嘉承元年(1106年)7月、源義家が没しました(命日は4日とも15日ともあり不明)。
八幡太郎の名でも知られ、後の子孫からは鎌倉幕府の源頼朝や室町幕府の足利尊氏を輩出。
まさに“武士のシンボル”とも言える存在なのですが、実際、義家とはどんな人物でどんな事績があったのか?
『梁塵秘抄』には、こんな今様が収録されています。
鷲のすむ深山(みやま)には なべての鳥は棲(す)むものか
おなじき源氏と申せども 八幡太郎はおそろしや
鷲のいる深い山には、普通の鳥は住まないよ。
同じ源氏といっても、八幡太郎は恐ろしい!
「おそろしや」という言葉には、単なる恐怖だけでなく、畏敬の念も漂っているようで、智勇に優れ、正義感にあふれた八幡太郎義家はまさに伝説の勇者と言ったところでしょうか。
本記事で、源義家の生涯を振り返ってみましょう。

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用
清和源氏のうち河内源氏に生まれ
源義家の生年は諸説あり、その中で最有力とされているのが長暦3年(1039年)です。
父は源頼義、母は平直方の娘。
生まれた場所は河内国南部で、現在だと大阪府羽曳野市にあたりますね。
出生に際しては、父の頼義が八幡宮に参拝したとき、夢に一振りの宝剣が出てきて、「夢を見た月に、妻が懐妊を告げた」という逸話が残されています。
では、なぜ“八幡太郎”と呼ばれるのか?
源義家生誕の地で調べると、京都府京都市下京区が「八幡太郎源義家誕生地」として表示され、彼が7歳の春に石清水八幡宮で元服し、「八幡太郎」と称したことが由来となっています。
弟の源義綱と源義光は、それぞれ賀茂二郎、新羅三郎と称していて、元服した神社と生まれ順からの名乗りと推察できます。
ゆえに八幡太郎なんですね。
なお、清和源氏の男子として河内で生まれた源義家の血統は「河内源氏」と称されます。
この家系は後に錚々たる人物を輩出したため、最初から名門のように思われがちですが、義家の誕生時点では源氏の一系統に過ぎません。
要は、義家とその子孫が河内源氏を特別な血統にしていったのです。
義家が生まれた当時の武士は、政治的にはまだまだか弱い存在。
京都では藤原摂関家に仕え、治安維持や盗賊の逮捕を任務としていました。
そして地方で大規模な反乱があれば鎮圧に向かう、朝廷からの命令で動く存在だったのです。
しかし、確実に時代は動き始めていました。
気候や荘園経営の変化など、様々な条件により、権力構造も変化します。
源義家の父・源頼義の時代になると、藤原氏の最盛期は過ぎ、摂関政治は衰退しながら、院政期の前段階へ。
地方に目をやると、豪族や山賊、海賊の類が猛威を振るっており、武力行使で生活をするという意味では、武士と賊の境界がまだ薄い時代でもありました。
寺社には僧兵たちもいて、大きな武力を有していました。

興福寺の僧兵/wikipediaより引用
【前九年の役】黄海の戦いに参戦
11世紀の半ば、奥州で戦乱が起こりました。
中央に対する「蝦夷(えみし)」の反発であり、台頭してきたのは奥州の土豪・安倍氏。
彼らを討伐するべく、父・源頼義と共に源義家は戦地へ向かいました。

源頼義『本朝百将伝』/国立国会図書館蔵
そしてその後約10年、陸奥で戦うことになり、天喜5年(1057年)11月の【黄海の戦い(きのみのたたかい)】では、厳しい寒さと食糧欠乏の中、大敗を喫してしまいます。
しかし、この戦いで当時19歳の義家は称賛の的となりました。
吹雪の中で馬に跨り、苦戦の中でも敵の白刃をものともせず、強弓で敵将を射抜いてゆく勇姿が称えられたのです。
義家が弓を引き、弓弦が鳴ると敵が倒れる――その武勇は、まるで神が遣わしたかのように思われたのでした。
康平4年(1061年)になると、源頼義の陸奥守任期が満了となります。
朝廷は、後任の高階経重(たかしな の つねしげ)を派遣するも、陸奥の武士たちにそっぽを向かれて、京都へ帰還。
結局、武士を束ねることのできる源頼義が追討を続行することになります。
・現場から離れたところで、実態に即さない人事判断を下す朝廷
・朝廷の意に背いてでも軍を動かす武士たち
そんな構図が見えてきますね。
日本が政治システムを参考にしていた中国では、軍の跋扈により朝廷が脅かされた苦い教訓をふまえ、文民統制(シビリアンコントロール)が徹底されていました。
しかし日本はそうではなかった――そんな歴史の分岐点が、この頃から見てとれます。
源頼義や源義家らの官軍は、中央に頼ることなく、出羽国・清原氏の援軍をキッカケに膠着していた戦線を打破し、安倍氏を撃破します。
頼義は、東国における武士たちの信頼、財力、名声を手にし、そしてその嫡子たる義家も、輝かしい青年武将として成長していったのです。
康平6年(1063年)、義家は従五位下出羽守に叙任されたのでした。
白河天皇を守る武士として
源義家はその後、越中守の任官を希望しました。
しかし願い叶わず延久2年(1070年)には下野守となっています。
出羽守としての任期を満了したのか、それとも転任となったのか、その辺は不明ながら、このごろ陸奥を荒らしていた藤原基通を捕らえたことが記録されています。
承保2年(1075年)、父・頼義が88という高齢で大往生を遂げたとき、義家は37歳の壮年を迎えていました。
かくして義家は嫡流を継承――。
卓越した個人的武勇だけでなく、父から引き継いだ財力、さらには武士団を得て、名実ともに武士の頂点に立ったのです。
承暦3年(1079年)、美濃にて源国房と源重宗が争うと、官命によりこれを追討し、さらにはその2年後の永保元年(1081年)、園城寺の悪僧を検非違使と共に追補しました。
このときは容赦なく寺社を焼き討ちにしています。

園城寺/wikipediaより引用
義家が恐ろしい存在として知られるようになったのは、こうした寺社焼き討ちの影響もあるのでしょう。
当時は寺社を焼き討ちにしても、悪名だけが高まるわけではありませんでした。
このあと白河帝の警護をつとめ、武士を率いる義家の姿は人々の注目を集めます。
武士は天皇を守り侍るもの――そんな姿が歴史に刻まれました。
この行幸では、義家は布衣(ほい・常服)を着て、弓矢を携えています。いざという時、その方が戦いやすいという理由です。
これも日本特有と言えるかもしれません。
比較として中国を見ますと、武器を帯びて君主の側に近寄ることは厳しく制限されていました。
剣を履いたまま近づき、悪意があれば君主を殺傷することができる――それゆえ禁じられていたのです。
秦の始皇帝は荊軻(けいか)に暗殺されそうになった際、家臣たちの昇殿を禁じていたため、本人が応戦することとなりました。

秦王政(左)に襲い掛かる荊軻(右)。画面中央上には秦舞陽、中央下には箱に入った樊於期の首が見える/wikipediaより引用
処罰を恐れた家臣たちは「剣を背負って抜いてください!」と叫ぶことしかできなかった。
あるいは『三国志』の英雄として知られる曹操は、異例の特権として献帝から「剣履上殿」(けんりじょうでん・剣を履いたまま昇殿すること)の特典を賜りました。
こうした中国と比較すると、布衣に弓矢を装備した源頼家の異様さがわかります。
儀礼よりも実践的なノウハウを重視し、なし崩し的にルールを変える。
こうした天皇と武士のあいまいな関係は、時代を先んじた何かの予兆を感じさせます。
後三年の役
永保3年(1083年)、源義家は陸奥守となり、再び現地へ出向くこととなりました。
そして、かつては味方だった清原氏の内紛に介入。
【後三年の役】が始まります。
この合戦は【前九年の役】とは異なります。
朝廷の追討宣旨に拠ったものではなく、陸奥守の権限により起こした戦いであり、しかも発端は清原氏同士の内紛でした。
ゆえに朝廷では、この乱を重視せず、鎮圧に乗り出した義家を冷ややかに見ていました。
いっそ朝廷が宣旨を出すなり、あるいは義家を止めるなりすれば、武士が台頭する歴史も大きく変わったかもしれません。
争い事には関わりたくないのか。中央は、消極的な態度を取っていたと思えるのです。
そのため朝廷にとっては状況は悪化します。
義家の弟である源義光までが、兄を助けるため、許可を得ずに都を離れて現地へ向かったのです。

源義光像(摂津国寿命寺蔵)/wikipediaより引用
このときの義光は
・朝廷の許可を願ったが許されないため、やむなく辞職して兄を助けに向かった
・朝廷に無断で兄を助けに行ったため、解任された
という理由とされています。
「武士が朝廷の許可を得ずに行動する」
そんな危険性は確実に育まれてゆきました。
“私闘”とされ恩賞は無く解任
【後三年の役】が始まって4年後の寛治元年(1087年)、白河天皇が譲位。
院政が存在感を高めていくこの年、源義家は清原武衡や清原家衡に勝利をおさめ、それを朝廷に報告しました。
しかし朝廷は私戦とみなし、恩賞を与えず、さらには翌寛治2年(1088年)には陸奥守を解任し、後任を藤原基家とします。
朝廷の判断はあくまで「私闘」でした。
私闘の最終局面において残ったのは、源義家と共闘していた清原清衡。
彼は奥州の支配者となると、実父・藤原経清の姓に戻し、藤原清衡となります。
後に源頼朝に滅ぼされることでも知られる、奥州藤原氏の祖となったのです。

毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用
【前九年の役】と【後三年の役】により、奥羽に割拠していた安倍氏と清原氏は滅びましたが、その中で河内源氏と奥州藤原氏は生まれました。
源義家は、まるで奥州藤原氏を台頭させるために戦ったようなもの。
恩賞もなければ、逆に解任されてしまう始末で、ただただ損をしただけのようにも見えます。
果たしてそうだったのか?
弟・義綱は引き立てられ、兄・義家は忍従の日々
源義家は、恩賞でも官位でもない、別のもっと大きな信用や崇敬を得ていました。
【前九年の役】と【後三年の役】において義家のもとにいた東国の武士団、彼らはその武勇と知略に惚れ込み、伝説を語り継いでいったのです。
そうした武勇伝には、どこか聞き覚えのある人名や地名が出てきます。
例えば、わずか16歳という若さでありながら、右目を射られながらも奮戦した鎌倉景正。

鎌倉景正『集古十種』/wikipediaより引用
彼は「鎌倉党」と呼ばれる相模一帯の武士と関わりがあったとされます。
この鎌倉景正の矢を抜こうとした三浦為次は「三浦党」の人物です。
こうした坂東武者たちが義家のもとに集まり始めました。
武芸に長けた下級貴族だけでは終わりそうにない、何か特別な存在になりつつある源義家。
坂東武者を束ねる武士の頂に立つ者――そんな輪郭が見え始めてきたのです。
しかし、朝廷がそれを警戒しないわけもありません。
朝廷と公卿の後ろ盾が盤石ではない義家は、そのことを痛感せざるを得ない状況に直面します。
当時の義家は、白河天皇の寵愛を背景に権力を得ていました。

白河天皇/wikipediaより引用
しかし【後三年の役】による政治的窮地に際し、白河天皇は手を差し伸べるわけではありません。護衛としては重用するものの、そこに留まっていたのです。
朝廷にしても、義家の力を警戒しており、義家の弟・加茂二郎義綱をひきたて、兄弟を争わせることで牽制しようとします。
義綱を引き立てる一方で、義家の荘園を停止し財力を奪うなどの手段に出たのです。
そして寛治6年(1092年)、義綱を陸奥守に任じると、寛治7年(1093年)に出羽で平師妙・師季親子が乱が起き、翌嘉保元年(1094年)に義綱の郎党がこれを鎮圧しました。
親子の首を持って京都に入った義綱はにぎにぎしく歓迎されました。
これに対して朝廷は従四位下を与え、同時に美濃守にも任じます。
【後三年の役】における義家とはまるで異なる高待遇で、あからさまとも言えました。
源氏が争う苦悩の中、世を去る
承徳3年(1099年)、若くして関白・藤原師通が亡くなりました。
生前の彼は白河法皇を制御していましたが、その抑制がなくなると、新たな政治体制が始まろうとします。
天皇と上皇の間で権力が分散される「院政」です。
藤原師通の死は、源義家の弟である源義綱にも影を落としました。関白の庇護を失い、受領に任じられなくなったのです。
一方の義家は、白河法皇の権力と共に輝きを取り戻し始める。
承徳2年(1098年)には従四位下に叙せられ、昇殿が許されました。
しかし、晩年の義家は一転、苦悩の日々を迎えます。
康和3年(1101年)、次男であり嫡男でもあった対馬守・源義親が、任地で暴虐な振る舞いをし、あまりのことに大宰大弐・大江匡房が朝廷に訴えたのです。

大江匡房肖像(菊池容斎画)/wikipediaより引用
しかも義家が義親召還のため派遣した官吏をも、義親は殺害してしまいました。
もはや救済の手段はなく、義親は隠岐への配流が決定。
それでも反抗的だった義親を、ついには義家自身が追討せねばならない成り行きとなってしまうのです。
最終的に、父が子を追討することはありませんでした。
嘉承元年(1106年)、弟の新羅三郎義光と、義家の三男・源義国が常陸国で衝突(常陸合戦)。
親族同士が争う失意の中、同年の喜承元年(1106年)7月に源義家当人が病気で亡くなってしまうのです。
享年68。
東国で得た信頼・威光は頼朝へ
嫡男の義親は天仁元年(1108年)に討伐されました。
この【源義親の乱】は平正盛が征討し、平家の台頭と源氏の凋落を印象付けるものとなったのです。

平正盛/国立国会図書館蔵
結果、河内源氏は三男・源義忠が継ぎました。
そしてその義忠の跡を継いだのは義親の子だった源為義ですが、こちらは【保元の乱】で崇徳上皇に味方して敗れると、自身の嫡男である源義朝に斬られました。
ご存知、源頼朝の父ですね。
義朝の三男だった源頼朝は、父や兄とともに【平治の乱】に参戦して敗北し、伊豆へ流刑となりますが、そこで源義家の威光に助けられることとなります。
東国にはたくましい坂東武者たちがいました。
かつて彼らの信頼を得て東国で活躍した、あの源義家の子孫――その力を得て、源頼朝は天下草創に挑みます。
朝廷に手綱を握られるのではない、武士の世へ。
河内源氏の願いは、かくして叶えられていったのです。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
源義家は武士の天下草創の道のみならず、悪しき先例ともなりました。
弟や我が子との闘争に彼は死の間際まで苦しめられているのです。
頼朝もまた、弟たちを手にかける血で血を争う惨劇を繰り返します。
同族同士の争いも一因となり、鎌倉幕府における源氏将軍は三代で断絶するのでした。
あわせて読みたい関連記事
-

武田氏 佐竹氏 小笠原氏らを輩出|甲斐源氏の祖・源義光はどんな武士?
続きを見る
-

坂東のカリスマ・源義朝が鎌倉の礎を築く|頼朝や義経の父 その実力
続きを見る
-

源頼朝はどんな生涯だった?武家の御曹司が伊豆に流され鎌倉政権を樹立
続きを見る
-

頼朝の曽祖父・源義親の乱が平家の台頭を招いた?暴れん坊源氏の所業
続きを見る
-

後三年の役とは頼朝の高祖父・義家を武士のシンボルに押し上げた合戦
続きを見る
【参考文献】
安田元久『源義家 (人物叢書)』(→amazon)
他





