大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎(横浜流星さん)は、本を作って売る版元(出版業者)。
この重三郎とタッグを組んで、売れっ子絵師となるのが喜多川歌麿(染谷将太さん)ですが、二人には恩人となる文化人がいます。
ドラマでは橋本淳さん演じる北尾重政です。
現代では知名度がイマイチな絵師かもしれませんが、重政は北尾派という流派を立ち上げ、歌麿や重三郎の成長には欠かせない重要人物でした。
浮世絵だけでなく書道やその他の文化芸術に長けた、いわゆるマルチ文化人であり、当時の風潮を体現したシンボル的な人物とも言えるのです。
では一体どんな人物だったのか? いかなる事績があるのか?
文政3年(1820年)1月24日はその命日――北尾重政の生涯を振り返ってみましょう。

北尾重政『芸者と箱屋』/wikipediaより引用
本に囲まれて生まれてきた北尾重政
北尾重政や蔦屋重三郎が登場する江戸時代中期以降は、時代背景として見落とせない大きな特徴があります。
実はこのころ、木版印刷が生活に根付き、本の流通量が格段に増加。
地方はともかく、江戸ともなれば民衆の識字率は高く、かなりの教養を身に付けていました。
田沼意次が推し進めた重商主義政策の果実が実り、江戸っ子たちは文化芸術に金を使う余裕が生まれ、その結果、書籍も売れるようになったのです。
それまで長いこと上方こそが文化文芸の本場であると考えていた江戸っ子たちが、自分たちのものを確立したと自信を深めていった時代でした。
そんな時代を迎えつつあった元文4年(1739年)、江戸小伝馬町の書肆(しょし・本屋)である須原屋三郎兵衛に長男が生まれました。
本記事の主人公である北尾重政です。
重政が世を受けた一家は、時代の恩恵を十分に受けた家といえるでしょう。
父の三郎兵衛は、もともと須原屋茂兵衛という大店の版元に仕え、長い年季奉公の末にのれん分けを許されていました。
そのタイミングで出版業の隆盛を迎えたのです。

北尾重政『両国橋納涼図』/wikipediaより引用
「門前小僧習わぬ経を読む」
本に囲まれて、すくすくと育っていく重政。
「門前小僧習わぬ経を読む」
寺の門前にある家で育った子どもは、習わなくてもお経を読めることから、転じて「生育環境が進路に影響を及ぼす」という意味となりますが、重政はまさにその典型でしょう。
絵暦の版下を描き、出版された浮世絵を眺めているうちに、自分でも描けると考えたのか。
どこかの著名な師匠に弟子入りすることなく、独学で絵を手がけるようになり、重政は北尾派の祖となります。弟子入りをせず、独自路線を歩んだのですね。
確かに、彼の画家としての姓は上方の浮世絵師・北尾辰宣に由来します。
しかし、弟子入りをしたわけではなく、そもそも重政は、戦国大名・北畠氏の末裔を名乗っていました。ゆえに「北」が入る画姓をチョイスしたのでしょう。
重政は、役者絵、美人画、武者絵、浮絵(西洋画の技法を取り入れた立体感のある絵)など、様々なジャンルに挑戦。
はじめのうちは独自性は確立されておらず、美人画は鈴木春信を、役者絵は鳥居派を似せたものとなりました。
だからでしょうか、同時代に活躍した絵師と比べると、そう目立つわけでもありません。
彼なりの個性が発揮されたのは安永年間(1772~1781年)あたりからでした。
当時、一世を風靡していた鈴木春信の描く女性像は、儚げでリアリティは不足している。
一方、重政の女性像は、実体感と温かみがあったのです。
鈴木春信よりも地に足がついた作風とも言えますが、重政のことを“絵師”だけで認識していると、彼の足跡はかえってわかりにいものとなります。
それはなぜなのか?

北尾重政『本所五ツ目五百羅漢寺栄螺堂之図』/wikipediaより引用
マルチ文化人・北尾重政
歴史的に見て東アジアの文人には、現代人が混同してしまいそうな特徴があります。
彼らにとって理想の特技とされたのが「琴棋書画」でした。
琴:楽器演奏
棋:囲碁
書:書道
画:絵画
音楽も囲碁も文字も絵も、ぜーんぶ得意になってこそ理想――複数の特技を学ぶなんて高望みだろ、と悲鳴をあげたくなりますが、どれも精神修養の一環とされました。
心を極めればそれが芸に反映されるという考え方です。
現代社会で注目される「マインドフルネス」という考え方も、東アジアの精神修養に由来するとされます。
呼吸を整えて、楽器なり碁盤なり書画なりに向き合えば、自ずと素晴らしいものができあがるという思想ですね。
こうした考え方は、余技に時間を割けるエリート階級に限られてきましたが、時代が進み生活が豊かになると文化芸術をたしなむ層が増え、江戸時代後期には庶民層にまで浸透――そんな歴史の流れがありました。
出版業が広く浸透するにしたがって、文人たちは自身の“マルチ文化人”ぶりを競いあったのですが、北尾重政もまさにその一人。
幼いころから大量の書籍に囲まれ、理解ある家庭環境で育ち、俳諧もこなせば書道も達者だったのです。
江戸の中国趣味ブーム
書道に注目しますと、江戸時代には独特の潮流がありました。
書道には【和様】があり、【かな書道】をいかに流麗に記すか?ということが重視され、上方が本場でした。
京都の朝廷が中心だったからです。
しかし、貴族社会の勢力が弱まるにつれ、洗練されにくくなったともされ、その最高峰は平安時代の藤原行成とされる。
だからでしょうか、現在でも【かな書道】を学ぶ人たちは、行成に近づくことを目標としています。
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かな書道が光る『光る君へ』「三跡」行成が生きた時代
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日本語の実用的な文章となれば漢字とかなが混合され、江戸時代になると【和様】の標準的な事態として【御家流】が定められます。
伏見天皇の皇子・青蓮院尊円法親王が創始したため【青蓮院流】とも呼ばれるこの書体。

尊円法親王/wikipediaより引用
いわば公式フォントであり、公文書から庶民の消息まで、なるべくこの字に近づけることが目標とされました。
藩校や寺子屋でも、この字を習ったのです。
しかし、こうして公式が定められると、敢えて別の字を求めたい需要も湧き上がってくるもので。
【唐様】――つまり、中国の書道家を見本とし、独自性のある字体が流行り始め、ついには江戸時代中期にこんな川柳も出てきました。
売り家と唐様で書く三代目
売り家と中国風の書体で書いているのが三代目だ。
直訳するとわかりにくいのですが、時代背景から読み解くと、こんな意図となります。
本来、書道をやるならば【和様】の【御家流】で十分だろうがよ。
それが気取ってわざわざ【唐様】なんて習いやがって。
それで本業を疎かにして家を売りだすなんてよ、バカなボンボンはどうしようもねェな!
文化芸術にうつつを抜かして家をダメにしてしまうボンボンを皮肉っているのですね。
江戸の街には、こうした人種がかなり増えていたことがわかるでしょう。
わざわざ【唐様】なんて、気障ったらしい、気取ってやがるというニュアンスがあるのですね。
北尾重政も典型的なボンボンでした。ただし家は潰しておりませんが。
篆書も隷書も得意ということは
北尾重政は書道においては三体(楷書・行書・草書)のみならず、篆書と隷書も得意としていました。
日本に書道が伝わったのは、紙と筆が発明されてから――楷書・行書・草書で記すようになってからのことです。
篆書と隷書は、それ以前、木簡と竹簡の時代に用いられていた書体。
つまりは古代中国の難しい字体であり、それをわざわざ学ぶとなると、限られたエリートだけのものとなります。
中国では古代の書体でしたが、日本では江戸時代も成熟してきた頃にエリートが学ぶ書体でした。
それが得意となれば、相当洗練されている証拠といえます。
俳諧も「花藍」という号で嗜んでいます。
しかし重政は生家が書店であり、それだけに真価を発揮するのは本の出版業でした。
単体の絵を売るよりも版本に挿絵をつけ、総合的にプロデュースをしながら売ることで本領が発揮されます。
現代人にとって版元の挿絵は馴染みが薄いものですが、当時はそうともいえません。
安価な【墨摺本】(モノクロ本)は、貸本屋で手に取りやすいもの。
重政の画風は癖が強くないため、馴染みやすい挿絵であったでしょう。

北尾重政『朝顔雨静』/wikipediaより引用
優秀な弟子を輩出して人脈を築く
北尾重政は温厚な性格なのか、多くの弟子を輩出しました。
津山藩のお抱え絵師・鍬形蕙斎となる北尾政美。
戯作者として名をなす山東京伝も、絵師としては北尾政演と号した弟子です。
そして勝川春章とは、家が近所同士でした。意気投合し、親しく、次第に絵を描き合い、切磋琢磨するようになっていったのです。
ドラマでも斜め向かい同士のご近所さんとして登場し、春章と重政が仲良く交流する様が描かれます。
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文政3年(1820年)、享年82というかなりの長寿で亡くなるまで、大勢の人々と交流を続けました。
長命でありながら現存する作品数は多くない絵師ですが、重政の人脈と文人サロンの中心にいた役割は大きいものです。
蔦屋重三郎の人脈を豊かにする彼の姿に注目。
大河ドラマ『べらぼう』を機に、彼の作品鑑賞の機会が増えることも期待しています。
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【参考文献】
小林忠『浮世絵師列伝』(→amazon)
深光富士男『浮世絵入門』(→amazon)
他






