姫の前(比奈)

絵・小久ヒロ

源平・鎌倉・室町

義時がベタ惚れだった姫の前(比奈)北条と比企の争いで引き裂かれ

2025/03/28

「ロミオとジュリエット」と言うには、いささかロマンチック過ぎるけれど、二人の離別シーンには胸が締め付けられる思いだった。

それが大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の北条義時と、その妻・比奈(以下、姫の前で表記)でしょう。

劇中では、義時が八重と死別した後、比企一族から迎えた姫。

いったい史実ではどんな女性だったのか?

北条と比企を繋ぐ――そんな役割からして政略結婚にも思えますが、意外や北条義時からの猛烈アタックで結ばれたという記録が残されています。

では、二人が離別した後の彼女はどうなってしまったのか。

承元元年(1207年)3月29日に亡くなったとされる姫の前の生涯を振り返ってみましょう。

絵・小久ヒロ

 


義時一人目の妻は正体不明

大河ドラマの主人公にもなったのに、婚姻関係がとにかくわかりづらい北条義時。

彼の嫡男・北条泰時が寿永2年(1183年)の生まれですので、少なくともその前年には妻がいたと考えられます。

しかし、この泰時は「庶長子」とされています。

ゆえに、義時が妾を迎え産ませたようにも思えてきますが、ここで『鎌倉殿の13人』を思い出してみましょう。

劇中で義時は八重に向かい、「正式に結婚することを認めてもらう」と語っていました。

江間の領地をもらい、その屋敷に八重を住まわせていた義時。

あの状態では、周囲からも深い仲だと見なされていたことでしょう。

下衆の勘ぐりでもなく、それが当時の感覚であり、正式な夫婦関係であることを認めさせていたという状況がわかる場面です。

そもそも当時の義時は、本人の身分が盤石ではありません。

父・北条時政も跡取りとは決めておらず、江間を領有する「江間小四郎義時」とみなされていました。

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵

鎌倉殿である源頼朝の義弟ではある。

しかし御家人としてはせいぜい江間の領主程度。

そんな身分だからこそ、義時の結婚に関する記録は曖昧であり、息子・泰時の誕生も重視されなかったため、母の身分も生まれた性格な日付も判明しておりません。

だからといって、その女性がぞんざいに扱われたことにはなりません。

確かに、義時一人目の妻であり泰時の母は「妾」と表記されることもあります。

これが現代人の考える「妾=愛人」という図式には当てはまらないのです。

当時は、結婚相手に身分差があると、正式な婚礼でも「妾」と記載されることがあり、例えば、義時の妹である阿波局(実衣)もそうでした。

彼女も

「源頼朝の異母弟・阿野全成の妾」

と記載されていることがあります。

頼朝の異母弟・阿野全成/wikipediaより引用

源氏の御曹司に嫁いだ地方小豪族・北条氏の娘という力関係からそうなってしまうんですね。

少し前提の話が長くなってしまいました。

それでは義時の正室・比奈(姫の前)を振り返ってみましょう。

 


高嶺の花だった姫の前

義時の長男・泰時が生まれ、彼が9歳になっていた建久2年(1191年)。

妻に先立たれて数年が経過していたと推察される義時に、新たな恋が芽生えました。

相手は鎌倉殿の大倉御所につとめる女官・比奈(姫の前)です。

『吾妻鏡』にはこうあります。

「比企の籐内朝宗が息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔太だ美麗なり」

「権威無双」とか、「美麗」といった言葉が目に飛び込んできますね。

比奈(姫の前)の特徴を文意からまとめてみましょう。

◆比奈(姫の前)とは?

経歴:比企尼の子である籐内朝宗(比企朝宗や比企藤内朝宗とも)の娘であり、つまりは比企尼の孫娘にあたる

見た目:美女

特徴:他に類を見ないほどパワーを振るっている!※ 源頼朝もお気に入り

こうした女性を表現する言葉はこれでしょう。

高嶺の花――。

凄まじい美人で素敵なだけでなく、ツンケンしていてなかなかデレない。

日本人にとってお馴染みの典型例は小野小町でしょう。

彼女は、深草少将という男性にアプローチされるも「百夜通ってきたら……」と条件を出し、その百日目に少将は大雪に遭って凍死してしまった――。

そんな創作話があり、史実ではありません。

しかしこうした話から、プライドの高い美女が魅力的だという日本人の感性が見えます。

史実の義時は、世間でも評判の美女・比奈(姫の前)に対し、なんと一年以上も恋文を送り続けました。

そして建久3年(1192年)9月、見かねた頼朝が姫の前に命じます。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

「絶対離縁しないと起請文を書かせるから、あの男と結婚してやってくれ」

かくして義時と姫の前の結婚はまとまったのです。

 

三人の子に恵まれるも引き裂かれ

義時が惚れて惚れてようやく結ばれた――そんな夫妻は子宝にも恵まれました。

建久4年(1193年)に朝時が生まれると、建久9年(1198年)には重時が誕生。

生年不詳の女子・竹殿も、姫の前が母とされています。

姫の前の子である北条朝時(右)と北条重時(左)/wikipediaより引用

しかし、残念ながら夫婦生活は末永く……とはなりませんでした。

建仁3年(1203年)9月に【比企能員の変】が起き、比企一族は滅亡するのです。

政争の相手は、他ならぬ北条氏。

姫の前は命こそ助けられましたが、二人は離縁となってしまいました。

程なくして姫の前は上洛して源具親と再婚し、元久元年(1204年)には輔通を生んでいます。

そして承元元年(1207年)3月29日に死去したとされます。

 


実家の後ろ盾があればこそ

姫の前の記録については以上ですが、あらためて考えてみたいことがあります。

せっせと恋文を送り続けた義時を、史実の彼女が拒んでいた理由は何だったのか?

「性格が高慢でプライドが高いから」

「義時が好きになれなかったから」

「他に好きな相手がいたから」

このあたりがパッと思いつくところですかね。

吾妻鏡』の記述からすると、彼女のプライドの高さが影響しているように思えます。小野小町の百夜通伝説も連想されますし。

吾妻鏡(1626年江戸時代の写本)/国立国会図書館蔵

ただ、歴史を読み解く上で、考えたいことがあります。

歴史上「気が強く、高慢で、わがままな、悪女だ」と言われる女性は、おおむね権力を有しているか、実家の後ろ盾があるケースが多く、強気の発言をしても危害が加えられない立場にあります。

逆に、気が優しくおとなしいとされた女性はバックが無力であり、何らかのキッカケで容易く転落してしまう。

「悲運の美女」という結果から逆算されることが多い。

姫の前の場合は北条義時のアプローチを拒んでもよいだけの力がありました。

「当時権威無双の女房」

であったのは、実家である比企の力が背景にあったからでしょう。

 

頼朝の介入とフォロー

一方で、史実の義時と姫の前の結婚には「頼朝の介入」があります。

頼朝がこのころ義時を特別扱いし、地位を引き上げようとした――そんな行動は記録にも残されています。

例えば、義時と姫の前の結婚から遡ること数ヶ月前、建久3年(1192年)5月のこと。

義時の子・金剛(後の北条泰時)が散歩をしていて、馬に乗ったままの御家人・多賀重行とすれ違いました。

このとき、頼朝が下馬の礼をしなかったとして、カンカンになって怒ります。

「礼儀というのは年齢じゃない。金剛(泰時)はお前とはちがうのだ。こんなことをしてただで済むと思っているのか!」

すると重行は慌てて弁解。

「いや、俺はそんなことはしてません! 金剛殿(泰時)に聞いてください!」

そこで頼朝は、泰時と従者を呼び出した。

泰時が「そんなことはなかったです」というと、従者の奈古谷頼時は全く違うことを口にする。

「あのとき重行殿は下馬していました」

頼朝はますます激怒します。

泰時は「すれ違った事件そのものがない」と言っているのに、従者は「(事件はあったが)下馬していた」と答えた。

話が食い違っていて、泰時だけが真相を語ったとみなしたのでしょう。

「お前らな、あとで糾明受けるとわからないで、その場しのぎのことを言ってごまかすなんて、性根も、やり方も、何もかも気に入らんわ!」

激怒して頼朝は、重行の所領を没収。

一方で泰時には「幼いのに優しいね」と、自らの佩剣を贈ったのでした。

北条泰時/wikipediaより引用

これは金剛本人への愛着だけでなく、父・義時への思いも感じさせます。

「ご子息ですらああも尊重されるなら、江間小四郎殿御本人はさぞかし大事にされているのだろうなあ」

そんなアピールであり、そう感じる者たちの中に、姫の前がいてもおかしくはありません。

佩剣の次に、頼朝が義時に贈るもの。

それが頼朝が気に入っていた姫の前であるとすれば、義時の感激が溢れても不思議はありません。

むろん、不器用でじれったい恋を応援したい気持ちがあってもおかしくはありませんが、佩剣にお気に入りの女官となると、これはもう特別な思いを感じさせます。

しかも結婚の際、頼朝は起請文を書かせています。

こうまでされたら信心深い中世人としては、恐ろしくて離縁などできなくなる。神聖な結婚の仲人を果たすことは、むしろ頼朝にとっても喜びだったのではないでしょうか。

『鎌倉殿の13人』での頼朝は、義時に対して折に触れ愛情を見せました。

居並ぶ弟たちを前にして、御家人たちは信頼できないが義時だけは例外だと語る。そなたたちも一番下の弟だと思って欲しいと告げていました。

あるいは大江広元が義時の忠誠心を誉め、彼だけは手放してはならないと助言すると、大いに納得もしていました。

親愛の一環として、義時と姫の前の結婚を取りもつのだとすれば、それもありではないでしょうか。

 

頼朝の死で二人の世界も終わる

いくら凄まじい美貌の持ち主とはいえ、なぜ義時は比企一族の娘を正室にしたのか。

もっと慎重に相手を選ぶべきではなかったか?

そんな風に考えてしまうかもしれませんが、それはあくまで結果論。

両家が激しい抗争に突き進むのは、想定外だった頼朝の早すぎる死があります。

正治元年(1199年)正月――源頼朝死す。

跡を継いだ源頼家の背後には比企一族がいました。

源頼家/wikipediaより引用

外戚として権勢を握るこの比企一族は、頼家の乳母を務め、さらに若狭局を頼家の妻としていました。

頼家が権力を保ちながら、比企の血を引く子・一幡を次の鎌倉殿とすることこそが、彼らの目標。

北条とすれば、そんなことはとても許せません。

彼らは頼朝と政子の二男である千幡(のちの源実朝)の乳母を務めていて、あわよくば「千幡を鎌倉殿としたい」という野望が湧き上がっています。

そして比企と北条はぶつかり合い、北条が勝利をおさめるのです。

結果、義時も比企一族の娘である姫の前と別れることになってしまった。

もしも頼朝が、生きていれば……史実では頼朝が結び、頼朝の死が引き裂く二人の仲でした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏: 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』(→amazon
細川重男『頼朝の武士団』(→amazon
永井晋『鎌倉源氏三代記』(→amazon
坂井孝一『源頼朝』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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