映画にせよ、ドラマにせよ、小説、アニメ、漫画にせよ。
活躍時期が大作家と重なってしまい、影が薄くなってしまう悲運のクリエイターというのはいつの時代もいます。
後世からすればそこまで実力差がないように思えても、自分たちが生きている当時は圧倒的に盛り上がり方に差がある。
大河ドラマ『べらぼう』の舞台である江戸時代の後期にもそうした組み合わせがあり、作家ならば山東京伝と曲亭馬琴、そして絵師ならば、喜多川歌麿と鳥居清長がその典型例と言えるでしょう。
鳥居清長は一世を風靡した絵師です。
にも関わらず、活動時期が重なる歌麿がジャンル最高峰とされたため、現代においては割を食っている面があります。
歌麿がいかに斬新な作風であるか語る上で、比較対象とされてしまうことも……。
いったい鳥居清長とはどんな絵師だったのか?

鳥居清長『濱屋 川岸の涼み』/wikipediaより引用
文化12年(1815年)5月21日はその命日。
清長の生涯を振り返ってみましょう。
八頭身スレンダー美女で江戸っ子を魅了する
鳥居清長は、江戸っ子のニーズを適切につかむ絵師といえます。
作風は手堅く、いま見ても魅力がわかりやすい。
現代でも、美男美女は手足が長くスラリとしていて、デザイン性のある衣装を着ていることが定番であり、清長が得意としたのもそんな理想的な美男美女でした。
推しの役者にせよ、美女にせよ、なるべく理想的で美しくあって欲しい――という庶民の需要に合致する作風です。
清長と比較すると、喜多川歌麿の個性もわかってきます。
歌麿は美人を描くにせよ、モデルの特徴を入れる。若々しい茶屋娘だけでなく、肉がだぶついて、ふてぶてしい顔をした下級女郎も描くことがありました。
東洲斎写楽は、もっと違いが際立っています。
写楽は役者の欠点すら誇張しかねない絵を描いたため、思うように成功できず、短期間で姿を消してしまうのです。

東洲斎写楽『瀬川菊之丞』/wikipediaより引用
歌麿と写楽は、どちらも『べらぼう』の主役・蔦屋重三郎が売り出した絵師。
画風を比較していくと、背後にいる蔦屋の狙いも見えてくるかもしれません。
では、蔦屋にとって分厚い壁となった鳥居清長とは、どのような存在だったのか。
鈴木春信に続いて美人画を得意とする
鳥居清長は宝暦2年(1752年)に生まれました。
歌麿とほぼ同年で、場所は江戸の日本橋、木材店が立ち並ぶ本材木町です。
書肆(しょし・書店のこと)・白子屋の関口市兵衛の子で、市兵衛または新助という名でした。
絵師である鳥居清満に入門し、デビューを飾ったのは明和4年(1767年)のこと。清長の名乗りは19歳からとされます。
このころの浮世絵は大きな転換点を迎えていました。
技術の発展による【錦絵】の登場です。
それまでの浮世絵は、白黒に赤と緑を加える程度であり、そんな【紅擦絵】から【錦絵】への転換点は大きなものでした。
この【錦絵】の黎明期にブレイクした【美人画】の名手が鈴木晴信。その後を追うように、清長も華麗な【美人画】に乗り出してゆきます。
鳥居派は、売れ筋の定番でもある【役者絵】を得意とします。
清長はそれよりも【美人画】を得意としました。
スラリとした肢体の美女が、あざやかな着物に身を包む――繊細で美しい絵であり、背景には江戸の景色が描き込まれ、より一層画面を華やかにしました。
清長は【続絵】も得意とします。
二枚、あるいは三枚でセットとして販売し、つなげるとパノラマ状の絵となる。
単体でもよし。繋げてもよし。そんな斬新な試みでした。

鳥居清長『美南見十二候 六月 品川の夏(座敷の遊興)』/wikipediaより引用
安永年間から天明年間にかけての清長は、時代を映し取るような大胆さ、おおらかさがありました。
描かれる人々はのびのびと人生を楽しんでいるように見える。
手足の長い美人は健康的でいきいきとしている。
【美人画】が有名とはいえ、売れ筋の定番である【役者絵】も手掛けています。
清長の絵は、複数の役者、大道具や小道具まで配置して描かれました。
「所作事」(舞踊劇)が流行すると、劇に欠かせぬ語りの大夫、三味線弾きの姿も描き入れています。
舞台上で演じられる世界だけではなく、リアリティのある舞台そのものを描く作風だったのです。
寛政の挫折を経て、堅実な画風へ
天明5年(1785年)、師である鳥居清満が没しました。
鳥居清長は、鳥居派本来の仕事である歌舞伎の看板絵、番付といった仕事を手掛けます。
本業で名を馳せる鳥居派も、他派の台頭に苦慮している、そんな最中に本来の仕事をしっかりとこなすことで、着実に派を守る誠意がありました。
次の鳥居派は、師匠の孫である庄之助と決まっています。清長はその中継ぎとして、家業を絶やさぬようつとめたのです。
鳥居派は庄之助改二代目鳥居清満へ、無事引き継がれることとなったのでした。
ただし、この路線変更には他の意味合いもありました。
田沼意次の重商政策は、江戸をのびやかな街にしました。

田沼意次/wikipediaより引用
贈収賄への批判、経済格差への不満はあれど、活気があった――天明年間の清長の絵は、そんな世相を反映していたともいえます。
それが松平定信の時代となると【寛政の改革】が始まります。
庶民の娯楽に対して厳しい取り締まりが始まり、クリエイターも庶民も、規制の目をかいくぐる息苦しい時代。
それでも喜多川歌麿は手を変え品を変え幕府の目を掻い潜り、斬新な【美人画】を世に送り出し、売上をますます伸ばしていく。
そんな寛政4年から6年(1792年から1794年)にかけて、清長は【美人画】『十体画風俗』を発表します。
一枚の絵に女性が登場し、様々なポーズを取る作品です。のびやかな肢体の美女は、定番の技法であるといえます。
このシリーズは、喜多川歌麿『婦人相学十躰』のヒットを受け、同じテーマで挑んだ作品とみなせます。様々なポーズを見せる美女という点で一致しているのです。
歌麿のこのシリーズは「“相学”である(人相学である)」だとしてトボけながら、女性の姿を描いたものです。
清長が八頭身の全身を入れるのに対し、歌麿得意の【大首絵】、つまりバストアップでした。
『浮気之相』では、湯屋あがりで胸をはだけた女性が、しどけなく振り返る様を描き、生々しさやリアリティのある歌麿に、江戸っ子たちは軍配をあげました。
そんな歌麿の作品が人気を博して話題をさらう中、清長の作品は一向に売れません。
結果、10枚シリーズの予定が、5枚で打ち切りになってしまい、清長は【美人画】から手を引くことにしました。
同世代の絵師が、同じジャンルで、一致するテーマで売りだす――その大勝負での敗北は、清長の心を折ってしまったのかもしれません。
幕府の目を掻い潜ってまで歌麿には勝てぬ?
晩年になっても、清長は絵筆を執り続けます。
得意とする【美人画】ではないジャンルであがいていました。
【寛政の改革】以降、ますます厳しくなる幕府の規制――その目を掻い潜って絵を描いていても、歌麿を圧倒することはできぬと清長も悟っていたのかもしれません。
しかし、その歌麿ですら、最晩年は過去のヒット作を焼き直しするような苦境に陥っていきました。
「画狂人」と消された葛飾北斎のように、ひたすら己の画業を貫くだけの我の強さがあるわけでもない。

葛飾北斎82才の頃の自画像/Wikipediaより引用
版元、顧客、鳥居派のこと、つまり商売も考える、そんな常識的な人物であったのでしょう。
そして文化12年(1815年)5月21日に死没。
享年64。
文化3年(1806年)に没した歌麿からほぼ10年後のことでした。
★
清長と歌麿は同世代であるものの、画風は清長が一世代前とされます。
鈴木春信と鳥居清長の間に位置する美人画の巨匠・喜多川歌麿は前述の通り「六大浮世絵師」の一人に数えられます。
『べらぼう』での鳥居清長は、蔦屋と歌麿のコンビが挑むライバルとして描かれることでしょう。
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【参考文献】
近藤史人『歌麿 抵抗の美人画』(→amazon)
田辺昌子『もっと知りたい 喜多川歌麿』(→amazon)
小林忠『浮世絵師列伝』(→amazon)
他




