守護大名と戦国大名

戦国諸家

戦国大名はどうやって戦国大名になった?十八武家の成立を見てみよう

【◯◯の乱】や【✕✕の変】が続き、なんだかとっつきにくい室町時代

その終盤となると途端にテンション上がりますよね。

そうです。

戦国時代です。

織田信長武田信玄毛利元就伊達政宗など。

個性に富んだキャラクターや激しい合戦譚は子供から大人までワクワクさせてくれるものですが、彼ら戦国武将も突然、降って湧いたように現れたのではなく、歴史の流れに沿って出現してきました。

ではいったい有力大名や国人たちは、どのようにしてのし上がったのか?

名門はなぜ名門と呼ばれるのか?

今回は、戦国大名と併せて守護大名にも注目してみましょう。

 


言葉そのものは戦後に生まれた

「守護大名」にせよ「戦国大名」にせよ。

これらのワードは戦後に生まれた学術用語です。

もとは鎌倉幕府にも室町幕府にも設置されていた【守護】が守護大名の語源。

※以下は「守護地頭」の関連記事となります

守護地頭
頼朝が守護地頭を設置した切実な理由~実際はどんな仕事をしてその後どうなった?

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鎌倉時代の守護・地頭は、朝廷から派遣された国守とうまくやっていくことも仕事のうちでした。

が、室町時代にもなると国守の力はほとんどなくなり、守護が国守の仕事も実質的に行っています。

これによって収入も軍事力もUP!

そもそもが武士ですから家臣団もおり、武力と経済力が伴った小国家みたいな組織となりました。

鎌倉幕府や江戸幕府に比べて、室町幕府の力が相対的に弱く感じられる理由の一つですね。

力を得る代わりに守護の職務も増えますが、さほどの問題ではなかったようで。

このような状態になってから「守護」ではなく「守護”大名”」と呼ぶことが多くなる気がします。

しかし、あくまで建前上は「幕府に任命されて守護の地位を得ている」ポジションのため、将軍によっては色々と口と手を突っ込まれることもありました。

守護大名のほうでも、自分に有利になるよう権威を利用するため、次期将軍候補の後ろ盾になったり、婚姻関係を結ぶなど、政治的駆け引きをし始めますからドッコイドッコイですね。

ものすごくテキトーにいうと、藤原氏が皇室に対してやってたことを、特に近畿周辺の守護大名が足利将軍家にやっていた……という感じです。

こういうパターンは古今東西、どこでもよくある構図です。

 


国人とモメれば守護失格!?

しかし、守護大名は別の問題を抱えておりました。

「自国内の国人たちともうまくやっていかなければならない」のです。

国人とは、もともと地元に根付いた有力武士たちです。

一方の守護は幕府から任命されるヨソモノであり、当然、国人からすると

「おめえら、何も知らんくせに、勝手に色々と決めるんじゃねー!」

となりがちです。

当然ながら守護としても退けません。

「俺は正式なこの地域の主なんだから、俺に従わないヤツは武力行使すんど!」と強気に出るケースもあります。

現代でいえば「中央省庁の上級官僚が地方の支所に赴任して、部下の大多数が現地住民であり、その中には地元の名士もいる」状態に近いですかね。

まぁ、現代の官僚の場合、圧倒的に中央省庁の方が偉いわけですが、この時代は、それほどのチカラがありません。

つまりモメる。

下手をすれば、国人に信用されない守護が更迭されることもありました。

だから守護の代替わりについては、守護大名家の家臣だけではなく、国人の意向が取り入れられたりして、幕府も守護も国人も(少なくとも表向きは)穏便に済ませようとするのがスタンダードでした。

 


地元を離れていたら守護代に取られていたでござる

幕府の方針を決める会議に参加するなど。

守護は、中央の政治に関与することもありました。

そのため守護本人は京都に住み、国元のことは【守護代】や守護大名家の重臣・親戚に任せる――というパターンも珍しくありません。

15世紀には、

・鎌倉公方の支配地域10カ国

・九州探題の管下11カ国

・陸奥&出羽

以外の守護21家が将軍御所の周りに住んでいた、なんて話もあります。

これが守護家にとっては良くない選択でした。

守護代が地元でチカラを蓄え、実質的領主に成り上がっていくのですね。

かくして守護大名たちは、戦国時代を迎えると栄枯盛衰の差が大きくなっていきます。

・守護代や重臣、あるいは国人に下剋上されて没落する

・自らの力を強めて戦国大名化する

こうした地道な勢力争いの末に生き残ったのが戦国大名であり、その成り立ちは今言った通り、主にパターンに分類されます。

守護大名から戦国大名へ

武田家・今川家・佐竹家・細川家・六角家・京極家・北畠家・大内家・大友家・島津家

守護代やその一族から

上杉家・織田家・尼子家・朝倉家・三好家

国人から

伊達家・松平(徳川)家・浅井家・毛利家・長宗我部家


守護・国人の家臣から

後北条家・斎藤家

なんだか楽しくなってきましたね( ^ω^)

この先は、何時間掘り下げても面白いネタばかりで尽きることがありません。いくつかの代表的な大名家の成り立ちを見て参りましょう。

それぞれの家について、ご先祖様や戦国時代までの流れをもう少しだけ詳しくまとめました。

受験ではそれぞれの家の成り立ちまで覚える必要はありませんが、以下の家についてなんとなく覚えておくと、戦国時代や江戸時代の大名家が少し面白くなるかもしれません。

※織田氏・松平(徳川)氏・後北条氏・斎藤氏は別の機会に

まずは【守護大名→戦国大名】のパターンです。

 

今川氏

足利氏の三代目・義氏の孫である国氏。

その父・長氏より三河国幡豆郡今川荘を与えられ、今川氏を名乗ったのが始まりです。

今川国氏の孫である今川範国が南北朝時代足利尊氏について戦功を立て、遠江・駿河両国の守護に任じられ、東海道の要という立場を確立します。

また、範国の次男・今川貞世は、侍所頭人や九州探題などの要職も経験するのでした。

さすがは将軍家に連なる名門ですね。

今川氏は、特に大きな問題もなく家が続き、九代・今川氏親のときには斯波氏から遠江を奪って勢力を拡大します。

しかし、氏親の長男だった今川氏輝が早くに亡くなったため、次男の今川義元がお家騒動の末に家督を継承。

あの【桶狭間の戦い】で織田信長に敗れ、義元の息子・今川氏真の代になると、戦国大名としての今川家は滅亡しました。その後は徳川家康に庇護され、子孫は江戸時代まで続いています。

「名を捨てて実を取った」

そう考えれば、氏真も暗愚とはいえない気がします。戦や外交、統治に向いていなかったのは、もう否定しようがありませんが。

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