1475年(文明七年)3月6日、天才として知られるミケランジェロ・ブオナローティが誕生しました。
日本では【応仁の乱】真っ最中の頃に、
「最後の審判」
「ダヴィデ像」
など、今なお世界中に名を轟かせる名作が作られていたんですね。
一度見たら忘れられない。傑作の数々を作り上げたミケランジェロとは一体どんな人物だったのか?
振り返ってみましょう。

ミケランジェロの肖像画(ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ画)/wikipediaより引用
家を飛び出し芸術の道へ
前述の通りミケランジェロは1475年生まれです。
イタリア・トスカーナの名家に生を受け、幼い頃から芸術への高い関心を持ちながら育ちました。
父親とはソリが合わなかったようで、大ゲンカをしてまでその道を選びます。
14歳で一人前と認められ、その選択が間違っていなかったことが証明されると、彼はさらに自信を深めて芸術の世界へ踏み込んでいきました。
最初に絶賛を浴びた彫刻「ピエタ」はそれから11年後、25歳のときに完成した作品です。

サン・ピエトロ大聖堂のピエタ/photo by Stanislav Traykov wikipediaより引用
実は、ピエタとは、この彫刻単独の名前ではありません。
「磔刑に処された後のキリストを聖母マリアが抱いているシーン」という意味であり、他の芸術家も彫刻や絵画を数多く制作しているのですが、ミケランジェロの本作品が高名すぎて固有名詞のようになっているのです。
彼はピエタを4体製作したといわれているものの、通称「サン・ピエトロのピエタ」と呼ばれるこのときの像以外は未完です。
このことからも、同作品が、自他共に認める最高傑作であることがわかります。
聖母マリアが若すぎるとか。
計算すると2m以上の大女になってるとか。
そんなツッコミもあるようですが、そもそもは像としての完成度を高めるための演出と構図を優先したからでしょう。
本人はホームレスと間違われることも
ピエタ完成の翌年には、ダヴィデ像の製作を始めました。
世界史の教科書で必ず出てくる、ちょっと目のやり場に困るアレですね。

ダヴィデ像/photo by David Gaya wikipediaより引用
ピエタが認められたことによって、彼は故郷に錦を飾るような形になり、父親や弟達との関係も良くなりました。
不定期ではあるものの、貴族から受けるさまざまな依頼で莫大な報酬を受け取っていたミケランジェロは、家族が困るたびに惜しげもなく経済支援をしていたそうです。
本人はあまり贅沢が好きな人ではなかったようで。道楽等に耽ることなく、お金の使い道に困っていたのかもしれません。
なんせそれは徹底していて、質素な生活だったため、ホームレスと間違われることもあったとか。まさに全身全霊を作品に注いでいたのでしょう。
残念すぎるバカ弟たち
残念なのは彼の弟。
親の七光りならぬ兄の七光りでダラけたため、父とミケランジェロはいつも悩まされておりました。
こんな話があります。
それは彼が、ローマ教皇に依頼され、【天地創造からノアの大洪水までを描いた天井画】を制作していた頃(1508年 - 1512年)のことでした。

今なお残る『システィーナ礼拝堂天井画』/photo by [1] wikipediaより引用
そこにはこんなコトが記されておりました。
手紙~父から~
「お前の弟たちは、お前が稼いだお金をもらって店を始めると言っていたのに、ロクに働きもしない。ワシも病気になってしまって、本当に困っている」
この一通で、自身の厚意が無下にされていることを知ったミケランジェロ。
残念に思い、父への返事と弟への手紙を書きました。
その手紙の内容がまた、芸術家には似つかわしくないというか……「コイツ怒らせたらアカン奴や」と思わざるを得ない文面でした。
手紙で喝っ!「人の皮をかぶった獣か?」
手紙はどんな内容だったのか?
「父宛」
「弟宛」
でザッと概略をマトメましょう。
手紙~父へ~
「ここ10年で一番イヤなニュースでした。本当は(皆の暮らしている)フィレンツェに行って段取りしたいのですが、仕事があるのでそうもいきません。弟には私から手紙を出しておきます。もしそれでもダメなら、教皇様にお休みをもらってぶん殴りに行きますのでお知らせください」
手紙~弟へ~
「父さんから聞いたぞ! お前は根っからの悪人ではないはずなのに、何をサボって父さんを困らせているんだ! お前は人の皮をかぶった獣なのか? 誰でも自分の父親が脅かされれば、報復のために命を賭するものなんだぞ」
とまぁ、半ば脅しの入った手紙ですね。
とはいえ、ただ怒るだけではありません。
「今から悔い改めるなら、またお金を出してやるから」とも書いていて、怖いんだか優しいんだかわからない。
絵画は苦手意識があったと言うが
天井画の進行が決して順風満帆ではなかったので、そのストレスもあったでしょう。
それまでミケランジェロは彫刻家としての活動が多く、絵画に対して苦手意識がありました。
しかし教皇からの依頼では断るわけにもいきません。
そこでアシスタントとして若い画家を5人ほど雇ったのですが、あまりに出来がひどいのでブチキレてしまい、結局自分ひとりでほとんど描くことになったのです。
そりゃあ、あれだけのものが描ける人から見れば、世の中のほとんどの画家は役立たずですわな……。
この天井画では「アダムの創造」といわれる部分が有名です。
今回は「太陽、月、植物の創造」をご紹介しておきましょう。
思わず笑いを誘われる後姿
「太陽、月、植物の創造」とは?
その名の通り、神が右手で太陽・左手で月を創造して、素早くどこかへ去っていくというシーンです。それが、思わず笑ってしまいそうな「お尻に目がいってしまう」作品でして、こちらです。
では「太陽、月、植物の創造」をご覧ください。
左側の方、後姿が「じゃあの」とでも言っていそうな感じで笑える……ではなく躍動感に溢れており、いろいろな意味で面白い絵ですね。
慈悲深いはずの「父なる神」が眉間に三本シワを寄せた不機嫌そうな顔をしているのも、上記の裏事情を知っていると、製作者のストレスが現れているように見える気がします。
ミケランジェロにとっては、心理学でいうところの「昇華」(ストレスや葛藤を芸術など高度な活動で発散し、自己実現を図ること)だったんでしょうか。
彫刻そのままのような生々しいほどの迫力
同じくシスティーナ礼拝堂の最奥にある「最後の審判」は、ミケランジェロ最大の絵画作品となりました。
実は1533年に依頼されていたのですが、そのときの教皇が直後に逝去。
お流れになっていたところ、それより3代後の教皇が「アレの続きを描いてほしい」と依頼したため再開されたのです。
そのまま忘れられていたら、あそこには全く別の絵が描かれていた可能性もあるんですね……危なかった(゚A゚;)。
もちろん教皇の命令ですから逆らうことはできず、ミケランジェロはそのとき取り組んでいた彫刻の仕事を中断してとりかかりました。
完成したのは再開から5年後のこと。すでにミケランジェロは60歳を超えていましたから、天井画より最後の審判を描くほうが辛かったかもしれません。
とにかく凄まじいまでの描き込みようですよね。
人物の総数は400以上。彫刻がそのまま平面になったかのような、生々しいほどの迫力で、本作品は、賞賛と嫌悪の二つの視線を浴びることになりました。
あまりにも裸体が多いので、主に聖職者から「神聖な場所に裸を大量に描くとは何事か!」とブーイングを受けてしまったのですね。
家族や教皇に振り回され続け
結局、特に目立つものにだけ下着を描き足し、騒ぎは収束します。
ミケランジェロはこの話を聞いて一言つぶやいたとか。
「教皇様はそんなことにお金を使うより、世の中のためにもっとやるべきことがあるはずなのに……」
ま さ に 正 論 。
しかし、そんな意見が歴代の教皇に届くこともなく、1981年の修復までそのままになっていました。
一部は下着つきのままらしいので、もはやミケランジェロが意図していた絵ではなくなってしまっているということですね。
自らの意思で進んだ世界なのに、家族や教皇に振り回され続けたと見ると、世界一の芸術家が何だかかわいそうに思えてきます。
むろん作品の素晴らしさに変わりはありません。それだけは彼の救いとなっていることでしょう。
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【参考】
『図説 ミケランジェロ (ふくろうの本)』(→amazon)







