2024年7月から新紙幣1千円札の顔として広まっている北里柴三郎。
彼にとっては、弟子である野口英世と交替するかたちです。
貧家に生まれ、左手に障害を負いながらも、母はじめ周囲の愛を受けた野口。
アメリカで国際結婚し、異国の地で黄熱病に倒れた最期といい、彼の人生は劇的でした。
しかし、業績となると、実は野口のものは、現在では否定されるものも多い。
一方、その点では、北里の方が勝るとされていますが、なのになぜ、伝記では圧倒的に野口に人気があるのでしょうか?
答えは、北里柴三郎の生涯そのものにありそうで……。
北里は、嘉永5年(1853年)12月20日という、混乱ど真ん中の幕末に生誕。
その後、医師として出世してからは東大派閥と激しくバトルしたばかりか、自身の女性関係スキャンダルをメディアに取り上げられるのです。
品行方正とは言い難い。しかし信義に篤かった。
北里柴三郎の人生を振り返ってみましょう。

北里柴三郎/wikipediaより引用
阿蘇国・北里に生まれる
時は黒船来航前夜の嘉永5年末(1853年)。
阿蘇国の小郷郡北里村庄屋・北里家にて、一人の男児が誕生しました。
父は惟信、母は貞。四男五女のうち長男です。
このうち男二女一は夭折しています。
父方は総庄屋、母方は久留間藩士・加藤家となります。
家老に次ぐという名門の家に生まれた母は気の強い女性で、西南戦争では家にやってきた兵士に一歩も引かなかったとか。
父方は先祖をたどると、清和源氏がルーツの郷士です。

有力武家一門・清和源氏を描いた錦絵/国立国会図書館蔵
母も、武士の娘として気丈。
そうした生まれから、北里柴三郎は「肥後もっこす」として、武芸をおさめようとしていた頃もあるほどでした。
しかし、両親はそのことを望みません。
これからはむしろ知能の時代。そう考えたのか、それとも聡明さを見抜いていたのか。
安政5年(1858年)両親は、寺子屋に我が子を入れます。
8歳になると、父方の伯母が嫁いだ橋下淵泉の家に預けられ、その父である漢方医・龍雲から四書五経を習いました。
学問を究めるまで、家に戻るな。母はそうきつく我が子に言いつけました。
そのため、彼はほぼ北里家に戻ることなく、ひたすら学問を続けることになります。
この年は「安政の大獄」前夜でした。
日本には、海を越えた脅威が迫っておりました。
黒船ではありません。
コレラです。
人の行き来が急増した幕末とは、パンデミック到来の時代でもあります。
北里家の幼い子供たちニ男一女も、この歳に立て続けに亡くなっているのです。
「肥後もっこす」の進路選択
慶応2年(1866年)、熊本に遊学し細川藩士子弟と学んだ際には、武芸に熱がこもりすぎたようです。
北里柴三郎には、学者としてのイメージがあるかもしれません。
しかし、彼は誇り高き熱血肥後もっこすでした。
最先端の流行を、敏感に追いかけたい。
武芸を鍛錬し、武士になりたい。
政治家になって、世の中を動かしたい!
そういう出世欲があったことも、なかなか重要です。
気も強く、彼はその人生において、衝突が多い人物でもありました。
明治2年(1869年)、北里は念願の細川藩校・時習館に入学しています。
が、明治政府によりこの藩校は閉鎖されてしまい、迎えた新時代。
北里柴三郎の進路には、いくつかルートがありました。
◆1 士族への道
士族として、熊本の仲間と新政府に悲憤慷慨する。
もしこの道を選べば「神風連の乱」でバッドエンドルートだったかもしれません。

神風連の乱を描いた錦絵/wikipediaより引用
◆2 陸軍兵学寮に入って軍人だ!
本人は当初、それを望んでいました
◆3 故郷で塾の先生にでもなってくれ
これが両親の希望です。
両親の考えから、逆に息子の性格も見えてきます。
熱い肥後もっこすだったのでしょう。きっと士族にせよ、軍人にせよ、知勇兼備の者として出世できたと思われます。
ただ、激情にかられ、高慢なところもある――親としては、不安になっても仕方ありません。
そんな折、当時の藩主・細川護久は「再春館」を再構築して、西洋医学の講習所を開こうとしていました。
医者であれば、まずは安心ではないのか。両親はそう勧めてみます。
しかし、息子は一蹴。
「医者と坊主は、一人前の男児が為すべき仕事ではない!」
天下国家のために、知友を磨いてきたのに、医者なんてとんでもない。
これは江戸時代以前からの、伝統的な思考でしょう。
当時は現在とは異なり、医者は特に尊敬を集める職業ではありませんでした。
このあと短い書生生活を経て、北里柴三郎は両親の希望通り医学を目指します。
このあたりも、野口英世との違いですね。

野口英世/wikipediaより引用
物語にするとして、どちらが劇的かと言われたら?
そりゃあ、左手手術に感激した野口英世となりましょう。
熊本から東京へ、医学へと進む
本人にとっては不本意であった、医学の道。
明治4年(1871年)、熊本にある古城医学校(のちの熊本医学校)に北里柴三郎は進学しました。
熊本では「神風連の乱」という混乱も起きますが、北里は巻き込まれておりません。
学校では、長崎から招かれたオランダ人海軍軍医・マンスフェルトが指導にあたっていました。
マンスフェルトは、北里柴三郎の聡明さと語学力を見出します。

『マンスフェルトが見た長崎・熊本』(→amazon)
もしも進学が数年ズレていたら、北里は漢方医として修行を積んでいたかもしれませんし、マンスフェルトとの出逢いもなかったかもしれません。
幸運な偶然を経て、北里は医学へ踏み出しました。
マンスフェルトは北里柴三郎を通訳とし、医学の魅力を教え込んだことでしょう。
そんなマンスフェルトの任期が切れた後の、明治7年(1874年)夏。北里柴三郎は母の握った握り飯を持ち、故郷を出立します。
現代ならば上京したとひとことで済むですが、当時の交通状況です。
大阪はじめ、途中の経路で住み込み書生をして路銀を稼ぎ、やっとの思いで首都を目指しました。
実はこのとき北里柴三郎は、明治政府の定めた年齢制限を3歳オーバーしていました。
そこをなんとかして、明治8年(1875年)東京医学校本科学生となります
東京医学校は、安政5年(1858年)設立の「種痘館」を起源とする医学校でした。熊本から、日本最高峰の医学校に入学したわけです。
ここで考えたいことがあります。
授業の大半はドイツ語で、英語もそこに混ざります。
勝海舟や福沢諭吉も、語学には苦しむほど。
せっかく学んだオランダ語は時代遅れになり、医学にはドイツ語が加わりました。
この慣習は日本で長く残り、かつてはドイツ語でカルテを記載することが、慣習としてあったほどです。
そんな学生生活で色々なことがありました。
・誰かがランプで読書して倒れる
→火災発生、逃げろと知らせる北里柴三郎。
・寮監の態度がでかい!ならばこうだ!
→馬に乗っているところを襲撃して懲らしめよう! とノリノリの北里。危険を察知したのか、寮監が態度を改善して未遂に。
・バンカラの時代だ!
→結社だ、行事だ、そうなるといつも先頭にいたのが北里柴三郎です。
バンカラといえば、スポーツ結社の天狗倶楽部ですね。

天狗倶楽部/wikipediaより引用
・シュルツェとの確執
→頭痛に悩まされ、イライラしていたこの教師に反発していたそうです。
・後のライバル青山胤通との出会い
→なにかと対立することになるライバルは、このとき出会っておりました。
苦学生として牛乳配達に励んだという話もあります。
まさに肥後もっこす――それが北里柴三郎でした。
卒業時の成績が不振で、学校に残れなかったという説もありますが、果たしてそうなのか。
入学者:121
卒業試験合格者:26
北里卒業順位:8
そこまで悪くはありません。むしろ優秀でしょう。
ただし、同級生からは「中程度の成績。ずば抜けていない」という証言が残されています。
実際に、成績表でずば抜けているものは、眼科のみ。あとはそれなりであったそうです。
実はこれ、ナポレオンもそうでした。
士官学校でさぞかし優秀だったのだろうと思われがちですが、そうでもない。優秀さとは、学校の成績だけが判断材料ではありません。
成績抜群というよりも、むしろ熱血、そして大それた行動力が北里にはありました。
嘉納治五郎よりも、生来の気質としては喧嘩上等であったのかもしれませんね。

柔道着姿の嘉納治五郎/国立国会図書館蔵
さすがに肉弾戦はないものの、北里柴三郎は喧嘩上等人生を歩むことになります。
黎明期の細菌学を学ぶべく、ドイツ留学へ
卒業後、医学士となった北里。
定番ルートは地方の赴任であり、医者が尊敬されなかった時代も、もはや終わりました。
西洋医学を学んだ医学士となれば引く手数多です。
しかし、それでは終われない。
国家の医学的向上を目指すべく、北里柴三郎は明治16年(1883年)、内務省衛生局に入り、局長・長与専斎(ながよせんさい)の細菌学導入計画に加わることとなるのです。
論文も発表し、学術的な成果も出し始めます。
そして、いよいよ転機が訪れます。
ドイツ留学です。
北里柴三郎はここで初めて細菌を学ぶことになるのですが、留意しておきたいのは、たとえドイツが西洋医学の本場であっても、細菌による感染症の認識はされ始めたばかりだった――ということです。
彼らの親の代までは「医者というのは血まみれであってこそ!」とすら、思われていたのです。
日本の明治前夜の1865年。
手洗いの重要性を提唱したオーストリア人医師・センメルヴェイスは、精神病院に収監。
1881年のアメリカでは、狙撃されたガーフィールド大統領の治療を細菌感染を無視して行い、死なせてしまう悲劇が起きています。
そんな時代に、フランスのパスツールが細菌学を提唱し、イギリスのリスターが消毒法を確立させ、そしてドイツであの人物があらわれます。
北里柴三郎が師事するコッホでした。

ロベルト・コッホ/wikipediaより引用
明治政府は、そんな最先端の細菌学を学ばせる者を選抜しました。そのうち一名として長与推薦のもと北里柴三郎が決まったのです。
明治18年(1885年)、北里は横浜を出立。
当時のドイツにおいて、日本人が人種差別を受けなかったとは思えません。
しかし、やがて周囲のドイツ人研究者は、熱心に取り組む北里に感心するようになっていきます。
ともかく体力、根気が凄まじい。
実験器具の洗浄まで一人でこなす。北里柴三郎の実験は驚異的でした。
北里柴三郎は、コッホのもとでチフス菌、コレラ菌の研究から始めました。
そうした中、弟子の中でもずば抜けた成果をあげていきます。
・水素ガスを用いたウシの嫌気性菌・気腫疽菌(きしゅそきん)の純培養に成功
・破傷風菌の純培養に成功
・破傷風毒素・破傷風免疫の研究を行う
・1890年ジフテリアの免疫研究者E・ベーリングとの共著『ジフテリアおよび破傷風の血清治療について』免疫血清治療発見の論文を発表、世界的に名声を得る
・コッホのツベルクリン研究修得を目指し、皇室内帑金(ないどきん)によって留学期間延長を認められる
・プロイセン政府より、プロフェソールの称号を受ける
かくして彼の名声は世界的なものとなりました。
ドイツ留学生と脚気
留学生活は大変なものでした。
当時の留学生仲間である夏目漱石は、ロンドンで神経を病んでいるほど。

夏目漱石/Wikipediaより引用
異国で慣れぬ食事を取り、息抜きもろくにできない。大変なことでした。
ドイツ留学をした医者といえば、森鴎外もおります。
彼の代表作『舞姫』を授業で習い、怒りを覚えた人もいたことでしょう。
ドイツでダンサーのエリスを妊娠させ帰国するという、格調高い無責任男の話です。
あのモデルは作者自身説もありますが、この一件についてはハッキリとはしません。ただ、少なくともあの小説のような無責任留学生もいたということではあります。
北里柴三郎も、性的には潔癖とは言い難い人物です。
しかし、ドイツ時代には『舞姫』経験はないようです。学問に取り組んでいました。
学問ばかりに取り組めず、情緒を求めた留学生の筆頭が森鴎外だとすれば、学問を極めた筆頭が北里です。
そんな北里柴三郎が否定した菌があります。
「脚気菌」です。
オランダ人細菌学者・ベーケルハーリングが発見したというこの菌に、北里は猛烈な批判を加えます。
師匠であるコッホを挟んで大激戦となったものの、北里柴三郎の正しさが証明されました。ベーケルハーリングは北里に感謝し、親交を深めているのです。
しかし、日本にはベーケルハーリングほど懐の広い研究者はおりませんでした。
東大の緒方正規は、北里柴三郎の批判を根に持っています。
このことが北里の人生に暗い影を落とすこととなるのです。
この脚気論争で、間違った説を展開し、日露戦争で大失態をやらかした人物もおります。
かの森鴎外です。
かくして北里柴三郎は森鴎外と、のちに火花を散らすこととなるのでした。
受け入れ先がない北里を救った福沢
明治25年(1892年)、世界的名声と共に北里柴三郎が帰国します。
海外から招聘を断ったうえでの帰国でした。
最先端の医療を身に着けての帰国ですからね。さぞや引く手あまただろうと思えますが、行き場所がありません。
北里柴三郎の激しい性格が災いしたのか、医学会の派閥争いか。
彼は絶対に譲らない性格ゆえに、日本の医学界を猛烈に批判し続けていました。コッホのもとで学ぶ間も、厳しいことを言い続けたのです。
いくら優秀だろうと、あんな奴はいらん。
そう思われても不思議ではありません。
これは考えておきたいところです。
明治政府は功績ばかりが美化されがちですが、のちに紙幣に選ばれたような人物を、しょうもない派閥争いで路頭に迷わせかける。そういう日本的な欠点も内包しておりました。
内務省に復職するものの、伝染病研究をできそうにもない北里柴三郎。
腐りそうになる彼に援助の手を差し伸べた人物がいます。
福沢諭吉です。
師匠である長与が、大阪の適塾仲間である福沢にどうにかならないか?と頼んだのがキッカケで、福沢は快諾します。
国際的に才能ある人物を埋もれさせたままにしてはならない。そう考えたのです。

福沢諭吉/wikipediaより引用
かくして不遇の帰国を果たした年末には、東京芝公園内に、大日本私立衛生会管理下の「伝染病研究所」が開設されました。
このあと、国の機関とすべきかどうか、二転三転することになるこの医療機関。
これには北里自身の性格も関係しています。
対立した東大と関係の深い文部省には頑固たる態度を取っているものの、内務省管轄となるとすんなり折れているのです。北里柴三郎と政府、医療機関の関係はなかなかややこしいのです
が、その原因には彼の肥後もっこすぶりもあるのでした。
福沢と意気投合したというのも、納得できるところです。
二人には共通点があります。
・武士としての誇り
・海外経験
・気に入らなければ宮仕えをしない、頑固さ
二人は似た者同士だったということでしょう。
香港ペスト調査隊の呉越同舟
明治27年(1894年)は、官命により香港でのペスト流行を調査、ペスト菌を発見します。
ペストといえば、中世ヨーロッパを襲い、「死の舞踏」にたとえられたほど。それが明治の開国以来、日本も脅威にさらされ始めたのです。
防疫が必須。そこで活躍した北里柴三郎は素晴らしい!
こう書くと、なんだかすんなりとしていますよね。
日本一丸となっていたかのようですが、そうでもありません。
これがなかなか大変なことでして。
調査隊の目的地は、当時から人の往来が多い香港でした。
衛生状態はとてもよいとは言えません。ペスト菌を調査するうちに、おそるべき事態が起こります。
調査隊の青山胤通と石神享が感染し、高熱で死線をさまよったのです。
二人とも遺書を書いたほどでした。
北里柴三郎と青山本人は学生時代からの付き合いでもあり、そこまで仲が悪いわけでもありません。
しかし、周囲からするとこうなるのです。
パスツール(フランス)
vs
コッホ(ドイツ)
陸軍(ドイツ、東大)
vs
海軍(イギリス、私立大)
青山・東大(文部省)
vs
北里・伝染病研究所(内務省)
明治政府の藩閥政治、しょうもない対立構図は伝統的ですが、こんなことでもやるのかとげんなりしてしまいますね。
北里柴三郎がペスト菌を発見し、青山らを治療して、これで万歳とならないのが面倒なところです。
北里のペスト菌発見は本当なのか?
そんな真贋論争でマスコミが大騒ぎ。
ここで先陣を切っているのが、あの森鴎外です。彼は東大派閥でした。

森鴎外/国立国会図書館蔵
世紀の大発見であるはずが、しょうもない派閥争いでバッシングがあったこと。
これは紙幣について考えるうえでも、大事なことです 。
くだらない派閥争いで、北里柴三郎すら消しかけたということを教訓としなければならないでしょう。
このペスト防疫の結果、ブームとなったものもあります。
猫の飼育です。
幕末に来日した外国人が驚くほど、猫が愛されていた日本。
セレブの飼い猫は、贅沢の極みのような生活を送っていました。
そんな猫によるネズミ捕りが、ペスト防疫に有効である――と、コッホと北里柴三郎が広めたものですから、ますます人気が高くなったのでした。
指導者として、恩義を返す者として
こうした功績のあったその年、伝染病研究所は動物舎や病室を備えリニューアルを果たしました。
北里は治療用免疫血清・予防用ワクチン製造を行う傍ら、後進の育成にも努めています。
・野口英世
・志賀潔
・秦佐八郎
・北島多一
・梅野信吉
熱血の肥後もっこすであり、東大はじめ生涯対立がつきまとった北里柴三郎。
しかし、その指導者としての熱意は確かなものでした。こうした師あればこそ、多くの医学研究者が現れたのです。
北里柴三郎と交流のあった人物といえば、こんな話もあります。
明治34年(1901年)、北里とともに免疫血清治療発見の論文を発表したベーリングが、第1回ノーベル医学生理学賞(1901)を受賞しています。

エミール・アドルフ・フォン・ベーリング/wikipediaより引用
このことに関する陰謀論もあります。
北里柴三郎も候補者であったのにも関わらず、ベーリングが割って入って受賞したというものです。
西洋人は東洋人を差別するという刷り込みあっての陰謀論の類であり、大げさにいいたてるものではないでしょう。
両者の論文発表から年月が経過しています。
この研究を進めてきたのは、ベーリングであり、北里柴三郎ではありません。
北里の共同研究者が受賞したということだけでも、彼の優秀さと着眼点の良さは明白です。敢えて無粋な陰謀論を展開する必要はないでしょう。
対立の多い喧嘩好きな北里柴三郎ですが、恩師への情熱は確かなものです。
明治41年(1908年)にコッホが来日した際には、きわめて盛大に歓迎し、感謝の意を示しています。
負けん気が強い北里ですが、その一方で自分を理解し、自分が理解した人物には、きわめて誠実に接していたのです。
栄誉と対立、そして移管騒動
北里の栄光は、続いていきます。
研究者としての誇りだけではなく、名誉や名声も喜んだ北里柴三郎です。
各国政府、学会から名誉会員といった称号と栄誉を受け続け、明治39年(1906年)には帝国学士院会員にまでのぼりつめます。男爵として爵位を得ました。
しかし男爵として宮中晩餐会に招待されても、参加しなかったそうです。
内心、自分より上だと認めたくない相手が、席次が上だと不愉快だったのだとか。
そんな北里柴三郎にとって、絶対に認められない自体が起こります。
大正3年(1914年)、大隈重信内閣が突如、伝染病研究所を内務省から文部省へ移管、東大の組織下に移すことを発表したのです。

これまでもそんな話はありましたが、北里柴三郎が断固として反対していました。
それを受けてか、青天の霹靂のような決定であったのです。
長年の敵対関係である東大の軍門にくだれということ、しかも不意打ちです。納得できるはずもありません。
北里柴三郎は反対し、彼と全職員30名が辞職するという強硬手段をとったのでした。
辞職した職員は「赤穂義士」と呼ばれたとか。
ただの美談でもありません。
関係者に自殺者は出るわ、北里柴三郎には公費横領疑惑がかけられるわ(冤罪)。
大騒ぎとなったのです。
東大にしてみれば、研究所だけではなく研究者も欲しかったことでしょう。ゆえに大変な挫折となりました。
まるで武士の国替えのような、すさまじい事態。
北里柴三郎は、私財をもって北里研究所を創立し、生涯、所長を務めています。
そして東大附属伝染病研究所と北里研究所は、しばらく対立が継続しました。研究の際には恨みを忘れて協力することはありましたが、基本的には犬猿の仲です。
関係が改善したのは、恩師・長与の子である長与又郎が第四代所長となってからのこと。
あの北里柴三郎も、恩師の子には礼を尽くしたかったのでしょう。
彼は恩義に篤いところがあり、困窮していたコッホ未亡人を金銭的に援助していました。
さらには福沢諭吉への恩義に報いるため慶應大学にも尽力。大正6年(1917年)の医学部創設に際して、医学科長に就任しました。
晩年の苦悩
貴族院議員、大日本私立衛生会会頭、日本医師会会長、第6回極東医学会会頭等など。
華々しい経歴を持つ北里柴三郎の晩年を苦しめたのが、我が子のスキャンダルでした。
大正14年(1925年)、長男・俊太郎が芸者と心中事件を起こし、相手だけが亡くなってしまったのです。
北里柴三郎は癇癪持ちであり、我が子を怒鳴りつけることもあったものの、子煩悩なところもある四男三女の父でした。しかし、マスコミとその読者はそうは思いません。
一連のスキャンダル報道で、北里家の家庭事情が赤裸々にスクープされてしまったのです。
「家庭内不和! 暴君のような父に悩んで心中か?」
「芸者遊びは父譲りなのか? そのスキャンダラスな下半身」
こんな論調が広がり、北里の恥部まで、明らかにされてしまうのです。
性格的に似た者同士であり、かつ恩義のある福沢ですが、実は北里柴三郎は彼を怒らせています。
その原因は女性関係。この点において両者は一致しないのです。
北里柴三郎は優等生でもなければ、聖人でもありません。
当時はステータスシンボルとして、芸者と遊び、妾を持つことは当然のこと。それを実行してしまった北里に、福沢は苦言を呈しています。
福沢は、日本人男性のゆるすぎる貞操論を繰り返し批判しています。当然の帰結でしょう。
そんな恥部が、我が子のスキャンダルで暴かれてしまったのです。
しかも、彼は男爵位を継ぐべき嫡男。華族の品位を傷つけるものして、重大深刻なものと受け止められました。
以降、北里家の業績は次男である善次郎が継ぐこととなります。爵位は父の死後返上しておりました。
そんな中、北里柴三郎は自らの研究所所長以外の職を辞職します。
慶應大学からは慰留されておりますが、師匠への恩義を語る弟子たちに、北里は涙したものです。
そうした最中心労がたたったのか、事件の翌年には妻・乕(とら)が急逝。
享年57。
それから5年後の昭和6年(1931年)、北里本人も自宅で脳溢血により死去。
享年78。眠るような最期でした。
新紙幣の顔である北里柴三郎
医学に尽くした聖人のようなイメージがありますが、実は熱血肥後もっこすであり、生涯東大と戦い抜いた闘志の人でもありました。
こうして辿ってくると、なぜ弟子である野口英世が取り上げられるのか、見えてくるものがありませんか。
彼の過激な言動と比較すると、留学費用で芸者遊びをした野口が子供のやんちゃに思えるほど。
本稿ではそこまで詳細には書いておりませんが、北里柴三郎の女性関係はかなりのものです。
福沢が苦い顔になっても不思議は全くありません。
野口は洒落になる。北里柴三郎はそうではない。これは重要な点です。
医学界の腐敗も、おそろしいものがあります。
人の命がかかっているのに、しょうもない派閥争いをする。そこには医者即ち聖職という考えは通じません。人命を賭した権力争いなのです。
世紀の発見につながるペスト研究隊にせよ、ペストに罹りで死にかけた人間がいる中、派閥争いをしています。
まったくもって、洒落になっておりません。
野口の生涯は、泣ける伝記映画になります。
実際に存在しています。
しかし北里柴三郎の場合は『白い巨塔』系の腐敗を暴く、そんな作品になることでしょう。
晩年のスキャンダルも、厳しいものがあります。
紙幣の顔はなぜドラマにならないのか?
その理由は明らかなこと。
ただし、これは北里本人の資質のせいだけとは言い切れません。
北里柴三郎を受け入れられず、批判する生意気な人物だとスポイルし、排除に動いた組織。
医学会の腐敗。
明治政府の派閥争い。
日本の暗部が、そこにはあります。
北里柴三郎の功績に、文句を言えるはずがありません。
しかし、彼を讃えるだけではなく、医学界の暗部や派閥争いの愚かしさといった、北里を苦しめた力のことも、考えていきたいものです。
あわせて読みたい関連記事
-

勝や榎本にケンカを売った福沢諭吉|慶応創始者の正体は超武骨な武士だった
続きを見る
-

安政の大獄は井伊直弼が傲慢だから強行されたのか?誤解されがちなその理由
続きを見る
-

連鎖する不平士族の反乱|佐賀の乱→神風連の乱→秋月の乱→萩の乱→西南戦争
続きを見る
-

実は遊び人だった野口英世と彼を支えた人々――偉業は一人にして成らず
続きを見る
-

天狗倶楽部が大河いだてんを盛り上げる!日本初のスポーツ倶楽部とは?
続きを見る
【参考文献】
福田眞人『ミネルヴァ日本評伝選 北里柴三郎』(→amazon)
『国史大辞典』





