副社長派か、それとも専務派か――大企業の出世争いで左右するのが“派閥選び”とは、ドラマや小説などでよく描かれます。
この「上役選び」を一つ間違えるとリアルに死が待っていたのが戦国時代。
今回はその中でも不運な流れから主君選びを誤り、「戦国一凄惨な城攻め」とされる苦痛を味わった別所長治に注目です。
この長治、せっかく織田信長と豊臣秀吉に気に入られながら、最終的には【三木城の干し殺し】という籠城戦の末、天正8年(1580年)1月17日に切腹へ追い込まれます。
一体何がどうしてそうなったのか?

別所長治/wikipediaより引用
別所長治の生涯を振り返ってみましょう。
東播磨の有力一族に生まれた別所長治
別所長治は弘治5年(1555年)ごろ、赤松氏の家臣筋である別所家に生まれました。
父は別所長勝。
祖父は別所重治。
しかしこの二人は不幸なことに
永禄4年(1561年)長勝
永禄6年(1563年)重治
と立て続けに亡くなってしまい、長治は叔父の別所吉親(よしちか)と別所重棟(しげむね)に養育されることになります。
長治は数え年で7~9歳のころ。まだかなり幼く、同時に「二人の養育者」が出現したことは、別所家にとって災いでした。
ご想像の通り、御家騒動の火種になるからです。
別所家はこのころ、東播磨の地で強大な勢力を有していたと伝わります。
形式的には赤松氏の家臣でしたが、同氏は【嘉吉の乱】などを経て戦国期に没落。
一方の別所家は【播磨東八郡の守護】と称されるほどの存在であり、すでに守護としては衰え切っていた赤松氏に代わって戦国の覇権争いに加わっておりました。
祖父の代ではあの三好長慶とも激戦を繰り広げるほど。

三好長慶/wikipediaより引用
最終的には別所家の本拠である三木城を三好軍から守り抜く実力をもっていました。
そのため、別所家は「限りなく戦国大名に近い存在だった」と称されます。
父の死によって若くから家督を継いだ長治は、永禄10年(1567年)に畿内で戦いに明け暮れる三好三人衆を支援しています。
もっとも、年齢的に考えて長治が実権を握っていたとは思えず、「執権」として彼を支えていた叔父二人の主導だと考えてよいでしょう。
将軍からの称賛が後の災いに?
かくして一定の地位を築いてきた別所長治。
永禄11年(1568年)になると尾張の織田信長が、足利義昭を奉じての上洛を決め、諸勢力に上洛に際しての協力を要請しました。

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用
周辺の諸勢力は「信長に服従するか否か」の決断を迫られたのですが……。
長治はこれに同意。
叔父の別所重棟を派遣して、尼崎の地で迎えを担当させます。
義昭の上洛を阻もうと三好三人衆が襲撃してきた際(本圀寺の変)も、京都に居合わせた重棟が撃退に貢献し、将軍から称賛されました。
「将軍に褒められた!」というのは、別所家の者たちにとって格別のニュースだったでしょう。
ところがこの「将軍の誉め言葉」が後に別所家を二分することに繋がった――と『別所長治記』という史料に示されているのですから驚きです。
長治と重棟 二人揃って信長に謁見
「将軍の褒め言葉」の何が悪かったのか?
小説好きや人心の動きに敏感な方ならご想像がつくかもしれません。
お褒めにあずかった別所重棟(しげむね)が、それを鼻にかけ、横柄な態度をとるようになったのです。
そんな彼の態度にキレたのがもう一人の権力者・別所吉親(よしちか)。
後世から見ると『なんちゅーバカバカしいことを……』と思うところで、以後の別所家は重棟派と吉親派に二分され、溝が深まってしまうのです。
元亀元年(1570年)には信長から上洛を要請され、このときは躊躇しています。
理由は家中の争いではありません。
備前の浦上氏と抗争が続いていたためで、信長に抵抗する気もなかったでしょう。
その証拠に、天正元年(1573年)には信長のとりなしもあり、浦上氏との和睦がまとまっています。

織田信長/wikipediaより引用
家中で信長への服従を主導したのは重棟派であったといわれ、別所長治も従いました。
天正3年(1575年)には二人で信長に謁見。
その後も、信長に最も接近していたのは重棟でした。
彼は独自に天正5年(1577年)の雑賀攻めへ従軍し、献身的な姿勢は織田家中でも評価されていたようです。
突然の裏切りを決断
天正5年(1577年)10月、織田信長は、対立する足利義昭をかばったとして毛利攻めを決断。
配下の羽柴秀吉に中国攻略を命じました。

絵・富永商太
さっそく秀吉が播磨の攻略に乗り出すと、同エリアは別所だけでなく小寺氏や赤松氏といった諸勢力が既に織田家に降っていたこともあり、かなりスムーズに進んでいきました。
一連の播磨攻略において、秀吉が最も信頼していたのが長治だといわれます。
彼らの本拠である三木城は陸上交通の要所でその協力は不可欠であり、なにも秀吉が頼ったのは黒田官兵衛だけじゃなかったんですね。
ところが、です。
さほどにまで信頼してくれていた秀吉を、長治は突如として裏切るのです。
いったい何が起きたのか?
後世の史料が伝えるところでは、やはり重棟と軋轢を抱えていた吉親の仕業だと指摘されます。
秀吉・信長を非難し、それに長治も同調。
別所家として裏切りを決断したのでした。
なぜ長治は信長・秀吉を裏切ったのか?
仰天したのが秀吉と、彼の陣に参加していた長棟です。
別所家の裏切りは想定外かつ手痛いものだったようで、秀吉は慌てて長棟を説得に走らせます。
しかしその甲斐なく別所家はスタンスを変えず、秀吉は一転して彼らの討伐を決意することになります。
では一体、なぜ別所長治は信長と秀吉を裏切ったのか?
古くから多くの説が提唱されており、例えば以下のような説があります。
・秀吉に提案した作戦が受け入れられず険悪な関係になった
・名門意識の強い別所家は卑しい出自の秀吉に下ることを拒んだ
しかし、例えば研究者の渡邊大門氏はこれらを「俗説」と一蹴。
別所家は【織田家よりも毛利家を中心とする連合側が有利】と判断し、さらに義昭による熱心な調略に乗って信長を見限ったと指摘します。
確かに、いくら東播磨の覇者とはいえ、畿内の大半を手中に収める信長を相手に単騎で勝負を挑むのは無謀でしかありません。
毛利をはじめとする周辺勢力との示し合わせはあったと考えるべきでしょう。

毛利の当主は毛利輝元/wikipediaより引用
さらには、
【重棟 vs 吉親】
という権力闘争の結果も影響していたと考えます。
信長に味方して順調に地位を築いていく重棟をこのまま放置すれば、吉親はますます不利になる。
ここは是が非でも、長治には毛利方についてもらい、重棟から権力を奪い返す――吉親にはそんな意図があったのではないでしょうか。
重棟が長治のもとを離れていれば、吉親も甥っ子を言いくるめるのはそう難しいことでもなかったでしょう。
三木城攻略の前に支城を陥落だ
別所長治の裏切りにより、播磨は一転してカオスな戦局となりました。
最も焦ったのは秀吉でしょう。
四方に敵や味方が点在しており、いつ自分が包囲されるかもわからない危険な状況。
結果、尼子氏の残党(山中鹿介など)を支援する余力がなくなり、彼らは毛利方に上月城を陥落させられます。
同時に荒木村重が信長を裏切り、官兵衛が有岡城の牢に囚われ、秀吉の実力が試される展開になっていくのです。

荒木村重/wikipediaより引用
秀吉はまず三木城の攻略を重視し、攻城戦を仕掛けました。
しかし、少なくとも別所軍が4~5千の兵力を要していたのに対し、秀吉軍は1万未満の兵力だったと推定される。
攻城戦は攻め込む側が不利であり、一般的に城に籠もる兵の3倍以上の頭数が必要だとされ、数として上回っていても苦しいのは秀吉でした。
もっとも、信長も彼が苦しい状況に置かれたことは理解していたので、織田信忠率いる応援軍で数々の支城を落としにかかります。

織田信忠/wikipediaより引用
毛利勢も救援を試みますが、支城の神吉城や志方城が落とされ、有効な支援を講じることはできませんでした。
戦国一凄惨な城攻めと言われる三木城の戦い
その後、秀吉がとった戦法は【兵糧攻め】でした。
三木城を徹底して取り囲み、食料をはじめとした物資を城へ届けさせないようにするのです。

『羽柴秀吉三木城包囲図』/wikipediaより引用
一方の長治は、毛利家に依存する形となり、彼らの支援が届くかどうか――この一点が勝敗のカギを握ります。
秀吉は三木城を徹底的に包囲。
長治らもよく持ちこたえます
別所勢はただ単に籠城するだけではなく、ときには秀吉の本陣が置かれた平井山を急襲するなどして、なんとか兵糧を運び入れようと腐心しました。

平井山付城跡から望む三木城方面
しかし、陸も海も全てのルートを秀吉に遮断されては、どうすることもできません。
秀吉は本陣の周りにも大量の付城を築き、城内への兵糧運び込みを徹底して阻止しておりました。
もちろん長治も必死に兵糧の運び込みに挑戦しますが、なかなか満足な量を運び入れることは叶わない……。
そうこうしているうちに長治と共に信長を裏切った波多野氏が滅亡。
反信長連合が苦境に立たされると、ついに毛利氏も三木城の実質的な放棄を決め、別所家の勝ち筋は完全に消滅してしまいます。
もはや戦う気力など1ミリも残ってなかったでしょう。
なんせ兵糧の尽きた三木城内の様子は「凄惨」の一言です。
米がなくなると糠や飼葉を食べ、それが尽きると当時はタブー視されていた肉食に走り、最期は泣く泣く仲間を殺して人肉まで食ったと伝わります。
城内での餓死者は数千人。
動けなくなった兵士が城中に転がっているという有様でした。
ここに至り、支城を次々に落としていった秀吉は、重棟に対して、
・別所長治
・別所吉親
・別所友之(長治の弟)
彼ら3名の切腹と引き換えに、城兵は助命するという降伏勧告を行います。
そして「もはやこれまで」と長治も腹をくくり、約2年におよぶ凄惨な籠城戦は幕を閉じたのです。
秀吉が称賛した潔い最期
条件通り切腹と決まった三人でしたが、吉親は切腹当日に悪あがきをしたと伝わります。
「オレだけ死ぬのはゴメンだ、お前らもみんな死ね!」と城に火をかけ、城内の兵士ごと自害しようとしたのです。
ところが、です。
それを見かねた城兵に捕らえられ、斬首されたとも伝わります。
別所長治や別所友之は、自らの手で妻子を殺め、家臣たちに最期の挨拶をして潔く果てました。
当時25歳ほどであったと考えられており、志半ばでの死を余儀なくされたといえましょう。
長治の遺した辞世の句は以下の通り。
「今はただ 恨みもあらず 諸人の いのちにかはる わが身と思えば」
彼の最期は潔いものであったと称賛され、主に秀吉の手によって後世まで語り継がれることになりました。
もっとも、三木城が落ちた後の下りについては、秀吉による戦後処理をスムーズにするための「つくられた美談」であったという指摘もあります。
同時代の書状では「三木城の兵士は皆殺しにされた」とも書かれており、その可能性が高いかもしれません。
一方、残された史料は単なる伝聞に過ぎず、秀吉が戦果を誇張しただけ、という論点もあるようで……。
その実態はいまだナゾに包まれていますが、秀吉がこの勝利で毛利攻略に大きく近づいたことは間違いありません。
なお、三木城と鳥取城での壮絶な戦いについては、以下の記事にも詳しくございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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【参考文献】
峰岸純夫・片桐昭彦編『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち(中央公論新社)』(→amazon)
同著『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
渡邊大門『山陰・山陽の戦国史(ミネルヴァ書房)』(→amazon)






