もしも江戸幕府が存続できるとしたら何をどうすべきだったか――。
そんな”if”を考える幕臣たちの、たどり着く答えはいつも同じでした。
「あのとき長州をきちんと潰していれば……」
これは幕府側だけでなく、長州側も意識していたことでしょう。
長州は潰される寸前、まさに首の皮一枚。
そんなところで幕府のオウンゴールで勝てた。
幕末の最終局面における長州藩は、薩摩藩と違い、佐幕側に徹底して厳しい態度をとり続けています。
なぜそこまで苛烈になったのか。
「もしも幕府のようにラストで手を抜いたら、復活して逆襲されるかもしれない」
特に【長州征討】であと一歩のところまで追い込まれながら、詰めの甘かった幕府に助けられた長州は、常にそんな恐怖を抱いていたのです。
それはまさに薄氷を踏む、逆転勝利。
一方で、グダグダと腰が砕けてしまい、崩壊へと導かれてしまった幕府。
両者の趨勢が交錯した二度に渡る長州征討では一体何が起こっていたのか?
第一次は元治元年(1864年)7月23日、朝廷から幕府へ命が下されることによって始まりました。
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まずは5W1Hで長州征討の概要確認
まずは5W1Hで概要だけスッキリさせておきたいと思います(以下、本文は西暦表記で)。
【長州征討の5W1H】 | |
---|---|
Who: | 江戸幕府 vs 長州藩 |
When: | ◆第一次 1864年8月24日〜1865年1月24日 ◆第二次 1866年7月18日〜10月8日 |
Where: | 長州藩(周防国・長門国) |
Why: | 長州藩の暴走に激怒した孝明天皇および朝廷が幕府に討伐を頼む |
How: | 結局ろくに戦いもしないまま、不発に終わる。幕府側の自滅 |
What: | 幕府権威の決定的失墜、薩摩が長州と手を組み、後の倒幕へ |
実は当時から、幕臣の間でも
「外国の力を借りてでも長州は絶対に潰すべき!」
という意見がありました。
しかし、海外勢力に助力を求めれば、その後、政治介入を招くリスクもあり、慎重論もありました。
結果を考えれば何が何でも潰しておくべきでしたが、今となっては結果論でしょう。
孝明天皇 長州の横暴に激怒
そもそも、なぜ長州藩は幕府の征伐対象となったのか?
発端は【八月十八日の政変】あたりから議論されてきました。
マトメますと、長州藩が暴走し、偽勅を出しまくったことに対して、孝明天皇の我慢の限界が訪れたのです。
確かに当時の長州藩過激派は、久坂玄瑞らを筆頭にやり過ぎでした。
※以下は久坂玄瑞の生涯まとめ記事となります
久坂玄瑞は幕末一のモテ男だった~松陰の遺志を継ぎ夭折した25年の生涯に注目
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すでに詳細記事が他にあり、重ねる部分も含めて説明させていただきますと……。
八月十八日の政変で京都を追い出された長州藩は、その後、懲りずに池田屋事件でテロ計画を建てようとします。
そこへ突撃してきたのが新選組であり、近藤勇や永倉新八などが大活躍。
近藤勇が新選組で成し遂げたかったことは?関羽に憧れ「誠」を掲げた35年の生涯
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永倉新八こそが新選組最強か?最後は近藤と割れた77年の生涯まとめ
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続けざまに長州藩は天皇を強引に連れ出そうとして【禁門の変】に発展、ほどなくして長州征討へと追い込まれるのです。
ざっとチャートにしておきましょう。
1863年 八月十八日の政変
↓
1864年 池田屋事件
↓
1864年 禁門の変
↓
1864年 第一次長州征討
↓
1866年 第二次長州征討
すべては長州藩の暴走行為が影響しております。
特に孝明天皇の怒りはひどく、元治元年(1864年)正月、参預会議で長州征討は決定されました。
孝明天皇の生涯を知れば幕末のゴタゴタがわかる~謎に包まれた御意志
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しかしこの計画は参預会議の崩壊と共にお流れになってしまいます。
この辺のグダグダ感は以下の松平春嶽の記事でご覧下さい。
幕末のドタバタで調停調停に追われた松平春嶽(松平慶永)生涯63年まとめ
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禁門の変(蛤御門の変)が起きた不都合な真実~孝明天皇は長州の排除を望んでいた
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結論から申しますと、ともかく【禁門の変】は決定的でした。
よりによって長州藩は御所へ砲撃したのですから、とんでもない行為でしょう。
生来が生真面目な会津藩は、孝明天皇の意志をくみ取り、絶対に長州藩が近づかぬよう、さらにガードを固めたのでした。
しかもこの時期、長州藩のやらかしは、他にもありました。
下関戦争
やらかしとは他でもありません。
「下関戦争」です。
1863年、1864年、長州藩は四国艦隊に襲来され、完膚無きまでに叩きのめされる屈辱を味わいました。
それまで血気盛んに「攘夷!攘夷!」と叫んできた過激派も、事ここに至って現実に直面。
「やっぱり、攘夷は無理ではなかろうか……」
と意気消沈します。
下関戦争の和睦交渉で「高杉晋作が魔王のようだった」と、相手を圧倒させた話は今も非常に人気があります。
あのエピソードは国民的大作家がアーネスト・サトウの日記を切り貼りしたもので、本当は愛想が良かったとも伝わっています。
哀しいかもしれませんが……実際に該当箇所を読んでみても、サトウらが圧倒された節はありません。
しかし、長州藩にとって屈辱的完敗だったこの戦争。
実は、幕府にとっても「くそっ、やられたっ!」としかいいようのない顛末となっています。
下関戦争の結果、幕府(日本)が以下のようなダメージを食らったのです。
1. 関門海峡の自由な通行が認められる
2. 石炭・水・食料の補給が可能となる
3. 関門海峡の砲台修理・新設禁止
4. 莫大な賠償金の要求
次々に国土を脅かす要求がなされ、さらには下関が勝手に自由貿易港とさせられそうになり、幕府もそれだけはなんとか阻止しました。
代わりに莫大な賠償金をむしりとられるわ。
おまけに長州藩は急速に外国勢力に接近していくわ。
まさしく踏んだり蹴ったり。
子供の不始末を弁償させられる親のようなもので、幕臣の中には「下関戦争は(長州藩が仕組んだ)八百長じゃねえのか?」という声があがるほどでした。
長州藩の過激な攘夷行動が、結果的にここまで危険な事態を招いていたのです。
同時に、イギリスにも思惑がありました。
当時の外国人たちは、日本にはミカド(天皇)を中心とする勢力と、タイクーン(将軍)を中心とする幕府があると喝破していました。
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イギリスは薩英戦争後、幕府を支持するフランスに対抗して薩摩に肩入れし、政治介入する機会をうかがっていたのです。
このあたりも、なかなか複雑でして。
幕臣の中には、長州を叩きのめすためにも、フランスはじめ諸勢力の力を借りようという主張もありました。
しかし、外国による政治介入の危険性を察知した幕府は慎重に対応。
一方、薩長はその辺の事情を考えていなかったのか、気づかなかったのか、ホイホイと近づき、明治政府の成立以降、干渉を受けた事例があります。
ともかく、国内における数多のトラブルに加え、諸外国とも無謀な戦争を強行してしまう長州藩。
もはや黙って見過ごすことはできません。
第一次長州征討
長州藩の横暴に激怒した朝廷は1864年8月、幕府に【長州征討】の命を下しました。
ついで有栖川幟仁親王ら親長州派の廷臣も処罰しました。
このあたりが、幕末史の面倒なところなのですが……このように孝明天皇から激しく嫌われた側が「後の明治維新では勝利者」となり、真の尊皇忠臣扱いされたりします。
一方で、孝明天皇の意志を受けて動いていた皇族や朝臣が、逆賊扱いされるようになる。
そういう逆転、ねじれ現象が発生しています。
当時は、
我こそがホンモノの忠臣である――!
という自負のあった長州藩にとって、孝明天皇に激怒されてしまったことはあまりに痛い現実です。
そこで彼らは、ねじれた感情を変化させ、
「孝明天皇を誑(たぶら)かした会津その他もろもろが悪いんじゃ!!!!」
と、なってゆきます。
重ねて申し上げますが、このへん幕末史でかなり勘違いしやすいところで、非常に重要な局面ですね。
一方、幕府も、孝明天皇からせっつかれたら動かざるを得ません。
禁門の変直後、朝廷から命をうけた幕府は、まず西国21藩に長州への出兵を命令、将軍の徳川家茂自らが進発を布告しました。
第一次長州征討の始まりです。
征長総督は前尾張藩主の徳川慶勝であり、副将は越前藩主の松平茂昭。
15万という大軍であり、長州藩は為す術なく降伏の道を選ぶしかありません。
結果、長州藩主である毛利敬親・世子定広および支藩主の官位を剥奪しました。
これはかなり厳しい処分です。
幕末の長州躍進を陰で支えた毛利敬親「そうせい候」と揶揄されて
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そもそも長州藩内部では、禁門の変(1864年7月)で久坂玄瑞ら過激派が壊滅状態となっております。
そこで幕府側は、益田右衛門介・福原越後・国司信濃(くにししなの)たち三老臣の切腹と首級の提出を要求しました。
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