2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で不思議に思われたのが、がさつでクズな性格を隠そうともしなかった義時の二男・北条朝時でしょう。
女官を弄んで逃げようとする姿は、優等生的な兄の北条泰時と比較して、まさに月とスッポン。
史実でもあんなに酷かったのか?
というと、ある一つの事件がクローズアップされ過ぎという感も否めません。
それが【ラブレター事件】です。
一体なんのこっちゃ?と思われるかもしれませんが、ともかく史実の朝時は、北条時政の名越邸を継承し、【和田合戦】や【承久の乱】でも活躍するなど、決してクズ要素だけの人物でもありません。
それは朝時の事績を知ればご納得いただけるはず。
寛元3年(1245年)4月6日は北条朝時の命日。
その生涯を振り返ってみましょう。
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姫の前を母とする義時二男
北条朝時は建久4年(1193年)、北条義時の二男として鎌倉で生まれました。
源頼朝が征夷大将軍となった翌年。
富士山の麓で大規模な巻狩が行われ、【曽我兄弟の仇討ち】が起きた年でもあります。
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母は比企一族の出身である姫の前(比奈)です。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、富士の巻狩りをキッカケに義時と姫の前(比奈)が結ばれ、程なくして朝時が生まれたという設定なのでしょう。
劇中では、兄の北条泰時も巻狩に参加していました。
兄弟の年齢は11歳も差がありますが、それ以上に重要なのが“異母兄弟”であることでしょう。
朝時の母・姫の前は、頼朝の仲介により「離縁しない」という起請文を書いてまで義時が娶った正室です。
しかも、彼女の実家は有力御家人の比企氏。
義時から見れば、むしろ格上の妻と言っていいほどの縁談ですから、その正室を母とする朝時は、泰時をさしおいて嫡出とされてもおかしくない状況でした。
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しかし……。
比企能員の変
建仁3年(1203年)。
北条朝時が数えで11才のときに【比企能員の変】が勃発し、北条に追い込まれた比企一族は滅亡。
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姫の前(比奈)と義時も離縁に至り、比企の血を引く朝時は、それが災いとなってしまいます。
ドラマでは、北条家を去る直前の姫の前(比奈)が、寂しげな目で我が子を見つめる場面がありましたが、幼くして母と離別した兄弟の悲しみもどれほど深かったでしょう。
このとき朝時の隣には、同母弟の北条重時もいました。
重時は建久9年(1198年)生まれで、朝時の4歳下。さらに母を同じくする姉妹に竹殿がいます。
彼らが別れを嘆いたであろう、母の姫の前(比奈)は、その後、京都で源具親と再婚。
朝時は後に、源具親と姫の前の二男・源輔時を猶子としています。
一方、姫の前と別れた父の義時は、伊賀の方と再婚しました。
そして元久2年(1205年)、朝時にとっては異母弟となる北条政村が生誕するのですが、ここで一旦、北条義時の子供をまとめておきましょう。
北条泰時:寿永2年(1183年)生まれで母は不明
北条朝時:建久4年(1193年)生まれで母は姫の前
北条重時:建久9年(1198年)生まれで母は姫の前
竹殿:生没年不詳で母は姫の前
比企能員の変:建仁3年(1203年)
北条政村:元久2年(1205年)生まれで母は伊賀の方
義時の妻・伊賀の方(のえ)はなぜ伊賀氏の変を起こしたか?
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泰時から政村まで約20年。
他にも側室の子はいますが、上記メンバーを見るだけでも跡目相続の競争率が高いことは明らかでしょう。
建永元年(1206年)に13歳で元服を果たすと、その後、鎌倉殿であり従兄でもある三代将軍・源実朝から偏諱を与えられ、朝時と名乗ったと推察されます。
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