞をやる」とでもしておけば現地の被害は減ったはずですし、新たに賊になる者も出にくくなったのではないでしょうか。
雑訴決断所のほうでも、後醍醐天皇の綸旨に不備が多いことから、「綸旨を受け取ったら雑訴決断所に報告してほしい」というお触れを出しています。
これでは綸旨の権威が落ちるだけでなく、時間がかかるだけです。
近年でもままある話で、お役所にはとにかく何百年経っても進化しちゃいけない理由でもありそうです。
息子の護良親王より尊氏を信じた結果
また、同時期に後醍醐天皇は自分の息子である護良親王と対立し始めています。
後醍醐天皇が隠岐へ流されている間、近畿から令旨を方々に出して倒幕を促進させたのは護良親王です。
当然その功績は評価されて然るべきところであり、宮将軍として振る舞うのも当然の成り行きといえます。
しかし後醍醐天皇はそれが気に入らなかった。
征夷大将軍の座は与えたものの、護良親王の令旨を否定するなどの措置をするのです。

護良親王/wikipediaより引用
冷静に考えれば護良親王が譲位を迫ったわけでもないので、自分の息子を警戒するより、武家の懐柔に注力するべきだったのでしょう。
本当に護良親王の野心が強かったのなら、後醍醐天皇が京都を留守にしている間に譲位を受けたことにして帝を名乗っててもよいはず。
護良親王は母と早いうちに死に分かれ、母方の支援が受けられない(受けにくい)という立場ではありましたが、やってやれなくはなかったはずです。
にもかかわらず後醍醐天皇は
「アイツ、もしかして鎌倉で新しい幕府を作ってワシに逆らうつもりか???」
と疑い、さらに護良親王と対立していた足利尊氏がそれを裏付けるかのような讒言をしたため、完全にそっちを信じてしまいました。
そして後醍醐天皇は、尊氏の弟であり、鎌倉を支配していた足利直義に護良親王を預けてしまいます。
結果、北条氏の生き残りである北条時行とその支援者である諏訪氏らが起こした【中先代の乱】中の混乱により、護良親王は直義の手の者に殺害されてしまいました。
このときの後醍醐天皇ときたら
「ワシの息子を殺すとは許せん!」
と言い出しているのですから、「お前は何を言っているんだ」とツッコミたくなってきます。
「まさか皇族を手に掛けるまではしないだろう」と思っていたとしたら、希望的観測が過ぎて……。
上方の人々は古くから東国人のことを「東夷」=「野蛮人」と罵り蔑んできたというのに盲信しているというか。
単に流罪にするなら、佐渡や土佐など貴人の配流先として定番化しつつあった場所にするか、京都にいた楠木正成などに預ければよかったでしょう。
後醍醐天皇を補佐した三人の公家たち
理想と現実の折り合いをつけようとせず、トップの間違った判断で無茶苦茶となってしまった建武政権。
それでも支えようとした人もいました。
特に、建武の新政を補佐した三人の公家を【三房】といいます。全員の名前に「房」の字がついていたからです。
彼らのことも、少し見ておきましょう。
・北畠親房(村上源氏)
『神皇正統記』の著者としても知られている人です。

北畠親房/wikipediaより引用
建武の新政に対しては批判的でしたが、後醍醐天皇の信頼は厚く、天皇崩御後の南朝を主導していくことになります。
余談ですが、後に信長の次男・織田信雄が婿養子入り(という名の乗っ取り)する戦国大名・北畠家のご先祖様でもあります。
前述の北畠顕家はこの人の長男。
この父子についてはそれぞれ個別記事がありますので、気になる方はそちらも併せてご覧ください。
・万里小路宣房(藤原北家勧修寺流)
雑訴決断所を任されましたが、後醍醐天皇が吉野に行った後は従っておらず、その後の万里小路家は北朝方についています。
他には『万一記(万里小路一品記・宣房卿記)』という日記を書き、家の地位を高めています。
・吉田定房(藤原北家高藤流)
後醍醐天皇が幼い頃に乳父となり、その後も鎌倉幕府への使者を務めるなど、側近中の側近ともいえる人です。

吉田定房/wikipediaより引用
後醍醐天皇に対しては、やはり親心めいたものを持っていたのでしょう。
正中の変の際は幕府への申し開き、元弘の乱では六波羅探題への密告をしました。後醍醐天皇の身を案じるからこそ、穏便な方針を取りたかったのではないかと思われます。
おそらく、後鳥羽上皇のような「配流先での無念の死」をさせたくなかったのでしょう。
建武の新政では恩賞方や雑訴決断所を任されましたが、その後の動きには不明確な点があります。
ちなみに「徒然草」の著者・吉田兼好(兼好法師)とは同姓ですが、血縁関係はおそらくありません。
そして、お気づきでしょうか。
三人のうち一人は途中離脱、一人はよくわからん行動をし、後醍醐天皇の崩御後まで南朝にいたのは一人だけだということに……。
中枢扱いの人間ですらそれなのですから、下や地方は言わずもがな。
また、建武の新政が始まって一年ちょっと経った建武元年(1334年)には、あの有名な【二条河原の落書】で、庶民(仮)からもボロクソに言われています。
ついでに言うと、北畠顕家が最後の戦いに赴く前に後醍醐天皇に宛てて書いたとされる痛烈な文書「北畠顕家上奏文」でも、おそらく建武の新政の頃を指すと思われるアレコレについての記述があります。
要は、民衆からも貴族からも指示されていないことをやり続けていたわけです。
尊氏は建武政権から遠ざかっていた?
一方、足利尊氏は勲功第一とみなされながらも、建武政権の重職には任じられませんでした。
この状態は世間に「尊氏なし」と呼ばれ、不可解に思われていたようです。
普通、一番功績の大きかった人が中央政権で一番エライ役職につきますものね。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用
もちろん何も貰っていないわけではなく、官位と後醍醐天皇の諱から「尊」の字、それから多くの土地の地頭に任じられています。
また、尊氏はダメなときはまるっきりダメな人ですが、この頃は割とキレッキレな時期だったことから、
「後醍醐天皇のやり方じゃ絶対うまくいくわけない」と考え、わざと建武政権の中に入らなかった
とも指摘されています。
中先代の乱が起きたときには、弟を助けるために後醍醐天皇に無断で出兵したりもしていますしね。
「御代は物狂いの沙汰としか思えず」
そんなこんなで、後醍醐天皇を支持する勢力は楠木正成ら「三木一草」と、尊氏の対抗馬になった新田義貞など、ほんのわずかになってしまいました。
しかし、主に後醍醐天皇の配置ミスや見栄により、彼らはたった数年間で次々に討死・自害。
さらに後醍醐天皇本人も延元四年(1339年)に崩御してしまいました。

後醍醐天皇/wikipediaより引用
他の人達からすれば、戦力が激減した上にさんざん混乱の種を蒔いた当人がさっさとあの世に行ってしまったわけですから、やるせないにも程があるというものです。
ちなみに、当時の有様について、三条公忠(きんただ)という公家が日記『後愚昧記(ごぐまいき)』でこんな風に記しています。
「後醍醐天皇の御代は“物狂いの沙汰”としか思えず、先例になるとは到底考えられない」(意訳)
三条公忠は、建武の新政当時まだ10歳前後。
後愚昧記を書いたのはそれから30年近く経った後のことです。
既に記憶が曖昧になっていたはずですが、それでも「あの頃はサイテーだった」と書きたくなるほどだった……ってどんだけなんですかね。
周りの人が酷評されているのを複数回聞いて、悪印象が強まったのかもしれませんが。
公忠は従一位内大臣まで上っています。
つまりは当時の最上流階級の一人にボロクソ言われていることになるわけです。
さらにいうと、公家の日記というのはただの愚痴の掃き溜めではなく、子孫が読んで仕事の参考にすることを前提にしています。
公忠はおそらく
「天皇とはいえ、臣下が諌めないとトンデモナイ事をやり出すこともあるから気をつけろよ」
というような教訓を込めて、こんな文を残したのでしょう。
反面教師としては素晴らしいかもしれません。
これは与太話ですが、現代的な価値観を後醍醐天皇や建武の新政に当てはめるとすれば、エディプス・コンプレックスやコンコルド効果のようにも思います。
エディプス・コンプレックスは思春期の少年が父を超えようとしてアレコレやる心理のこと。
多くの人は幼少期から両親に「◯◯をしてはいけない」と言われて育ちますが、後醍醐天皇の場合はそれが成人どころか30歳を過ぎて即位してからも続いたのですから、その抑圧や反発が常人よりもはるかに強かったであろうことは推して知るべしといったところ。
そしてコンコルド効果は「ここまでコストをかけたのだからもう引き下がれない」という、“もったいない精神”がマイナスに働きすぎることをいいます。
後醍醐天皇は皇太子になった頃から父・後宇多上皇の圧力を強く受けており、それに反発して親政や倒幕、そしてその後の政治を主導することに強くこだわりました。
後醍醐天皇が認めてほしかったのは貴族や世間ではなく、後宇多上皇だったのではないでしょうか。
そして後宇多上皇が没してからは自尊心や建前から引き下がれなくなり、かえって身近な公家や武士を死に追いやる結果になったように見えます。
いずれにせよ、それに振り回された公家も武家も民衆も気の毒でなりません。
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【参考】
伊藤喜良『後醍醐天皇と建武政権 (読みなおす日本史)』(→amazon)
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